第73話 凶星②
凶星の足音が、一歩ごとに低く周囲を震わせる。
その巨体はまるで災厄の塊。
肩から背へと走る裂け目からは、赤黒い熾火が音もなく噴き出していた。
熱ではない。
存在そのものが周囲を侵すような、重圧に近い質量を感じさせる。
「磁界制圧」
最初に動いたのは、諏訪隊長だった。
周囲に転がるビルの鉄骨、歪んだガードレール、破砕された街灯――金属の残骸が軋みながら空中に浮かぶ。
それらが意図的に配置されるように動き、凶星の正面に半球状の防壁が組まれていく。
その動きはなめらかで迷いがない。
今にも振るわれるであろう一撃を、正面から受ける準備だった。
凶星が拳を引く。
その動作一つで、空気が濁る。
皮膚の裂け目から炎が噴き上がり、地面の砂利がふわりと浮いた。
振り抜かれた拳が、音速にも近い圧で空間を叩く。
「轟滅拳」
大気が裂ける轟音とともに、空間全体が殴り飛ばされたような衝撃波が広がる。
それはただの風ではない。
熱と圧力、そして破壊の意志が混ざった質量を持つ打撃だった。
直後、諏訪隊長が展開した防壁に、風圧が叩きつけられる。
数トンにおよぶ金属骨材が音を立ててひしゃげ、圧力を受け流すように角度を変えた。
すべてを正面で受け止めず、斜めに、螺旋状に、風を逸らすよう設計された即席の盾。
「ハッハー! やるじゃねぇか!!」
凶星の嬉しそうな声が響く。
その隙をついて、斑鳩姉妹の妹——芙蓉ちゃんが地面に滑り込む。
「腐食促進!!」
凶星の踏み出す方向の位置に手を置き、触れた瞬間、路面のコンクリートが黒く染まりはじめる。
数秒後には小さな亀裂が広がり、地面の一角が脆く崩れ落ちる。
凶星の踏み込みがわずかに遅れる。
え? 凄い……。
まだ入学して数ヶ月なのに、こんなに能力を使いこなせるの!?
だが、それだけでは無かった。
「摩擦制御!!」
さすが双子といった感じの絶妙なコンビネーション。
菖蒲ちゃんも凶星の足元――腐食で崩れた路面のすぐ先、そのわずかな残された地帯に能力を流す。
地面の摩擦が一気に増し、滑らかだった舗装が粘土のように足を取る。
足を出す先の摩擦を操作することで、凶星の次の一歩を鈍らせる。
「チィッ! 鬱陶しいな、おい!」
凶星の身体が微かに傾き、一瞬、動きを詰まらせる。
しかし、それでも止まらない。
強引に地を砕きながら一歩を踏み出し、次の拳を振りかぶる。
「轟滅拳!!」
一乗谷先輩は一歩も引かずに踏みとどまる。
直前、諏訪隊長が周囲の破損した外壁や金属片を操作し、即席の遮蔽物を前方に展開していた。
そのバリケードが風圧を受け止め、衝撃の直撃をわずかにそらす。
一乗谷先輩は轟滅拳の余波を真正面から受け止め、歯を食いしばって吹き飛ばされかけた身体を立て直す。
受け止めた衝撃は、内側に吸収され、蓄積されていくのだろう。
凶星が、再び拳を振る。
諏訪隊長が金属片を引き寄せ、別角度から盾を組み替える。
摩擦制御が地面に干渉し、凶星の次の踏み出しを鈍らせる。
腐食促進が傾いた構造物の支点を崩し、動線そのものをねじ曲げる。
動きを止めるには至らない。
だが、凶星の攻撃は確実に乱されていた。
──凄い。
即席とは思えない連携だった。
僕の能力は、使えば周囲を巻き込む。
それだけに、まだ発動のタイミングを見極めるしかない。
じっと、その時が来るのを待つ。
「……まずいわね」
隣で、諏訪隊長が小さく呟いた。
呼吸がわずかに乱れているのがわかる。
「え……?」
「攻撃を受け流すだけで精一杯。あいつにダメージを通せていないのよ。……それに、私ももう、そう何度も能力を使えない」
よく見ると、諏訪隊長の顔色がわずかに青白い。
あれだけの能力を短時間で何度も行使すれば、負荷がかかるのは当然だった。
「もう一発行くぜ!!」
凶星が肩を引き、大きく拳を振りかぶる。
また来る――さっきと同じ、いや、それ以上の一撃だ。
「轟滅拳!!」
空気が一気に重くなる。
目の前の景色がぐにゃりと歪んだように見えた。
「しまっ――」
諏訪隊長が声を上げて手を伸ばそうとする。
が、間に合わない——!
