第9話「朝」
朝が来た。
そう思った。
でも、それは“朝”という言葉の形をした何かで、
私が知っている“朝”ではなかった。
空が白く光っている。
太陽は見えない。
ただ、光が――降っていた。
光は柔らかくも温かくもない。
まるで酸を浴びているような痛み。
それが、皮膚の表面をじりじりと焼いていく。
布団から腕を出すと、そこに光が触れた。
“触れた”というより、“張りついた”と表現したほうが正しい。
光は生き物のように動き、肌をなぞっていく。
温度ではなく、重さを感じた。
――ぬるい。
指先を見た。
皮膚の上を、透明な液体が這っている。
いや、それは汗じゃない。
もっと粘り気がある。
光が触れた場所から、それが滲み出ている。
「……朝の光って、こんな匂いだったっけ」
生温い血の匂いがした。
昨日の“食事”の後遺症かもしれない。
舌がもうないはずなのに、口の中に鉄の味が残っていた。
ふと、部屋の隅を見る。
そこに、妹が立っていた。
光の中でも影が落ちない。
まるで、光そのものが彼女を避けているようだった。
「お姉ちゃん、起きた?」
声が近い。
距離は離れているのに、鼓膜の裏で直接響くような声。
彼女の輪郭が、光の中でぼやけている。
「今日が最後の“朝”だよ。」
「最後……?」
妹は微笑んだ。
皮膚が、透けて見えた。
その下で、筋肉と血管が脈打っている。
光が彼女の中を通り抜けて、壁に赤い影を落としていた。
「この光はね、“目覚まし”なの。
全部、溶かして、混ぜて、ひとつにするの。」
私はベッドから立ち上がった。
足元が柔らかい。
床が、呼吸している。
足の裏に、鼓動のような振動。
皮膚と木の境界が消えていく感覚。
「菜々……私、もうおかしいのかな。」
妹は首をかしげた。
「ううん。
お姉ちゃんは、ちゃんと“戻ってる”んだよ。」
その言葉と同時に、壁の模様が波打った。
木目が蠢き、人の顔のような形を作る。
無数の目、鼻、口。
それらが、私の皮膚の上に浮かび上がっていく。
指で触ると、そこにも“顔”があった。
私の腕に、妹の顔が。
肩には母の顔。
胸の下には、父の顔。
「やっと家族がそろったね。」
妹の声が光の中に溶けた。
世界が明るすぎて、もう彼女の形が見えない。
ただ、声だけが皮膚の内側から響いてくる。
光が強くなる。
肌が焼けるように熱い。
けれど、不思議と痛くない。
むしろ心地いい。
温かいミルクの中に沈んでいるみたいな感覚。
「お姉ちゃん、ほら、見て。」
妹の声。
振り向くと、窓の外に“朝”があった。
地平線から光が吹き出している。
その光の中に、無数の人影が浮かんでいた。
皆、私と同じ顔。
笑っている。
皮膚のない顔で、笑っている。
「みんな、起きたんだよ。」
妹が囁く。
私の体が光に飲まれていく。
皮膚が溶け、筋肉が透け、骨が白く光る。
でも、怖くなかった。
むしろ、安堵に似た感情があった。
ずっと探していた“朝”が、ここにある気がした。
「お姉ちゃん、触ってごらん。」
妹が差し出した手を取る。
その瞬間、指先がひりついた。
彼女の手は、熱い。
火傷のように、焼ける。
けれど、その熱が懐かしい。
「これが、“生きてる”感覚だよ。」
妹の体が、光の中でほどけていく。
皮膚が溶け、骨が崩れ、光の粒になって空に舞い上がる。
「菜々……!」
私も叫ぼうとしたが、声が出なかった。
喉が、もうない。
代わりに、全身で“声”を感じる。
肌そのものが音を立てて震えている。
光が私の中に入ってくる。
脈を通って、心臓を溶かす。
血が光に変わり、骨が軋む音がした。
そのとき、外の“朝”が一気に膨張した。
空が裂け、光が世界を覆う。
壁も床も、家も、すべて光に溶けていく。
私の体と部屋の境が消えた。
指を動かすと、壁が動く。
息を吸うと、空が脈打つ。
世界そのものが私の皮膚の延長になっている。
「これが、朝なんだ……」
その瞬間、世界中から声が聞こえた。
私の声。
母の声。
妹の声。
すべてが重なり、ひとつの響きになる。
「おはよう。」
光の中で、妹が微笑んでいた。
その姿はもう形を持たない。
ただ、私の中に流れ込んでくる。
皮膚の裏側に、無数の手が触れてくる。
優しく、撫でるように。
温かい。
痛みも、恐怖も、もうない。
世界は、私の肌。
私は、世界の皮膚。
――そして、朝は終わった。
残ったのは、静かな呼吸の音だけ。
私か世界か、その区別ももうなかった。
光の中で、声がした。
「お姉ちゃん、もう一度“地球”を見に行こう。」




