動悸が止まない
眠れない。
いや、正確には――
眠っている“彼女”の隣で、意識だけが沈められない。
腕の中は、いつもと同じはずだ。
軽い体重。
背中に沿う温度。
規則的になり始めた呼吸。
それなのに。
心臓が、うるさい。
どく、どく、どく。
耳の奥で鳴っているみたいに、止まらない。
(……初デート)
さっき、確かに聞こえた。
夢の中かと思うくらい、柔らかい声で。
あの男の名前は、出ていなかった。
それでも、わかる。
“明日”。
その一言に、全部詰まっていた。
――おかしい。
理屈は、いくらでも並べられる。
彼女は自由だ。
学園だ。
友人関係だ。
野外訓練で、距離が縮まるのは当然だ。
全部、わかっている。
それなのに。
胸の奥で、何かが削れていく。
(……俺は、嫁だろ)
言葉にすると、余計に歪む。
でも、そう思ってきた。
幼い頃から。
隣にいるのが当たり前で。
触れる距離が、呼吸の距離で。
いつからだ?
“選ばれる側”だと思い込んでいたのは。
背中に回した腕に、わずかに力が入る。
無意識だった。
彼女は、起きない。
小さく、寝息を立てている。
その事実が、少しだけ救いで、
同時に、残酷だった。
(俺が、何を考えてるかも知らずに)
あの男と笑って。
手を繋いで。
頬に、口付けを受けて。
――目の前で。
胃の奥が、きり、と音を立てる。
動悸が、さらに速くなる。
(……奪われた)
その言葉が、浮かんだ瞬間。
思考が、ひとつ、壊れた。
理性?
そんなものは、後付けだ。
先に動くのは、いつも身体だった。
セナがいる。
ここにいる。
俺の腕の中にいる。
それなのに、足りない。
触れているのに。
温度を感じているのに。
“確定”が、ない。
喉が、ひりつく。
額に、そっと口付ける。
反応は、ない。
頬。
首筋。
鎖骨の近く。
回数が、増えている自覚はある。
でも、止められない。
(……俺のだろ)
声に出さない。
出したら、戻れなくなる。
胸元に顔を埋めて、
彼女の香りを、深く吸い込む。
安心と、焦燥が、同時に流れ込んでくる。
(あの男が触ったところは、もう、ない)
洗い流された。
上書きされている。
それでも、
“明日”が、ある。
彼女は、明日、出かける。
俺の知らない時間を、過ごす。
動悸が、止まらない。
(……次は)
次は、何をすればいい?
答えは、もう出ている。
考える前に、身体が知っている。
逃がさない。
渡さない。
置いていかせない。
背中の温度を、強く感じながら、
俺は、目を閉じた。
眠れないまま。
それでも、腕は、緩めなかった。
――絶対に。