あの即席の盾を展開する時間はもうない!!
拳が振り下ろされる。
全身が強張る。
ゆっくりとスローモーションのように。
こんなにあっさり終わってしまうのかと、思ったそのとき――
視界の端で、さっと人影が走り出た。
「結合改変」
何事か呟いて、その手が、地面の瓦礫に触れる。
転がっていた鉄骨、割れた標識、折れた街路灯。
あらゆるガラクタが、まるで吸い寄せられるように集まり、その前に集結していく。
そして、くっついて、まとまって、変な形になって……あっという間に巨大な壁のようなものができ上がった。
何がどうなったのか、僕にはよく分からなかった。
でも、その何かが凶星の一撃を真正面から受け止めたのは確かだった。
風圧が襲いかかる。
耳がキーンと鳴り、砂埃が容赦なく顔を叩く。
鉄の塊がきしむ音がして、僕は思わず目を閉じた。
しばらくして、粉塵がゆっくりと落ち着きはじめる。
その中に、ひとつの人影が立っていた。
肩で荒く息をしながらも、こちらを振り返らず、ただ凶星の方を見据えている。
……助かった?
そう思った矢先、視界の端に違和感があった。
壁の端が、妙に丸くて、やけにゴツゴツしている。
「おい、俺の体……なんか固くねぇか!?」
壁の真正面に立っていた一乗谷先輩が、腕を振りながら叫んでいる。
その体が、どう見てもコンクリートか何かの塊に変わっていた。
「ハハッ。あんたにはお似合いでしょ、その姿」
振り返ったその顔に、僕の目が釘付けになる。
――糸月先輩だった。
「お前は……!」
凶星の目がわずかに見開かれる。
「生きてやがったか」
「あいにく、まだやりたいこととかあるんでね」
糸月先輩は肩をすくめながら、軽く笑って返す。
「今度は逃がさねぇぞ」
凶星の声が、地を這うように響く。
その肌を覆う火傷痕の裂け目から、熾火がふつふつと燃え始める。
音もなく、だが確実に。
熱と殺意が、じわじわと空気に染み出していく。
「――!! おい、御影、今すぐあたしらを上空に飛ばせ!!」
突然の、しかし切羽詰まった糸月先輩の声が響く。
その瞬間、久遠寺さんは即座に能力を発動する。
「重力制御」
ふわり、と足元の感覚が消えた。
凶星を除くその場の全員が空中に持ち上げられ、まるで風船のように地面から引き離されていく。
重力が反転したかのような浮遊感。地上が一気に遠ざかる。
それと同時に——
「劫火殲滅」
凶星の全身が、裂けた火傷痕の隙間から火柱を噴き上げる。
赤ではない。
黄でも、橙でもない。
眩いほど白く、そして中心は黒すぎるほど黒い炎が、地面を中心に一気に広がった。
一瞬で地表が焼けた。
建物の骨組みが融け落ち、アスファルトが波打つ。
その火が触れたものは、形を保ったまま、静かに、確実に、黒い灰へと変わっていく。
目に映る範囲すべてが灼熱に包まれ、景色そのものが塗り替えられる。
凶星の全身から放たれる業火が、世界を飲み込んでいく。
浮かび上がった僕たちの足元で、かつて地面だったものが次々と崩れ落ちていく。
焼け焦げた熱風が上昇気流となり、空中にいる僕たちの頬をなぶった。
「あぶねぇ……マジで死ぬとこだったぜ」
糸月先輩が額の汗を乱暴に拭い、ほっと息をつく。
「お、おい、糸月! お前、一体今までどこに――」
一乗谷先輩が声を荒げかけるが、糸月先輩は軽く手を上げ、それを遮った。
「ああ、細かい話はあとにして。今はあいつをぶっ殺さねぇと」
下では、凶星がまだ燃え残る地表にゆっくりと立ち尽くしている。
全身から立ち上る熾火は衰える気配を見せない。
「し、しかしどうする?」
