第71話 新世界の繭
『終末の灯火』に入信した者たちは、必ず洗礼を受けなければならない。
だが、その儀式の具体的な内容を知る者はいない。都内近郊にあるという施設で執り行われるらしいが、詳細は伏せられたままだ。
洗礼を終えた者は、布教のため全国へと派遣されていくという。
ただし、急増する入信者に教団の対応は追いついておらず、八雲の洗礼日は一カ月以上も先になる見込みだった。
「あんたはもう洗礼、終わったのか?」
廊下の先に立っていた男を見つけた八雲が、足を止めて声を掛けた。
入信初日に入口で声を掛けてきたあの男だ。
今日も変わらず、死人のような笑顔を顔に張りつけたまま、じっとこちらを見ている。
「私は来週だよ」
男はゆっくりと答えた。
口元の笑みは崩さず、だがその目はどこか焦点が定まっていなかった。
「いよいよ洗礼を受けられるかと思うと、そわそわしてしまって落ち着かないよ」
「色んなとこでボランティアやってる連中は、もう終わったのか?」
「うん、終わった者もいれば、まだの者もいる。順番だからね」
男は表情を変えぬまま、淡々と話をつなげた。
「私はできれば地元の北陸に派遣されたいな。寒いけど、やっぱり故郷がいい」
「洗礼式では絶夢様に会えるんだよな?」
「いや、絶夢様はお忙しいからね」
男は、少しだけ首を横に振る。
「式に毎回いらっしゃるわけじゃないよ。全てを把握されているとは聞いてるけどね」
「ま、そりゃそうか。で、普段は何してるんだ? 入信すれば救ってくれるって話だけど、実際に何をしてるのかは、まだ聞いてなくてさ」
男の顔から、わずかに色が引いたように見えた。
それでも笑顔は保ったまま、声のトーンを少し落として言った。
「……我々のような末端が、絶夢様の御働きを詮索するなんて、おこがましいよ。今こうして凶の災禍から逃れて過ごせている、それが救いじゃないか」
「まあ、そうかもな」
八雲は肩をすくめ、探る意図を悟らせぬよう軽く笑ってみせた。
「そういえば、小石川植物園には、よく視察に行かれてるみたいだよ」
男は何か思い出したように付け加える。
「そこで何か大きなことを始めようとしているのかもしれない」
「へえ、その様子を見学することは出来るの?」
「特に規制されてはいないと思うよ。ただ、持ち場の仕事を終えてからにしてくれよ?」
「分かってる。ちゃんと後にするよ」
◆◆◆
夜の小石川植物園は、どこか周囲と断絶されているような雰囲気だった。
災禍で人の気配が薄れた街にあって、園内は変わらず手入れが行き届いており、門越しに見える樹々の輪郭もきちんと整えられているように思われた。
ただし、東京23区のほぼ中央という立地を思えば、周囲の静けさは異様なくらいだった。
中に入ると、外観との印象は違い、崩れかけた歩道や封鎖された建物の合間に、この空間だけが日常から切り離されたかのような、不思議な感覚。
遠目に見れば平穏そのものだが、目を凝らすと、どこか違和感のようなものが残っていた。
八雲は園路を歩いていた。
ぬるい風が首筋を撫で、湿った空気が肌にまとわりつく。
足元には乾きかけた葉と実が散り、草のあいだから蝉の抜け殻が顔をのぞかせている。
遠くで、猫のような鳴き声が一度だけ響いた。
道がゆるやかに曲がった先で、八雲は立ち止まる。
林の奥に、違和感を覚えた。
周囲に誰もいないことを確認すると、ゆっくりとそれに向かっていく。
近づくにつれ、空気がわずかに変わる。
湿気とは違う、重さのようなものが肌にまとわりついてくる。
林の奥、木々の間にぽっかりと空いた空間に、それはあった。
直径十メートルほどの球体。
全体が濃く凝縮された闇で覆われていて、輪郭ははっきりしないのに、形だけは確かに球だとわかる。
表面は動かない。
ただ、そこから滲み出る何かが、空気ごと這うように広がっていた。
草は伏れ、枝が軋む。
生き物の気配は消え、音さえも遠ざかっていくような違和感。
「何だ……これ?」
思わず独り言のように口をついて出た。
「新世界の繭、と私たちは呼んでいる」
突然、背後から投げられた声に、八雲の心臓が激しく跳ね上がる。
反射的に全身に警戒を巡らせ、振り向いた先に立っていたのは——
月光をそのまま溶かしたような銀色の髪。深い森の奥を思わせる緑の瞳。
神聖さと、底なしの不穏さが同居している中性的な存在。
「ここは東京の真ん中だろう? エネルギーを集めるには、なかなか都合がいい」
それは、八雲の警戒など気にも留めず、あくまで雑談のように言葉を継ぐ。
「新世界の繭……? あんたも『終末の灯火』の人間なんだよな?」
「人間——ではないが、その団体は私が作った」
その言葉が脳に届くより先に、八雲の背筋が冷たくなった。
銀の髪、緑の瞳、そしてこの圧倒的な禍々しさ——情報が線を結び、答えが一つに浮かび上がる。
「……お前が夜刀か」
「ほう、私を知っているか」
夜刀の瞳が細められ、翠の光が静かに脈打つ。
その瞬間、八雲の心の奥に、何かが滑り込んできた。
恐怖というにはあまりに根深く、ぞわぞわとした何かに侵食されていく。
「な……何が……目的だ……?」
視界が揺れ、足元の地面が遠くなる。
体中の細胞が「逃げろ」と叫んでいるのに、全身が凍りついたまま動かない。
「ただの暇つぶしさ」
夜刀は笑った。
そして、そのまま背を向け、黒い夜の奥へと溶けて消えた。
八雲は、その場にへたり込んだ。
膝が砕けたように力を失い、地面に手をつくことしかできなかった。
呼吸が浅く、喉の奥で何かが引っかかる。
全身の毛穴から汗が噴き出し、背中を伝う熱が服に貼りつく。
心臓は痛いほど早く、鼓動の音が頭の内側に響いている。
だが何より厄介だったのは、止まらない震えだった。




