第31話 名前のない異音
糸月小夜は、観客席に駆け上がり、凶を討伐していく。
咆哮、ざわめき、逃げ惑う足音。混乱の渦の中、鉄化させた右腕で凶の頭を正確に叩き潰していく。拳がめり込み、黒い液体が吹き上がる。
「どけッ!」
一体、また一体と、鋼の一撃で屠っていく。
そのときだった。
視界の隅で、一体の凶が観客席の奥へと這っていくのが見えた。
狙われているのは、隅に座っている一人の男。高専の学生でも、維持局の異能師でもない。
凶を視認できないのか逃げる様子もなく、ただじっと座っている。
「——ッ! まずい!!」
糸月は全力で走った。
風を切り裂き、鉄化させた右腕を高く振り上げ、凶の頭めがけて叩きつける。
ブチュッという嫌な音と共に、黒い飛沫が空中に舞った。
「大丈夫ですか!?」
無造作に伸ばされた黒髪。ところどころ、白い束が混ざっている。
「ああ、大丈夫だよ。ありがとう」
平然とした様子でそう言うと、男は静かに糸月の方へ顔を向ける。
その右の瞳だけが、血のように赤い。
一瞬、時間が止まったように思えた。
そして、心臓が掴まれたかのような感覚に襲われる。
呼吸が詰まり、背筋が凍る。
初めてではない。
以前にも、同じような感覚に襲われたことがある。
……嵯峨野雪舟と初めて出会ったとき。
異能の極致を前にした、あの恐怖と畏怖の混じった感覚。
「あ、あんたは一体……」
震える声で問いかける。
「運命かもしれないな。こういった形で出会うことになるとは」
「え……?」
「俺の名は白神左近。聞いたことはあるかい?」
「——っ!」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が一気に熱くなる。
粟国さんから、研究所で聞いた名前。
階級の壁を乗り越え、極級に辿り着いたという、あの——。
「……あんたに、会いたいと思ってた」
「だろ?」
白神はすっと立ち上がる。
190センチ近い長身。筋肉質な体躯。
立ち上がるその動作には無駄な力がまるでない。
「ど、どうやって極級に——あたしにもその道を」
糸月が前のめりに詰め寄るが、白神は片手をゆっくり上げて制し、静かに言葉を紡ぐ。
「まあ、落ち着けよ。夜刀が、もうすぐ何か始めるみたいだ。お前もゆっくり鑑賞すればいい」
「……夜刀?」
◆◆◆
会場内はすでに戦場の残響に沈んでいた。
床も壁も、異能師たちに討伐された凶の残滓で黒く染まり、空気にはまだ鉄の匂いと焦げた気配が漂っている。
静寂が訪れる。
「よし——じゃあ、本番だ」
夜刀の声は、奇妙なほど澄んで響いた。
その緑の瞳が、ゆっくりと光を帯びる。
深く、そして不自然なほど透明な光。
それは人の目に似せていながら、根源的に異質だった。
そして、右腕を天へと突き出した。
15時48分28秒——。
ズン。
空気が重くなる。
音もないのに、何かが地の底から響いてくるような感覚が周囲を包む。
天井があるはずの空間に、黒い裂け目がゆっくりと走る。
縦に、斜めに、幾重にも。まるで空間そのものが引き裂かれ、別の位相へとずれていくかのように。
裂け目の奥から、それが現れた。
否、現れたとすら言えない。
姿は曖昧で、形状は常に揺らぎ、定まらない。
空間が歪む。
会場全体がゆっくりと、沈むような錯覚に襲われる。
音も、色も、空気も、何もかもが異界の理に染まっていく。
その存在が近づくたび、重力の向きがわずかに変わる。
天と地の境が曖昧になり、視覚と聴覚がズレはじめる。
遠くの観客席が液体のように揺れて見えた。
15時49分11秒——。
そして、顕れた。
ほんの一部だけが、この世界に染み出した。
半透明の膜のようなものが空間を覆い、内側で蠢く黒い影が、
不規則に伸び、ねじれ、自己を保持できず崩れ、また形を成す。
その一片に触れた金属製の手すりが、音もなく溶けた。
ただ、確かにそこにある何か。
理屈ではなく、魂が拒絶するもの。
15時49分22秒——。
目の前に広がる光景に、誰もが言葉を失った。
観客席も、舞台上に残る異能師たちも、息を呑んだまま動けずにいた。
ただ、見ていた。
何かがこの世界ではないものを連れてきてしまったのだと、本能が理解していた。
ぽたり。
それは雫のようなものだった。
半透明で、液体とも気体ともつかないそれが空中からふわりと落ち、ひとりの異能師の肩に触れる。
瞬間——
消えた。
音もなく。光もなく。
抵抗も、悲鳴も、痕跡すら残さず。
そこにいたはずの人間が、この現実から存在ごと切り取られたように、消滅した。
そして——
音が鳴った。
耳で聴く音ではない。
魂の奥底に直接、軋むような波動が突き刺さる。
乾いた風のようで、鉄をこするようで、心臓の鼓動そのものが狂うような、名前のない異音。
誰かが泣き出しそうになり、誰かがその場にへたり込んだ。
そして、全員が同時に理解した。
世界の理が、書き換わった。
重力。空気。存在の前提。
何かがずれて、何かが上書きされた。
ほんのわずかに過ぎない。
けれど、それは決定的だった。
15時50分13秒——。
それは、消えた。
空間に走っていた裂け目は、まるで最初から何もなかったかのように消え失せ、空気がゆっくりと戻る。
だが、もはや先ほどまでと同じ世界でないことを、誰もが肌で感じていた。
「この位のエネルギーだと、2分くらいってことね」
夜刀は満足げにそう呟くと、ポケットに手を突っ込んだまま、会場を後にした。
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