第57話 終焉の始まり
ふらつく足取りで、嵯峨野は研究所へ戻ろうとした。
月明かりが、じっとりと滲む空を照らしている。
そのとき——
裏口から逃げ出す人影が、視界の端に映った。
「……ちっ」
舌打ちとともに、嵯峨野はふらつく足を無理やり動かす。
人影は駐車場へ向かって走っていた。
嵯峨野の気配に気づいた粟国は、振り返るとさらに加速し、車に飛び乗る。
震える手でエンジンをかけ、必死に逃走を試みる。
しかし——
「空間断裂」
静かに呟いた瞬間、車体は運転席を境にして、音もなく真っ二つに裂けた。
金属が軋む音とともに、粟国が転がり出てくる。
腰が抜けたのか、立ち上がることすらできない。
嵯峨野はゆっくりと歩み寄った。
乾いた靴音が、夜の静寂に響く。
「どこに行くつもりですか? 聞きたいことが山ほどあるのに」
「ひっ……わ、分かった! カギを渡す。秘密の研究室だ、ここの地下に……!」
粟国は震える手でカギを差し出した。
その顔からは、いつもの余裕が跡形もなく消えている。
受け取りながら、嵯峨野は冷たく言い放つ。
「どうせ、これだけじゃ入れないんですよね? 生体認証も仕込んでるはず」
図星を刺され、粟国はあからさまに動揺した。
「何をやってたんだ、その地下で?」
「じ、人類の進化だ! 異能の出力強化と——」
「違う」
鋭い声が、粟国の言葉を断ち切る。
「拉致した潜在異能者たちに、何をしていた?」
粟国の顔に冷たい汗が滲む。
「く、凶の残滓を注入し、強制的に覚醒を……」
「それで、どうなる」
「成功すれば、特級クラスの出力が得られることも……!」
「代償は?」
「凶人化、精神崩壊……だが、それも進化の過程に過ぎない! 実験を繰り返すことでそのような副作用も——」
「失敗した人間たちは?」
問われ、粟国の視線が泳ぐ。
「し、仕方なかった! 社会には戻せない……処分するしか……!」
「……腐ってるな」
淡々と、吐き捨てるように。
嵯峨野は右手を突き出し、異能発動の構えを見せた。
「ま、待て! 私を殺してどうする! 君が受けた『夜刀の呪い』は、私がいなければますます——!」
その言葉に、嵯峨野は一瞬だけ動きを止めた。
粟国はすがるように続ける。
「そ、そうだ! 冷静になれ……! 君も分かっているだろう? 私がいなければ、その呪いはますます進行していく……!」
粟国は必死に言葉を紡ぐ。
「君も長生きしたいのなら、私に協力するしかない! これからは……白神君の代わりに、君が私の——!」
「空間断裂」
囁きと同時に、粟国の身体に縦一文字の亀裂が走った。
鮮血が夜空へ向かって舞い、地面へと崩れ落ちる。
生ぬるい風が吹き抜け、月光が赤く染まった地面を静かに照らす。
嵯峨野は、月明かりの滲む夜空を見上げ、呟いた。
「俺の命がどうなろうと、あんたを生かしておく理由はない」
そして、ひと呼吸置き、口元に微かな笑みを浮かべる。
「それにもう、俺の代わりを務められる奴はいる」
月はただ静かに、夜空を満たしていた。
◆◆◆
嵯峨野は、静まり返った研究棟を進んだ。
目指すは、粟国の研究室。
歩を進めるほど、空気はじわじわと粘りつき、異様な重さを増していく。
──地下に秘密の研究室がある。
粟国はそう言っていた。
研究室へ入り、静かに扉を閉める。
整然と並ぶ機材、書棚、端正にまとめられたデスク。
一見して、何の異常もない。
だが、整いすぎたその景色を改めて眺めてみると、逆に違和感を覚える。
嵯峨野は指先で棚に触れ、軽く押し、机の脚元を手でなぞる。
