第65話 女神の祝辞
4月8日。
第12回・国家戦略高等専門学校の入学式。
今年も桜が舞っている。ただ、空はどこか薄暗い。
凶の大量襲来は、何故か東京でだけ繰り返されている。
毎回の討伐は深夜にまで及び、明け方の空は重く、鈍い灰色に染まっていた。
夜が明けても晴れることはなく、むしろ討伐を重ねるごとに、その灰色は深くなっていく。
まるで空そのものが、何かを吸い込みながら濁っていくかのようだった。
澱のように広がるその濁りは、街に静かに積もっていき、空気にまで染み出している。
呼吸をするたび、胸の奥に何か冷たいものが差し込む気がした。
あの日、突如として現れた「終焉の灯火」という団体が関係しているのは明らかだった。
けれど、それを裏付ける確かな証拠は、いまだ掴めていない。
今年の新入生は32名。
例年よりやや多いが、極級はいないらしい。
……と言うか、僕と護国君が連続したのが、そもそも例外だった。
その代わりに、特級が3人いるという。
しかもそのうち二人は、双子らしい。
真偽の程はまだ分からないが、話題になっていた。
凶の討伐で、維持局も高専も消耗している。
実戦投入は少し先になるとはいえ、特級レベルが3人も増えるのなら、期待せずにはいられない。
一乗谷先輩の卒業後、祝辞を任されたのは僕ではなく、久遠寺さんだった。
久遠寺さんもまた、特級異能師として見習いを卒業し、正式に認定されている。
本当に助かった……。
人前で話すなんて、僕に出来るわけがない。
◆◆◆
久遠寺御影が壇上に上がった瞬間、新入生たちの間にざわめきが広がった。
それは歓声ではなく、驚きと戸惑いが混ざった、静かな動揺だった。
遠目でも分かる。
誰もが見惚れるほどの顔立ちに、一切の無駄がない立ち姿。
一瞬で視線を奪う、非現実的なまでの美貌。
漆黒の長髪は、歩くたびに光を受けて艶めき、まるで重力に逆らうようにふわりと揺れる。
肌は陶器のように滑らかで、光を受けてやわらかく輝いていた。
そして――月の光を映したような瞳が、静かに新入生たちを見下ろす。
ざわめきはぴたりと止まり、皆、彼女の言葉を待っていた。
「新入生の皆さん、入学おめでとうございます。ご存じの通り、今、日本は未曾有の危機に直面しています。凶の襲来は続き、日々、私たちは命を賭して戦っています。そんな中、この国を守るために、皆さんがここに加わってくれたことを、心から嬉しく、そして心強く思っています。これから始まる日々は、決して平坦ではありません。けれど、あなたたち一人ひとりが、未来を変える力になると私は信じています。」
体育館の入口には、物陰に隠れてスマホを構えるひとつの影。
仙崎詩織は、久遠寺御影の祝辞という伝説級のイベントを、この目で見届けずにいられるわけがなかった。
『御影様……ッ! 今日も異次元……! ていうか登壇した瞬間、なんか空気変わったよね!? 静かになったとかそういう次元じゃなくて、場の密度が上がった感じ!? え、これが……神気……!? いや御影様のオーラか……!? 尊すぎて空間ごと浄化されてるってこと……!? あの髪! 揺れ方完璧! ていうか光の当たり方も美術館の展示物級!! いや展示していいのよ!? むしろ常設して!? 国宝でしょ!? そしてこの声!!! 一言で世界が静まるってこういうことなのね!? あっこれ教科書載せられるやつだ! 圧倒的存在感により会場が沈黙した例で使えるやつだ!!』
スマホを構えてはいるが、視線は画面ではなく壇上の御影に釘付けだった。
録画はきちんと続いている。それは分かっている。
けれど、目の前で言葉を紡ぐその姿を見ていたら、もう何も考えられなかった。
ただ見ていた。見続けるしかなかった。
御影がひと言発すれば、そのたびに心が揺さぶられる。
耳に届いた瞬間、意味より先に感情が胸に広がっていく。
自分の時間が止まったように感じるのも、無理はなかった。
あの壇上にいるのは、人間ではなく女神――そう信じて疑わなかった。
◆◆◆
凶災が続く中で、行政は手が回らず、秩序も限界を迎えつつあった。
そんな中、「終焉の灯火」の名を掲げた施設は、日に日に数を増していった。
避難所、炊き出し場、臨時の医療拠点――どれも表向きは、公的機関の代わりとなる支援施設だった。
そんな場所が、いつの間にか街のあちこちに立ち上がり、人々を受け入れていった。
人々は疲れ、迷い、立ち止まる余裕も失っていた。
そこに行けば何かがある――そんな風に思わせる、妙な引力のようなものがあった。
少なくとも「何か」が与えられる。
寝床でも、食事でも、言葉でも――たとえ真偽がどうであれ、それは救いに見えた。
そして、今日もまた、誰に咎められることもなく、彼らは一人、また一人とその中へと吸い込まれていく。
誰もそれを不思議には思っていなかった。
受け入れ施設は、街のあちこちに点在している。
それでも、あの数の人間を、毎日のように受け入れ続けるだけの余裕が本当にあるのか――そんな疑問が、語られることはなかった。
見て見ぬふりをしているのか、それとも本当に誰も気づいていないのか。
曖昧な沈黙だけが、街に溶け込んでいた。
先に入った者たちは、今も施設の中に留まっているのか。
あるいは、一定の人数に達した時点で、どこか別の場所へと移されているのか。
だとすれば、その「どこか」はどこなのか――誰も確かめようとはしなかった。
知ろうとしなければ、知らずに済む。
そして多くの者が、その選択をしていた。
教団の施設には、昼夜を問わずトラックが出入りしていた。
荷台には、何かが積まれ、何かが運ばれている。
だが、それが何なのか、気にする者はいなかった。




