第16話 襲来②
「この前はダサいとこを見せちまったからな。汚名返上と行こうか! ガハハハ!!」
「無理しないでください。この一カ月で私の出力は大分上がりましたので」
「……ああ、報告は聞いてる。だが、大人しくサポートに徹するかは、実際にこの目でお前の実力を見てからだ」
二人の視線の先にいるのは、先月の廃団地で遭遇したのと同じような異形。
肉がどろりと垂れ、骨が外に飛び出し、全体が不均衡に膨らんでいる。
目はない。割れた顎の奥から、黒い霧が絶えず漏れ出していた。
『ヲまえたチじャナい……。ジャま。でモウマそう。クッてイいか?』
足を踏み出すたび、地面の草が灰に変わる。
生命の気配が、ただの死に塗り替えられていく。
「……最初から俺たちには目もくれず、研究所の方めがけて歩いてたから何か目的があるとは思ってたが——」
「狙いは、透真君ということでしょうか?」
「恐らくな。だが、どうやって知った? ここまでどうやって来た?」
「考えるのは後にしましょう。そんな余裕はないはずです」
「……そうだな」
小値賀は木刀を構える。
構えは低く、視線は鋭い。呼吸は乱れず、その動きに無駄はない。
凶が跳ねる。
その勢いは、前回の奴とは比較にならない程に速い。
だが——
「アホが!!」
木刀が閃く。
真正面からの斬撃ではない。
足元へ、バランスを奪うように打ち込まれる。
狙いは「崩す」こと。
踏み込んでは退き、突き出しては流す。
決して無理はしない。誘い、煽り、焦らせる。
異能はまだ使わない。
凶は空振りを繰り返す。
顎の奥から吹き出す霧が、ますます濃くなる。
動くたび、周囲の空気がどろりと重くなる。
「がア……オまえ、ムかつク!」
その声と同時に、小値賀の指先にビリッと痺れが走った。
黒い霧。
ただの視界妨害ではない。
神経にまで影響を及ぼしていそうだ。
(悠長にやってる暇はねぇか——)
小値賀は瞬時に判断する。
刹那、体勢を低く落とす。
木刀に力を込め、足元を狙って渾身の一撃を叩き込んだ。
骨が軋む音と共に、凶の体がぐらつき、倒れる。
「今だ——!」
その言葉よりも早く、澄んだ鈴の音のような声が、場を切り裂くように響いた。
「重力制御」
空気が一気に沈む。
圧力が、倒れた凶の上にのしかかるように降りてくる。
視界がゆらりと揺れ、周囲の空間が重たく歪む。
凶が動く。
いや、動こうとした。
体を起こしかけたその瞬間——全身がピクリと痙攣し、床に貼り付いたように沈み込む。
関節が鳴る。骨がきしむ。
異形の背骨が、不自然な角度でわずかに反り返る。
「……グ、ゥゥ……」
苦悶の声が漏れる。
割れた顎からこぼれた黒い霧が、地面に沿ってじわじわと広がるが、それさえも動きが鈍い。
まるで、重力そのものが意志を持ち、逃がすまいと押さえつけているようだった。
「ガハハハ!! よくやった!! では、このまま止めを刺すとしようか。」
そう言って、小値賀は木刀を握る手に力を込めた。
「金剛変化」
超硬化された木刀が、無慈悲に振り下ろされた。
◆◆◆
「おマエだ……。ミツけた。」
その体は、影のようにぼんやりとしている。
輪郭は常に揺らぎ、現実との境界が曖昧だ。
ただ、左右非対称の目だけがやけに鮮明で、緑色の瞳がまっすぐ僕を射抜いている。
「見つけた? 僕を探していたのか?」
「ソうだ。オマえのちカラ……タメさなけレバナラない」
……どういうことだ?
意味がわからない。
でも——いま考えてる場合じゃない。
僕は武器になりそうなものを探して辺りを見回す。
だが、目に入るのは足元の石ころだけ。
……これを熱して、投げつけるか?
そっとしゃがみ、手頃な石をひとつ掴む。
影はじりじりと僕に近づいてくる。
緑色の瞳と目が合った。
その瞬間——。
目の前が炎に包まれた。
視界の隅で青白い火花が弾ける。
空気が歪み、光を帯び始める。
え——!?
暴走——?
全身から血の気が引いていく。
「だ、だめだ……。止まれ……止まれ……」
輝く微細な粒子が僕の周りを漂い始める。
嘘だろ——。
僕は膝から崩れ落ちる。
その時。
遠くから声が聞こえたような気がした。
ぼんやりとしていて、よく聞き取れない。
しかし、その声は次第にはっきりと形を成して耳へ届き始めた。
「透真君!! しっかりして!!!」
ハッと我に返る。
視界から光が消え去り、元の景色が戻る。
気付けば、呼吸が荒く、石ころを握る手には汗がじっとりと滲んでいた。
辺りを見回すと、久遠寺さんが僕に向かって叫んでいたようだ。
「ア……モう……モドっテしまっタカ……。ヲい、モウいちド……オレノめをミロ」
凶の耳障りな声が響く。
何だったんだ、今のは?
幻覚?
「ヲれノめヲみロ。モウいちド……アクムみセテやるゾ」
悪夢?
こいつ、僕のトラウマをえぐってきたのか?
ふつふつとした怒りが湧いてくる。
僕は立ち上がると、凶に向かってタックルする。
――体当たりした体は軽い。僕の方が体重がありそうだ。
「ぐッ……!? ナんだトつゼン?」
そのまま凶にしがみつき、前へ前へと押していく。
そして。
ドン、と。
壁に圧しつける。
左手でのど輪をし、右手は壁へ。
「核熱爆散」
炎が走った。
青く、鋭く、そして容赦なく。
壁が燃え上がる。
炎は凶の体を包み、焦がす。
悲鳴ではなく、ただ低い呻きが漏れる。
「ヤ……やメロ……」
しかし止まらない。
じゅううう……と、焼け焦げる音が響く。
数秒後——
能力を解除したとき、そこにはもう、凶の姿はなかった。
壁には、人型の黒いシミだけが残っていた。
そしてまた、意識が遠のいていく。
今回は、鼻血は出ていない。
ただ、静かに、力が抜けていった。
◆◆◆
「あーあ、なんで嵯峨野がいるんだよ。もうちょっと見たかったのに」
双眼鏡を覗きながら、若い男が心底残念そうに呟いた。
艶のない黒髪は伸び放題で、ところどころ白く変色している。
「せっかく大枚はたいて凶度3を三体も連れてきたのに、残念だったな」
隣で無精ひげを生やした三十歳前後の男が軽く慰めるように言うが、声に感情はなかった。
「そうっすね……。ま、しばらくはあのおっさんの仕事手伝って、また金貯めますよ」
若い男は肩をすくめるように笑い、双眼鏡を畳んだ。
その瞳は僅かに赤く輝いて見える。
「そうか。俺はもう戻るが……お前はどうする? まだ何か見てくのか?」
「いや、俺も帰るんで。お願いします」
無精ひげの男は軽く頷くと、一歩前に出た。
「瞬間回廊」
その言葉と同時に、空間がねじれた。
目の前の空気が音もなく波打ち、闇の穴が静かに開いていく。
全てを呑み込むかのように広がるそれに、二人は何の躊躇もなく足を踏み入れた。
そして、一瞬の間を置いて、穴は揺れるように形を失い、空気に溶けるように消えた。