一乗谷先輩が顔をしかめながら問うと、糸月先輩はニヤリと笑って見せた。
「あんた、もう大分、衝撃は溜まってんだろ?」
「ん? ああ、そうだな。多分、限界超えてる気がする。鉄みたいな体になってるからよく分からんが」
「じゃ、それで一発ぶちのめして――」
そう言って、今度は僕をまっすぐに見る。
「で、出雲崎。お前の燃やす力は、あいつより強いよな?」
「え? いや、それは……どうなんですかね?」
目を逸らしかけたその瞬間、糸月先輩の視線が鋭く突き刺さる。
逃げ場はなかった。
「強いよな?」
「――はい」
一乗谷先輩が、空中から凶星に向かって声を張り上げる。
「おい、凶星!! お前、自分の拳の衝撃を返してくれと言ってたな!! 今から返してやるから逃げんじゃねぇぞ!!」
その言葉に、凶星は唇を吊り上げ、顔いっぱいに笑みを広げる。
「ガハハハ!! 当たり前だ!! とっとと来い!!」
その声が届いた瞬間、一乗谷先輩が低く呟く。
「満力解放」
久遠寺さんの重力制御から外れ、重力に引きずり込まれるように真っ逆さまに落ちていく。
ただの落下ではない。
全身に蓄えた衝撃を拳に込め、流星のように一直線に。
焼け焦げた地表が迫る。
辺りには、熱で歪んだ鉄骨や半壊した構造材が散乱し、ところどころに火の粉が燻っていた。
灰と鉄、焦土の断片が、かろうじて街の形を留めている。
そして――
一乗谷先輩の拳が、凶星の胸元に炸裂した。
音が消えたような静寂ののち、地面が爆ぜた。
鉄骨が跳ね上がり、破片が飛び散る。
凶星の巨体が真下にめり込み、周囲の地表が放射状に陥没する。
焼けた鉄と土が混ざった破片が大きく宙を舞い、まるで爆心地のような光景が広がった。
巨大なクレーターが新たに穿たれていた。
その中心に、崩れかけた姿で膝をつく凶星。
全身からは、湯気のように白い蒸気が立ちのぼっている。
その巨体から、ついに力が抜け始めているのが分かった。
「重力制御」
久遠寺さんの静かな声とともに、空気の流れが切り替わる。
一乗谷先輩の身体がふわりと浮かび、ゆっくりと上空へ引き戻されていく。
その代わりに、僕の体が滑るように降下を始めた。
焼け焦げた熱気が肌を刺し、鉄の匂いが喉に張りつく。
下には、変形した構造材や砕けた鉄骨。爆心地の名残がまだあちこちで燻っていた。
「核熱爆散」
呟いた瞬間、右手を地面に押し当てる。
触れた鉄骨が一瞬で赤熱化し、表面が光を帯びて脈動を始めた。
まるで鼓動のように、エネルギーが内部に溜まり、物質そのものが変質していく。
複数の破片に次々と触れる。
それぞれが同時に発光し、空中に浮かび始めた。
暴走ではない。きちんと制御している。
まるで星を集めるように、膨大な核が僕の背後に並ぶ。
視界が揺れる。空気が震える。
爆発の気配に、凶星が顔を上げた。
「……テメェ、何を――」
言葉の途中。
僕は左手を握りしめた。
一斉に、光が弾ける。
巨大な閃光とともに、爆裂が連鎖する。
空気が焼け、音が追いつかないほどの速度で衝撃が拡散する。
熱と閃光が入り混じり、地面そのものが裂けるような咆哮が響き渡った。
爆心地の中心で、凶星の体が巻き込まれる。
あらゆる方向からの爆発が彼を包囲し、逃げ場はどこにもない。
巨体が灼熱に晒され、内部から崩れていく。
「グアアアアアアアアアアアアアアァァッ!!!!!」
断末魔。
絶叫が、爆風の中で押しつぶされる。
最後に、眩い光の柱が空に突き抜けた。
それが消えたとき――焼け焦げた地面の中心に、凶星の姿はもうなかった。
残ったのは、黒く焼け焦げた輪郭だけだった。




