第63話 世界は、静かに沈み始めた
大量発生した凶の討伐が終わったのは、日付が変わる直前のことだった。
ビルの壁は崩れ、骨組みがところどころ覗いている。
割れた窓ガラスが地面に散らばり、踏みしめるたびに乾いた音を立てた。
焼け焦げた匂いが鼻をつき、倒れた外灯や裂けたアスファルトが通りを塞いでいる。
あちこちで火の手が上がり、黒い煙が空に滲んでいた。
そこに日常の名残はほとんど無く、まるで、無数のミサイルが同時に撃ち込まれた後のような、地獄だった。
僕が帰還用のヘリに向かおうとしたそのとき——
「え? 一乗谷先輩が?」
耳に飛び込んできた言葉に、思わず立ち止まった。
「ああ、意識不明で発見された。病院に搬送されて、今は集中治療室にいる」
氷室さんは落ち着いた口調だったが、言葉の端に沈んだものが滲んでいた。
「今の僕らなら、よほどの不意打ちでもなければ凶度3の攻撃でそこまでのダメージは……」
「恐らく、凶度4だろうな。かつて嵯峨野と白神が遭遇したという個体か、もしくは別の未確認——」
「……銀色の髪に、緑色の目をした奴ですか?」
氷室さんが目を見開く。
「知ってるのか!?」
「去年の裏能祭で会いました。……僕の力が、まったく通じなかったです」
思い出すだけで背筋が冷たくなる。
その気になれば、あの場で僕の命は簡単に消えていた。
「なんだと……初耳だぞ? お前の力が通じなかったって? 今度、詳しく話してくれ」
「分かりました」
そう答えると、氷室さんは無言で僕の肩をポンと叩き、背を向けて歩き出した。
その背中は、静かな怒りとどうしようもない無力感が同居しているように見えた。
やがて、帰還用のヘリが頭上に近づき、ローター音が荒れ果てた街に響き渡る。
乗り込んだ機内から見下ろす光景は、さっきまで自分たちがいた場所とは思えなかった。
炎と瓦礫に埋もれた夜の街が、音もなく遠ざかっていく。
——そして僕たちは、思い知ることになる。
今夜の出来事が、突発的な惨事などではなかったことを。
それが、ただの始まりでしかなかったことを。
凶の大量襲来は、翌日また発生した。
今度は荻窪だった。
◆◆◆
連日の出動に、さすがの特級異能師たちも疲れは隠せなかった。
昨日のデジャブかと思うような街の光景。そして惨状。
荻窪の駅周辺は瓦礫の山と化し、商業ビルの一部は丸ごと崩落していた。
任務が終わっても、誰一人として口を開かなかった。
誰もが肩で息をしながら、ただ無言で空を見上げていた。
その様子を、駅ビルの屋上から静かに見下ろしている影が二つあった。
一つは異様に大きな赤い体躯。
もう一つは、月光をそのまま溶かし込んだような銀髪を風に揺らす、中性的な人物だった。
「いいのか? せっかく溜まってきたエネルギーを滓どもの召喚に使っちまって?」
赤い巨体――凶星が、隣に立つ夜刀へと問いかける。
「構わないさ。これは初期投資のようなもの。いずれもっと大きなエネルギーとなって我々に戻ってくる」
夜刀は口元に微かな笑みを浮かべたまま、遥か下で消火活動を続ける人影を見つめている。
「そうなのか?」
「今はまだ種を撒いてる段階さ。人々の恐怖や不安を育てることにより、絶夢の仕事が捗ることになる」
「ほう。で、お前の研究の方はどうなんだ? 場所もアシスタントも確保できたんだろ?」
「順調だよ。コントロールが効くギリギリのラインの見極めまで、あと少しといったところだ」
遠くでまた一つ建物が崩れ落ち、火の粉が夜空に舞った。
◆◆◆
年が明け、二月を迎える頃には、東京の空気はすっかり変わっていた。
街全体が重く、どこか陰を帯びていた。
人々の足取りは鈍く、声も少ない。
既に東京を離れ、関東近郊へ引っ越す者も現れ始めていた。
次の凶大量出現が、いつ起きてもおかしくない。
その不安が、街の隅々にまで染み込んでいた。
焦りと恐れに突き動かされるように、食料や水が買い占められ、誰もが何かに縋りたがっていた。
救いを求める声だけが、日ごとに静かに膨らんでいた。
SNSには、不安を吐き出す言葉や、祈るような書き込みが少しずつ増えていった。
拡散されていくその声は、やがて見知らぬ誰かの共感を呼び、同じ言葉が連鎖していく。
小さな呟きが、ゆっくりと、広がり始めていた。
それらの投稿を、どこか遠くから見下ろすように眺めていた影があった。
モニター越しではない。
画面の向こうにある群集の心そのものを、じかに覗き込んでいるかのように。
「……さて、そろそろかな」
絶夢の黒い瞳に、妖しい光が灯る。
◆◆◆
3月1日。
何の前触れもなく、日本中の通信が、一斉に途絶えた。
テレビ、パソコン、街頭ビジョン、スマートフォン──
あらゆる画面が一斉にノイズを発すると、街の喧騒が消え、静けさだけが残った。
ノイズが途切れると、すべてのスクリーンに、同じ光景が映し出された。
淡い光に包まれた空間の中、赤いメッシュの入った長い黒髪がゆらめく。
そこには、幻想的な雰囲気をまとった若い女性が静かに佇んでいた。
無垢な笑みを湛え、その表情には一片の悪意も見えない。
その妙な穏やかさが、見ていた人々の心にじわりと染み込んでいく。
胸の奥に、静かな安堵が広がり始めた。
──絶夢。
人々は、まだその名を知らない。
けれど、どこかで悟っていた。
この存在は、理屈では抗えないものだ――と。
絶夢は、まるで秘密を打ち明ける子供のように、楽しげな声で語りかけた。
「ねえ、知ってる? もうすぐ全部、きれいになるんだよ」
その声は、穏やかで優しい。
「この世界を超越した存在による浄化の日が来るの。運命に抗う者は粛清されちゃうよ」
その言葉は、すべての者の脳内へ、直接、侵食していく。
ほんの一言、ほんの数秒。それだけで空気が変わった。
さっきまで胸にあった安堵は、その言葉の内容を理解した瞬間に消えていた。
静かに、だが確かに、不安が心を締めつけていく。
人々は、ただ立ち尽くしていた。
告げられたその一言が、何を意味するのか。
絶夢は、街に広がる人々の動揺を、まるで自分のもののように感じ取っていた。
それは確かな支配の手応えだった。
人々が静かに崩れていく感覚を、子供が遊びの中で砂を崩すような笑みで見つめながら。
彼女は言葉を続けることなく、ただ飄々と、小さく手を振った。
日本という、この国全体に向けて。
映像はそこで途切れ、すべての画面が暗転した。
──世界は、静かに沈み始めた。
終焉に向かって。




