第56話 極級異能師の光と影③
嵯峨野はすべてを一点に集中させた。
指先から、腕から、胸の奥深くから、力を絞り出す。
極限まで高められた異能の発動。
意識のすべてを、ただ次の一閃に注ぎ込む。
「空間断裂」
——世界が微かに軋む音がした。
次の瞬間、空間が大きく裂けた。
目に見えぬ刃が、夜を、氷を、世界を、真っ直ぐに斬り裂く。
空気が震え、氷原に巨大な亀裂が走った。
同時に、嵯峨野の心臓がドクンと。
胸を突き破るかのような脈動。
血液が無理やり押し出され、意識が霞む。
夜刀から受けた呪いが、容赦なくその命を削り取った。
だが止まらない。
氷壁が砕ける。
何重にも折り重なっていた白神の防御が、次々と破壊されていく。
無数の氷片が宙を舞い、月光に煌めいた。
「——マジかよ!?」
白神が動く。
即座に次の氷壁を再生しようとする。
だが、その速度すら、嵯峨野の断裂には追いつかない。
今この瞬間だけは、断裂が支配する。
嵯峨野はさらに踏み込んだ。
自らの命を削りながら、再び空間を断つ。
細胞が悲鳴を上げ、筋肉が引き攣る。
心臓は、脈打つごとに身体を内側から叩き壊した。
視界が揺れる。
だが、前を見据える。
白神はまだ、立っている。
「うおおおおお!!」
嵯峨野の胸の奥から、爆ぜるような声が迸った。
押し殺してきた感情を、力に変えるかのように。
普段は冷静な嵯峨野が、魂を震わせる咆哮を上げる。
凍てつく地面を踏みしめ、猛然と加速した。
氷の上を滑るように、弾くように、ただ白神へと向かう。
それは理性ではない。
意志だけが、彼を突き動かしていた。
再び空間を断つ。
一撃。
さらにもう一撃。
氷が応える間もなく、嵯峨野は白神との距離を詰めた。
至近距離へと。
数メートルまで。
だが、白神もなお抗った。
膝をつきかけた身体を、片膝で強引に支えながら、歯を食いしばり、異能を絞りだす。
新たな氷壁が生まれる。
白神の意志を宿したかのように、氷の壁は必死に嵯峨野の断撃を食い止めにかかる。
それでも、嵯峨野は止まらない。
断裂の刃が、氷の絶叫を容赦なく切り裂いていく。
空間ごと叩き割り、なお前へ。
嵯峨野は、文字通り空間ごと薙いだ。
白神が全力で生み出した氷槍は、断裂によって寸断される。
残った破片が頬をかすめたが、気にする余裕はない。
ドクン。
心臓が、また激しく波打った。
胸の奥から、熱いものがせり上がる。
口から、鮮血が溢れた。
吐き出した血をそのままに、一歩を踏み出す。
痛みが意識を焼く。
全身が悲鳴を上げ、内臓が軋み、骨が軋む。
それでも、踏み出すたびに命が削れていく感覚を、ただ受け入れる。
前へ。
ただ、前へ。
血を吐こうが、肉が裂けようが、この一歩だけは止めない。
嵯峨野は、滲む視界の中で白神を捉え、なお前進した。
空間を断ち続けた。
自身の限界を、力で、意志で、押し越えていく。
そして、白神との距離が、ついに一歩分だけ縮まった。
嵯峨野は右手を引き、全身を捻る。
一瞬の溜め。
次の刹那、人生最大の断撃を叩き込んだ。
「空間断裂!!!」
白神の防御は間に合わなかった。
氷の盾も、槍も、再生する暇すら与えられない。
断裂は直線に伸び、白神の身体をかすめた。
月明かりの下、白神の外套が裂ける。
氷も、空気も、白神自身すらも、断ち切られる。
――まだ終わりではない。
終るわけにはいかない。
「氷結制御」
だが、白神の異能は発動しなかった。
呼び寄せたはずの氷結は、もはや応えない。
虚空に手を伸ばしながら、白神は地面に倒れこむ。
次の瞬間——
白神の身体に、ゆっくりと断裂の線が走った。
肩から腹部へ、斜めに。
静かに、しかし確実にその身体を赤く染めていく。
その肉体は、世界の理を拒まれるかのように、音もなく分断されていく。
氷結の気配が、月光の中で弾け飛んだ。
氷の世界を支配していた白神の異能が、断裂の中で崩れ落ちる。
氷の城塞は崩壊し、夜空に白い破片を撒き散らした。
嵯峨野は、命を削りながらも立ち尽くしていた。
肩で息をしながら、血の滲む右腕をだらりと下げる。
心臓の鼓動は、すでに痛みを超えて、鈍い音だけを響かせていた。
月が静かに、二人を照らしていた。
戦いの終わりを告げるように、夜風が微かに吹いた。
白神の瞳から、ゆっくりと光が失われていった。
口元から血を滲ませ、虚空へと手を伸ばす。
「ちくしょう……人間を辞めても……お前には勝てねぇのかよ」
そう、かすれた声で呟いた。
その手は、何かを掴もうとするかのように、空を彷徨う。
「俺はただ……この力の……先を見て……」
言葉が途切れる。
伸ばされた腕は、ついに力を失い、氷の溶け始めた地面へと落ちた。
乾いた音が、夜の静寂に溶けた。
嵯峨野は何も言わなかった。
ただ静かに、白神の見開かれた瞳を閉じる。
その手には、怒りも憐れみもなかった。
ただ、静かに何かを認めるような仕草だけがあった。
ふと、独り言のように漏れる。
「俺の命も大分持ってかれちまったよ……」
それは、追い続けた背中に、確かに迫った者だけが受け取れる言葉だった。
あるいは、届いていたかもしれない。
月は、何も語らず、ただ冷たい光を降らせていた。