床にもそっと足を滑らせ、踏みしめる感触を確かめる。
わずかな違和感や、微かな音の変化を逃さぬよう、細心の注意を払って探っていった。
やがて、壁際に並ぶ書架、その最奥。
そこだけ、空気の流れが異なる。
嵯峨野は本棚に手をかけ、押し引く。
重たい軋みとともに、棚がわずかにずれた。
奥に隠されていたのは、冷たく鈍い光を放つ金属扉だった。
ポケットから、粟国から受け取った認証キーを取り出す。
端末に差し込むと、静かにロックが解除される。
内側には、下へと続く螺旋階段。
瘴気のような重苦しい気配が、肌をなぞる。
一歩、足を踏み入れる。
すると、階段の縁に沿って設置された照明が、自動でカチ、カチ、と音を立てながら、順番に灯っていく。
闇の中に、細く淡い光の道が伸びる。
灯りは必要最低限の明度しかなく、むしろ影の深さを際立たせる。
階段を降り切った先、待っていたのは、さらに厳重な扉。
もはや認証キーでは開かない。
嵯峨野は立ち止まり、静かに右手を掲げた。
「空間断裂」
抑えた声とともに、空間を裂く力が放たれる。
一筋の光が走り、厚い鋼鉄を音もなく真っ二つに切り裂いた。
ギィ、と軋む音を立てながら、扉は開かれる。
地下の空間は、思った以上に広かった。
コンクリート打ちっぱなしの無機質な壁。
天井には配管と蛍光灯が無造作に走り、ところどころで薄い灯りを落としている。
部屋の中央には、巨大なカプセルが並ぶ。
まるで医療用の酸素カプセルを思わせる形状。
分厚い強化ガラス、内部を循環する謎の液体、微かに唸る駆動音。
カプセルの中には、人間がいた。
全身にチューブを接続され、瞼を閉じたまま静止している。
呼吸は浅く、肌は青白く変色していた。
時折、指先が微かに震える。
──生きている。
カプセルは四基。
それぞれに、ひとりずつ収容されていた。
嵯峨野はさらに奥へと進んだ。
研究室の先は、細い通路を挟んで独房のように区切られていた。
鉄格子で仕切られた小部屋が並び、その中にもまた、人影があった。
呻き声が漏れる。
唇を噛み、壁に爪を立て、苦悶に身をよじる者たち。
床に崩れ落ち、呼吸もままならぬ者もいる。
異能の覚醒過程に失敗したのか、あるいはまだ実験の途中なのか。
ここにも、四人。
カプセルの中の四人と合わせて、この地下には、合計八人の被験者が囚われていた。
人の尊厳など、微塵もない。
湿った呻き声だけが、地下の闇に、かすかな震えとなって響いていた。
◆◆◆
ぼんやりとした光が、閉じた瞼の裏から滲んでくる。
粟国の秘密研究室──さらにその奥、秘匿された部屋。
嵯峨野が見つけることが出来なかった、その場所で。
糸月小夜は目を覚ました。
長い、長い悪夢を見ていた気がする。
どこまでが現実で、どこからが夢だったのか。
ビルは音を立てて崩れ落ち、橋は引きちぎられるようにして断ち切られた。
地面が裂け、道路が喰われるように呑み込まれていく。
都市そのものが、壊死していった。
簡易ベッドに座り、ゆっくりと身体を起こす。
すると、空気が違うことに気付く。
肌を撫でる湿度、耳に触れる静寂。
いつもの研究室ではないと、直感で分かった。
糸月は、壁際の隠し扉に手をかける。
ギイ、と軋む音とともに、粟国の秘密研究区画が姿を現す。
目に飛び込んできたのは、荒れ果てた光景だった。
装置は壊れ、書類は散らばり、独房にいたはずの潜在異能者たちの姿もない。
そこにあるのは、静かな、しかし確かな崩壊の跡。
何が起きたのか、まだ整理できないまま、糸月はふらつく足取りで歩き出した。
