第61話 宴、再び
12月。
東京の街に、得体の知れない異物が静かに紛れ込みはじめていた。
『終焉の灯火』という名を知る者は、まだ殆どいない。
けれど、この街のどこかで、その痕跡に触れた者は確かに存在する。
誰が作ったのかも分からない奇妙な符号が、雑居ビルの掲示板や駅構内のデジタル広告の隅に、まるで誤植のように紛れ込んでいる。
あるいは、使い捨てのQRコード付きポストカードが、カフェのテーブルやコワーキングスペースの机に、持ち主不明のまま残されていることもある。
ほとんどの人は気にも留めない。
だが、ごく一部の者は、その片隅に印字された
『終焉の灯火は、選ばれし者にだけ灯る』
という言葉に引っかかりを覚え、なぜかその文句が頭から離れなくなる。
時に、それらの中に、明らかに意味を持った言葉が混じっていることがある。
曰く——救済の場所がある。
曰く——世界の終わりを正しく迎える方法を知っている者たちがいる。
曰く——あなたの苦しみは、あなただけのものではない。
それが誰に向けられた言葉なのかは分からない。
けれど、不思議と、読み手の内側に静かに染み込んでいく。
文面には、どこか宗教めいた響きがあった。
しかしそれは、心の隙間にふっと入り込み、居座る。
気づけば、感情でも理性でもない場所に、奇妙な残響だけが残っている。
ほんのわずか、自分の意志が、自分のものではないように感じる。
それは、文そのものに刻み込まれた、絶夢の力の破片。
意志を奪うのではない。
思考の流れに、ひとしずくだけ別の色を落とすような。
そんな微細な侵入が、すでに始まっている。
何が終わるのか、どう救われるのか、その核心には一切触れていない。
ただ、曖昧さの中にだけ、確信に似た感覚が残る。
新宿。池袋。上野。
喧騒を少し外れた、古びたビルの上階。
名目上は、とある不動産会社の社長が個人的に貸し出している物件だが、実際にはその男の意識はすでに絶夢の支配下にある。
『終焉の灯火』の計画は、第二段階に着手し始めていた。
拠点は確保された。
都市に満ちる不安は、今もじわじわと沁み出している。
心の奥に生まれたわずかな隙間に触れ、その感情をゆっくりと膨らませながら、静かに支配を始める。
照明を落とした室内で、絶夢は椅子に腰掛けている。
目の前には何もない。ただ、静かに目を閉じるだけでいい。
街に満ちる焦燥や空虚、それらの名残が、かすかな残響として空間に浮かび上がる。
絶夢はそこに意識を沈めていく。
迷い。喪失。怒り。孤独。
街のどこかでこぼれた感情のかけらを、彼女は静かに拾い上げていく。
たとえば、オンライン会議を抜けたあと、モニターを睨みつけたまま動かない男。
誰もいないリビングで、開けかけの段ボールに手を伸ばせずにいる女。
社内チャットの送信ボタンに指を置いたまま、動けなくなった研究職の男。
絶夢は、そうした不安の沈殿にそっと触れる。
心の奥にある重みを、少しだけ増やしてやる。
言葉にできない焦りが、ゆっくりと思考の向きを変えていく。
本気でやろうと思えば、思考ごと捻じ曲げることもできる。
けれど今はまだ、受け入れ先の施設が整っていない。
無理に動かしても、置く場所がない。
だから今は、ゆっくりと仕込みながら、その時を待っている。
目立った勧誘は一切しない。
しかし、いつからか街の片隅で、見えない何かが広がっている──そんな噂が囁かれはじめた。
SNSで一度だけ拡散された謎の投稿。即座に消された動画。
それを「確かに見た」と証言する者が、ごく少数ながら存在する。
「なんか、夜中に声が聞こえたんだよ。『終わりは近い、だけど恐れるな』って」
「終焉の……なんとかって名前、どっかで……いや、気のせいか?」
街の雑音に紛れて、それらはやがて「ただの噂」として片づけられていく。
けれど、消えていくはずのその言葉が、どこかで引っかかる。
たとえば、ビルのガラスに映った自分の顔が、ほんの一瞬だけ他人に見えたとき。
あるいは、見覚えのない広告が、いつの間にか電車内に貼られていたとき。
理由はない。
ただ、何かがおかしい――そんな感覚だけが、あとを引く。
その夜、夜刀は、自室のある高層マンションの屋上に立ち、赤くまたたく街の明かりを見下ろしていた。
無数の光が、誰かの焦りや欲望を映すように、闇の中に滲んでいた。
「さて、そろそろ君の出番かな」
夜刀は静かに振り返る。
ソファには、凶星の巨躯が沈み込んでいた。
ひと目見ただけで空気が揺れるような、圧倒的な存在感。
「滓どもを召喚するのか?」
「ああ、大量に頼むよ。一年ぶりのパーティーだ」
◆◆◆
12月20日。
凶星は新橋に現れた。
軍服を思わせる長いコートに、2メートルを超える巨体。
赤茶色の髪に、紅蓮の瞳。
それだけで、人混みの中でもひときわ目を引く。だが、誰も目を合わせようとはしない。
通りがかりのサラリーマンたちは、すぐに視線を逸らして通り過ぎていく。
こんな厄介そうな大男に絡まれては、人生が終わると本能で理解している。
「さーて、始めるぞ」
凶星はつぶやくと、右手をゆっくりと天に突き出した。
何の前触れもなく空が歪む。
一点を中心に、黒く、穴のように思える球体が浮かび上がった。
空間が丸ごと抉れたような異常。
通行人たちは、その意味を理解できず、ただポカンと空を見上げるだけ。
黒い球体は、音もなく膨張していく。
ゆっくり、しかし確実に。
——パンッ。
乾いた破裂音と共に、球体が弾けた。
次の瞬間、空から黒いものが降り注いだ。
最初は何かの破片か、焦げた塊のようにも見えた。
だがそれらは、重力に従って真っすぐ落ちてくるのではなく。
空中で姿勢を変えながら、じわじわと地面に向かってくる。
そして気づく。
落ちてくるのは、人の形をした何か——凶だ。
黒く滲んだ皮膚。ろう細工のように不自然な肌。
突き出た骨、異様に長い手足、ぎこちなく動く関節。
人間の形に似せて作られた、異形の群れだった。
そしてそれらは、叫びながら落ちてくる。
意味のあるような、ないような。
言葉のかたちをした音。
あるいは、それを真似た何か。
裏能祭の時とは違う。
ここには、戦える異能師はいない。
100体を優に超える凶度3たちが、新橋の地に舞い降りた。
そして——
宴は始まる。




