第54話 極級異能師の光と影①
10月5日。
空気はまだ秋の香りを纏いながら、昼の温もりをどこかに残していた。
ここ二週間ほど、嵯峨野雪舟は勤務を終えると、そのまま国家戦略研究所へと足を運んでいた。
建物に入るわけではない。
人気のない物陰に身を潜め、ただじっと、様子を伺うだけだった。
今日も、収穫はなしか。
ため息をつく間もなく、帰路へ向かおうと足を引きかけたその時だった。
遠くに、車のヘッドライトが光を投げかける。
慣れた動きで再び身を低くすると、砂利を踏みしめるかすかな音が近づいてきた。
やがて、一台の車が研究所の正面に停まる。
出迎えに現れたのは、白衣の下にきちんとスーツを着こなした男――粟国玄道だった。
薄暗い入口の照明に浮かび上がるその姿は、遠目にも乱れがない。
続いて、車から降り立ったのは、黒髪の長身。
見間違えるはずがない。白神左近。
白神は無言で後部座席から巨大な荷物を引きずり出す。
ひと抱えもあるそれを、軽々と肩に担いだ。
人ひとりが楽に入るサイズだった。
嵯峨野の胸で、ドクン、と。
冷えた夜気の中で、心臓の音だけがやけに鮮明に響いた。
二人は荷物を挟んで、何か言葉を交わしている。
柔らかな笑みすら浮かべながら、揃って研究所の扉の奥へと消えていった。
僅かな間を置き、嵯峨野は歩き出した。
どこかで予想していた現実に、わずかに胸が重くなる。
異能師用に支給された入館カードを取り出し、手慣れた動作で端末にかざす。
控えめな電子音が鳴り、扉が静かに開いた。
建物の中はひんやりと静まり返っていた。
夜間の研究棟に人影はほとんどない。
嵯峨野は、少し距離を取りながら二人の背を追った。
足音を殺し、気配すらも薄める。嵯峨野にとって、それは特別な意識を向けるまでもない動きだった。
粟国と白神は、足音だけを響かせながら、まっすぐ奥へと進んでいった。
やがて一つの部屋の前で立ち止まり、粟国がカードキーをかざす。
機械音とともにドアが開き、二人は中へと消える。
嵯峨野は、壁に身を寄せながら入口に近づく。
扉は完全には閉じておらず、わずかに開いた隙間から中の様子が覗けた。
薄暗い室内。
そこには整理された机と、薬品棚と、搬送用の台が一台置かれていた。
金属製の簡素な作りだが、意識を失った人間を載せるには十分だ。
白神は肩に担いでいた大きな袋――防護用の厚手素材でできた、人体をすっぽり収められる運搬袋――を床に下ろした。
留め具を外し、ゆっくりと袋を開く。
中から現れたのは、ぐったりと意識を失った若い男だった。
痩せた体躯、かすかに震える指先。
呼吸は浅く、しかし確かに生きている。
その光景を見た瞬間、嵯峨野の中で、凍ったような感覚が広がった。
何かが、決定的に越えてはならない一線を越えたと、本能が告げていた。
嵯峨野は、静かに一歩踏み出す。
これ以上、黙っている理由はなかった。
「――何をやってる」
乾いた声が、研究室の静寂を破った。
粟国が、振り返る。
白衣越しにも伝わるその落ち着き払った微笑みは、何一つ取り繕おうとしていない。
そして白神左近は、袋から男を引き上げながら、視線だけを僅かに向けた。
「よう、嵯峨野。」
特に驚いた様子も見せずに声をかける。
手は止めず、その表情にはどこか楽しげな色すら浮かんでいる。
「さすがだな、全く気付かなかったぞ。」
嵯峨野は、白神の軽い調子に一切反応を見せない。
ただ鋭く、標的を見据えるような視線を向けた。
「何をやってる、と聞いている。」
声音は低く、冷たい。
その一言だけで、室内の温度がわずかに下がったように感じられた。
「何って? 人類進化計画さ。」
白神は肩をすくめ、まるで雑談でもするかのように振り返る。
「粟国さん、説明してやって。」
視線を向けられた粟国は、白衣の裾を整えながら落ち着いた声で応じた。
「ふむ。どこから説明しようかな」
軽く顎に手を当て、間を取る。
「私の研究は、潜在的に持っている異能の覚醒や出力の底上げの手伝い――」
しかし、その説明は途中で断ち切られた。
「潜在異能者の行方不明事件、そして凶人を街中に放ったのも全部あんたの仕業という理解でいいか?」
嵯峨野の言葉は遮るというより、鋭利な刃物。
その鋭さに、粟国は一瞬、目を細める。
「そうだね、その部分だけ切り取れば全部その通りだ。」
悪びれもせず、そう答える。
「実行してくれたのは白神君だけど。」
嵯峨野の視線が、今度は白神へと移った。
「……白神、お前は今まで何人の潜在異能者を拉致してきた?」
「さあ、どんくらいだろうな?」
白神は楽しそうに首を傾げる。
「三桁には届いてないと思うけど。」
その軽薄な返答に、嵯峨野の目がわずかに細められた。
「未だに社会に戻ってきてない人たちが何十人もいる。それは、そういうことでいいんだな?」
「ああ、そういうことだ。生まれ変わることができなかった、チャンスを活かせなかっただけの話だ。」
嵯峨野の立ち姿に、無言の圧力が宿った。
肌を刺すような緊張感が、じわりと広がる。
変化を察したのは、粟国だった。
彼はわざとらしく手を上げ、場を和ませようとする。
「おいおい、こんなとこで戦闘なんてやめてくれよ。」
粟国は片手を軽く上げ、場をなだめるような仕草を見せた。
「機械が壊れたら国家レベルの損失になるよ?」
その言葉に対して、嵯峨野は反応を見せない。
代わりに、大きく一つ、息を吐いた。
「――来い、白神。」
その言葉は、決意でもあり、最後の通告でもあった。
「お? ついに俺とやるってか? 面白ぇ。」
嵯峨野は無言のまま踵を返し、廊下へと歩き出す。
白神は歪んだ笑みを崩さず、その後を追った。
二人の姿は、やがて薄暗い廊下の闇に溶けていった。