視界の端に鏡が入り、無意識にそちらへ顔を向ける。
そこには、見慣れたはずの自分が立っていた。
ただ一つ、違っていた。
左目だけが、赤く静かに輝いている。
糸月は鏡に映った自分を一瞥しただけで、また歩き出した。
自分がもう別の存在になったことを、本能で理解していた。
そして、壊された扉の先へ──静かに外の世界へと姿を消した。
◆◆◆
――都内某所。
粟国が夜刀に提供した、高級マンションの一室。
静まり返ったリビングの空間が、微かにねじれた。
空気が音もなく波打ち、闇の穴が開く。
その穴から、二人の影が現れる。
夜刀と、神居与一。
二人はノートPCやキャリアケース、書類の束をその両手に抱えていた。
「君の能力は本当に便利だね」
夜刀は緑に光る瞳で神居を一瞥し、軽く言葉を投げる。
「俺の取り得なんてこれしかないからな」
神居は自嘲気味に、抑揚のない声で応じた。
「彼の研究を引き継ぐには、これだけあれば充分だ。計画には何の支障もない。」
夜刀はそう言うと、キャリアケースを床に置き、留め具を外す。
蓋を開けると、中には小さな容器がぎっしりと並んでいた。
それぞれにラベルが貼られ、整然と収納されている。
夜刀は容器を一つ一つ手に取り、ラベルに目を通していく。
指先が滑り、視線が流れるように動く。
そして、ある一つの容器の前で、動きを止めた。
「──これだ」
低く呟き、夜刀はその容器を拾い上げる。
瞳に、かすかに満足の色が滲んだ。
漆黒の液体がとろりと揺れていた。
照明に照らされ、不気味な光沢を放つそれは、まるで闇そのものを閉じ込めたかのようだった。
夜刀は、低い声で何かを呟いた。
周囲に薄い靄のような黒い霧が立ちのぼり始める。
それは夜刀が異界から凶を呼び込む禍々しき力が発動した兆候だった。
容器の中の漆黒の液体がドクン、ドクンと脈打ち始め、それに呼応するように部屋の空気が張り詰めていった。
夜刀は容器の蓋を開き、黒い液体を床へと静かに滴らせた。
液体はまるで生きているかのように床を伝って広がり、薄い霧状の影が立ち昇り、周囲の空間をゆがめていった。
そして、視線だけで神居に合図を送る。
神居は無言で頷くと、片手を前に突き出した。
指先から、透明な波紋のような揺らぎが広がる。
「瞬間回廊」
空間を裂き、異界とこの世界を繋げる通路を開いた。
神居の力に呼応するように、床に広がった黒い液体の中心が、ぐにゃりと沈み込んだ。
そこに、黒い霧がさらに濃く巻き上がる。
空間そのものが歪み、圧し潰され、やがて──ぽっかりと、さっきよりも深い闇の穴が穿たれる。
異界への門が開いた。
そこから這い出したのは、二つの巨大なエネルギーの塊だった。
闇そのものを凝縮したような存在が、ただただ禍々しい瘴気を撒き散らしながら、ゆっくりと顕現した。
神居が思わず口を開く。
「……何を呼び出したんだ?」
「私の同胞さ。終焉の四使徒」
膨れ上がっては、少しずつ凝縮されていく闇を見据えて、夜刀は軽く肩をすくめる。
「どうやら『忘却』は応じなかったみたいだけど、『死滅』と『絶望』が来てくれたよ」
神居は、興味があるともないともつかない調子で、夜刀に問いかけた。
「終焉の四使徒……お前もその一人なのか?」
「ああ」
夜刀は緑に輝く瞳で頷く。
「私は『深淵』。観測と接触を目的に、この世界へ流れ着いた存在だ。君と粟国の実験──ま、偶然に偶然が重なっただけの産物だったけどね」
終焉の歯車は、音もなく、しかし確実に回り始めた。




