第46話 違和感
二年前の十月。
国家安全維持局のオフィスに、その男が現れた瞬間、空気が一変した。
休憩中だった者も、資料に目を落としていた者も、次々と顔を上げる。
駆け寄る何人かの足音。
周囲はあっという間にざわめきに包まれた。
「お、おい、白神! お前無事だったのか!?」
「嵯峨野からお前が凶に連れ去られたって報告が……!」
「というか、大丈夫か? 顔色やばいぞ、マジで」
痩せこけた頬、血の気の引いた肌。白髪交じりの荒れた髪。
歩き方さえ、どこかぎこちない。
だが、それでも白神左近の背筋はまっすぐで、妙な迫力すら漂わせていた。
矢継ぎ早に浴びせられる質問に、白神は口元だけで笑ってみせる。
「あー、大丈夫っす。むしろ絶好調っすよ」
誰の言葉も届いていないように、白神はそのまま廊下を進み、目的の扉をノックする。
カシャン、と短く音を立てて開いたのは、研究室。
中には、白衣を着た検査員が端末を覗いていた。
白神は顔を出し、少しだけ声の調子を変える。
「すんません、俺のシグマコード活性化率を測定して欲しいんすけど」
「……え?」
「いいからいいから」
困惑と戸惑いが入り混じった目を向けながらも、検査員は白神の異様な気配を無視できず、慌ただしく計器の準備に入った。
そして――数分後。
「シグマコード活性化率……87%!? こ、これは一体!?」
端末を二度見しながら、研究員の顔が蒼白に変わる。
「これで俺も極級っすね」
軽い調子とは裏腹に、その眼差しは静かで鋭かった。
「い、いや有り得ない! 持って生まれた活性化率の数値が……こんなに上昇するなんて!!」
「死ぬほどキツい目に合えば、不可能も可能になるんすよ」
白神の右の瞳が、ほんの一瞬、血のような赤にきらめいた。
それを見た研究員は言葉を失い、思わず一歩、身を引いた。
立ち上がった白神は無言で研究室を出る。
廊下を進みながら、胸ポケットから一枚の紙を取り出す。
白神は紙に視線を落とし、足を止めずに歩き続けた。
向かった先は、局長室。
「失礼しまーす」
間の抜けた声でノックし、扉を開けて入る。
中にいたのは、デスクに山積みの書類と格闘していた局長の濱中だった。
白神の姿を目にした瞬間、濱中は目を見開く。
「……白神? 生きていたのか……!」
驚きと同時に、わずかな安堵が滲む。
白神は無言で机の前まで歩き、手に持っていた紙をひょいと差し出す。
「何とか大丈夫でした、で、今日で辞めます」
濱中は一瞬、ポカンとした表情を浮かべる。
「お、おい、待て。いったいどういうつもりだ」
「いや〜、何か自由に生きていきたいなって」
「は?」
「今まで凶の討伐に追われてたし、そろそろ自分の人生取り戻したいっつーか……」
「おい白神、ふざけてる場合じゃ——」
「いや、マジなんで。どうもお世話になりました」
そう言うと白神は軽く一礼し、くるりと背を向けた。
濱中が呼び止めようとする気配が背後から伝わるが、白神は振り返らない。
そのまま扉に手をかけた。
扉が閉まる。
音だけが、短く静かに響いた。
そのまま白神は廊下を進み、オフィスの出入口まで歩を止めることなく向かう。
すれ違う局員たちが何か声をかけようとするが、白神は応えず、ただまっすぐに歩いた。
やがて、自動ドアが開く。
光の差す、その先へ。
白神は足音ひとつ立てずに姿を消した。
◆◆◆
秋の陽はすっかり傾き、街路樹の隙間から差し込む木漏れ日が歩道に柔らかい影を落としていた。
澄んだ空気と、遠くから聞こえる雑踏。
辞表を提出し、維持局を後にしてから数時間。
全てから解放された白神左近は、ゆっくりと通りを歩いていた。
心に残っていた重しのようなものは、もうどこにもなかった。
何も背負わずに歩くことが、こんなにも軽いのかと、思わず空を見上げる。
「うし、終わった終わった。さて、これからどうすっかなー……」
気の抜けた独り言が、通りのざわめきに溶けていく。
そのときだった。
すれ違ったひとりの男に、なぜか視線を奪われた。
30歳前後だろうか、気だるげな雰囲気。
乱れた前髪の下から覗く目元は眠そうで、口元には無精ひげ。
一見すれば、そこらへんの冴えないサラリーマンにも見える。
だが――
直感で感じた。
こいつもまた自分と同じレベルの力を——
「……お、おい、あんた」
思わず声が出る。
その男は立ち止まりもせず、そのまま歩き続けていく。
白神は、数歩遅れてその背を追いかけた。
始まりの異能——神居与一。
この日の白神との出会いが、彼にとって幸運だったのか否かは分からない。
しかし、世界の運命は大きく狂い始めることになる。
◆◆◆
そして現在。
研究所の廊下を歩いていた嵯峨野は、ふと立ち止まる。
空気が、何かおかしい。
メタ粒子とも、凶の瘴気とも違う。だが確かに、どこかから何かが滲み出している。
胸の奥にじんわりと、不快な重さを宿したまま、粟国の研究室へと足を向ける。
中では、いつものルーティンが待っていた。
無言で袖を捲ると、粟国が慣れた手つきで注射針を構える。
透明な管に、静かに赤が満ちていく。
粟国は採取した血液を測定装置にかけ、手早く数値を確認する。
「うん、大丈夫だ。数値の変化は微々たるものだったよ」
「ありがとうございます」
「高専の一年の極級の子はどんな調子だい?」
「出雲崎ですか? だいぶ力のコントロールが出来るようになったみたいだし、俺の出番は減っていきそうです」
「ほう、もうそこまで?」
眼鏡の奥で、粟国の目がかすかに光った。
研究室を出た嵯峨野は、再び所内を巡り始める。
あの妙な空気の正体がどうしても気になる。
だが、どの部屋も正常。異常の痕跡は見つからない。
ただ一つ、心の底に残るのは、説明のつかない「違和感」だった。
それを抱えたまま、嵯峨野は静かに研究所を後にした。




