第51話 極級異能師としての覚悟②
電気もついていない。
凶はこうした場所を好んで巣食うというが、凶人も同じなのだろうか。
階段を一段ずつ上がるたびに、暗闇に目が慣れてくる。
どこかに残された生活の痕跡のような、湿った空気が肌にまとわりつく。
踊り場には、潰れたペットボトル、食べ終えた弁当の空き箱、破れたビニール袋。
足元から積もった淀みが、じわじわと精神に染み込んでくる。
そして──
階上から、人の声がした。
くぐもった話し声に、時折まじる笑い声。
楽しそうに聞こえるのに、階段の空気が少し冷たくなった気がした。
音の気配を追うように階段を上がっていくと、やがて一つ上の階で足が止まった。
「何だ、お前ら? 勝手に入ってきやがって」
目の前に現れたのは、二人の若い男。
年の頃は二十歳前後。着ているものも話し方も、特に目立つところはない。
けれど、こちらを見つめる目だけが異様に乾いていて、そこに何故か人間らしさが感じられなかった。
「好き勝手に暴れてるようだな。処理する前に、いくつか確認しておきたい」
嵯峨野さんは一歩前に出て、表情ひとつ変えず、ただ静かに問いかける。
「お前らは何だ? どうしてそうなったのか、自覚はあるか?」
「は? 知らねぇよ。気づいたら公園で目が覚めて、こうなってた。お前もなりたいってか? 気持ちいいぞ~? 異能を持たねぇカスどもが、ゴミみたいに見えてくる」
もう一人の男が、ぬるりと笑いながら口を開く。
「あ、そういえば俺、最近変な夢見たんだよ。すげーリアルなやつ。研究所みたいな場所で注射打たれて、カプセルに詰め込まれてんの。白髪まじりのメガネのおっさんが、ずっと上から覗いててさ。……あれだよ、宇宙人が人体実験して記憶消して戻す、みたいなやつあるじゃん? ひょっとしたらそれかも」
「うっわ、なにそれ。きめ~っ!」
二人は顔を見合わせて、ゲラゲラと笑い出す。
その笑いは底のない空洞みたいで、何かが欠けたまま響いていた。
そして、一人が声を上げた。
「あ! 来ちゃったわ、俺。こいつらぶっ殺したい!」
言葉と同時に、その男の肌がじわりと赤く染まり始める。
血管が浮き、目の奥に火でも灯ったような光が射す。
笑みはそのまま、だが顔のどこかがずれているような錯覚。
「マジで? 俺はまだ来ねぇわ」
もう一人の男はつまらなそうに頭をかいた。
「やっちゃっていい?」
「ああ、いいよ。やっちゃって」
僕の頭は展開の速さについていけてない。
――男が壁に手をつくと、床の隙間から音もなく蔦が這い出した。
「死ねぇ!!!」
その一言と同時に、ビルの壁を覆っていた蔦が怒声のように唸り、四方八方から襲いかかってくる。
足元から伸びた蔦が蛇のように蠢き、瞬く間に空間を満たす。
コンクリートの割れ目を割って、太い根が地面を突き破り、槍のように突き出された。
廊下が、一瞬で緑に呑まれていく。
まるでビルそのものが呼吸を始めたような、生き物めいた動きだった。
「空間断裂」
嵯峨野さんが静かに呟く。
襲いかかる緑が宙に浮いたまま裂けていく。
太い蔦も、絡みつこうとする枝葉も、瞬きの間に細切れになり、月明かりの中を静かに舞う。
「……は?」
男はその場に立ち尽くした。
目の奥に浮かぶのは、理解の及ばない現象に対する呆然。
だが、その顔はすでに人のそれではなかった。頭蓋の輪郭は崩れ、眼や鼻は異様な角度で歪んでいる。
「……完全に化物だぞ、お前。気付いてないのか?」
「うるせえ! 俺は神だ!!」
怒声と同時に、男は壁に手を叩きつける。
建物全体が軋む音を立て、外壁の蔦が一斉に蠢き始めた。
床のひび割れからも蔦が噴き出し、刃のような根が一直線に嵯峨野さんを貫こうと襲いかかる。
だがその攻撃も──
「空間断裂」
再び短く響いた声とともに、蔦が分断される。
無数の緑が空中で寸断され、落ち葉のようにバラバラと床に散った。
嵯峨野さんは一歩も動かず、ただ目の前の異形を見据えていた。
「局で把握してるだけでも、お前らの犠牲になった人間は十名。実際はもっといるだろう」
嵯峨野さんの声は変わらない。静かで、冷ややかだった。
「ハッ、知るかよそんなもん!」
男は口を裂けるように開き、笑った。
頬が引きつり、歪んだ眼球がぎらついている。
「殺す瞬間な? 脳が沸騰すんだよ。頭真っ白になってさ――あれ、マジで快感だぜ? 女とヤるよりずっとイケる」
その顔には、後悔も罪悪もない。
あるのは、快楽に濡れた獣の目と、己の欲望に溺れる狂人——いや、凶人の声。
もはや人の形をしていても、その中身は異形だった。
肉体は崩れかけ、精神は破綻している。人間という枠組みは、とうに壊れていた。
「……出雲崎。もう分かっただろ?」
嵯峨野さんは振り返らずに言った。声は静かだが、怒りが滲んでいる。
「はい」
「恐らく、こいつらもまた被害者だ。可哀想だがもう人間には戻れない……楽にしてやれ」
「え?」
「いや、お前は気にする必要はない。やるべきことも分かってるはずだ。任せたぞ」
そう言うと、嵯峨野さんは背を向け、階段へと向かっていった。
一段ずつ踏みしめるように、重い足音を残して下へ降りていく。
「……あ? おい、どこ行く気だよ。てめぇ、逃げんのか?」
異形の凶人が顔を歪めて怒鳴る。
視線は嵯峨野さんに向けたまま。
抑えきれない苛立ちが声ににじむ。
「逃がすかよ、この野郎!」
「あ、俺も来たわ」
吠えるような声とともに、男が床を蹴る。
もう一人の男の顔も目が血走り、変形し、歪んでいく。
「核熱爆散」
僕は床に手を置いた。
足元のコンクリートがじりじりと赤熱し、乾いた音を立ててひび割れていく。
床材、残っていたゴミ、古びたビニール片、埃に混じった紙片が次々と発火し、フロアに炎が走る。
炎は、壁際の電線の皮膜に燃え移り、一気に光と熱を放つ。
その熱に反応するように、ビルの内壁を這っていた蔦がぱちぱちと音を立てる。
葉は丸まり、茎はひび割れ、やがて黒くねじれて崩れ落ちた。
乾いた蔓は導火線のように火を運び、天井の隙間にまで炎が駆け上がっていく。
燃焼は瞬く間に広がり、あたりは灼熱の渦と化した。
凶人の二人は逃げる間もない。
僕に向かって襲いかかろうとしたその一歩、その瞬間に全身を炎に包まれる。
皮膚が弾ける。
叫ぶ口も、潰れた目も、すぐに熱に溶ける。
やがて輪郭を失い、立っていた場所に焦げ跡だけを残して、消えた。




