第55話 極級異能師の光と影②
国家戦略研究所の外周は、夜の湿気を孕みながら、どこか濁った静寂に包まれていた。
生ぬるい夜風がコンクリートをなで、芝生をざわめかせる。
空には薄い雲が流れ、切れ間から覗く月が、青白い光を降らせている。
芝地の中央に、二人の影が向かい合う。
嵯峨野雪舟と白神左近。
視線が交わるだけで、火花が散るようだった。
張り詰めた空気が、夜気を震わせる。
「お前と雌雄を決する日が来るとはな。高専の頃も、維持局の頃も、お前のレベルに辿り着けるとは思ってなかった」
白神の赤い瞳が、夜闇の中で微かに揺れた。
「俺はもう、お前のことを人間だとは思っていない。お前が力を得るために代償にしたのは、人間の心だ」
嵯峨野の脳裏に、かつて友だった男との日々が微かに蘇る。
だが、いま目の前に立つのは、もはやその面影すらない。
「否定しねぇよ。俺はとっくに壊れてる。多分お前と出会った、あの入学式の日から、ずっと」
白神はズボンのポケットに手を突っ込んだまま、呟いた。
「氷結制御」
空気が一瞬で変わった。
地面が、街灯の支柱が、そして空中が、凍り始める。
熱が吸い取られ、芝生がみるみる白銀に変わる。
パキパキと乾いた音を響かせながら、世界が静かに凍り付いていく。
そして、瞬く間に嵯峨野の足元までも、霜が覆い尽くす。
呼吸するたび、肺の奥に鋭い痛みが走る。
ただ立っているだけで、体力が削られる異常な氷地獄と化す。
特級の頃の白神の出力では考えられない圧倒的な範囲攻撃。
しかし嵯峨野も即座に動く。
右手をかざし、静かに一閃。
「空間断裂!」
空間に薄い裂け目が生じ、見えざる閃光が白神へ向かう。
だがその瞬間、分厚い氷壁が立ち塞がった。
刃が触れた氷面は僅かに裂けたものの、直後、まるで生き物のように自己修復を始めた。
嵯峨野は思わず目を細める。
断裂で氷壁を斬っても、白神は即座に次の氷を再生し、重ねる。
その防御層は際限なく分厚くなり、白神本人に届かない。
加えて、氷の冷却も常識を超えていた。
絶対零度に迫る極限の温度が、空間自体に異常な圧力を生じさせる。
通常なら絶対のはずの空間断裂すら、わずかに鈍り、押し返される。
この白神の異能の前では、世界の理そのものが歪んでいるような感覚。
一撃で決着をつけるなど、とても不可能だった。
嵯峨野は、静かに周囲を観察する。
砕ける芝。
氷膜に覆われた街灯。
凍りついた風。
視界の端では、夜風に落ちた枯れ葉が地面に触れる前に結晶化し、粉々に砕け散った。
周囲の世界が、死につつある。
そして、嵯峨野もまた侵食されていた。
指先にじんわりとした痺れ。
足に重くまとわりつくような鈍さ。
生身である限り、完全に氷結から逃れることはできない。
しかし異能で対抗する。
自らの周囲、ごく薄い層を断裂し続ける。
目には見えない刃をまとい、凍結そのものを寸前で断ち切る。
氷が広がるよりも早く、自分の周囲を切り裂き続ける。
それによって、かろうじて凍りつくことなく動きを保っている。
だが、これは身体にも精神にも大きな負荷をかける行為だった。
「はっ! 流石だな! そんなやり方で凍結を防ぐとは」
白神は感心したように言葉を放つ。
だが、その表情は変わらない。
冷静に、確実に、嵯峨野を追い詰めるつもりだった。
時間こそが味方だと、理解している。
月光が氷原に降り注ぐ。
滑らかな氷面に映る二人の影が、かすかに揺れた。
嵯峨野は、冷静に戦局を見極めていた。
これは単なる力比べではない。
自らの呪いとの戦いでもある。
左へ滑り込み、細かい断裂を螺旋状に編み込む。
狙いは一点突破。
氷壁の再生より速く、白神へと肉薄するために。
しかし氷壁は、簡単には破れない。
割れ、再生し、さらに厚みを増して立ちはだかる。
そして空から、無数の氷槍が突き刺さるように降り注いだ。
冷たく、鋭く、命を狙う一撃が次々と降りかかる。
嵯峨野は跳んだ。
足裏を氷に取られそうになりながら、身体を捻る。
滑り、転びかけ、それでも空間を断って進む。
殺意に満ちた氷槍を、ぎりぎりの間合いでかいくぐる。
しかし、避けきれなかった。
右腕をかすめた氷片が、鋭く皮膚を裂く。
滲んだ血の匂いが、夜風に溶けた。
「ハッハーッ、やるな~、面白えよ! 嵯峨野! やっぱお前は面白ぇ!!」
白神の声が響く。
狂気に満ちた歓喜の声だった。
嵯峨野は無言で血を拭う。
右腕が痺れている。
この氷結空間では、耐える時間が長引けば長引くほど、こちらが不利になる。
早く、決めなければならない。
「……俺は何も面白くねぇよ」
吐き捨てるように言葉を零し、膝をついた。
体温は急激に低下し、呼吸すら苦しくなっていた。
視界の端に、夜空が映る。
孤高の月が、雲間から白い光を注いでいた。
氷結の世界を見下ろすように、淡々と。
嵯峨野は、立ち上がる。
全身の痛みを押し殺し、静かに構えを取った。
最大出力。
空間断裂。
氷結支配そのものを、断ち切る。
すべてを賭けるために、力を一点に集める。




