第8話「食事」
――トク、トク、トク。
何かが煮える音がする。
目を開けると、部屋が薄暗かった。
カーテンは閉じられ、電気もついていない。
なのに、台所から柔らかな光が漏れている。
匂いがした。
出汁のような、煮物のような……
でも、それ以上に――生臭い。
金属と脂が混じったような、鼻の奥にまとわりつく匂い。
空腹だった。
昨日から何も食べていない。
いや、昨日という概念すらあやふやだ。
森を見た。
そのあと気づけば、ベッドにいて、今は――この匂い。
「お姉ちゃん、起きた?」
台所から、妹の声。
あの夜、燃えたはずの菜々が、何事もなかったように立っている。
白いエプロンに、笑顔。
手にはおたま。
湯気の向こうの影が、ゆらゆらと揺れていた。
「朝ごはん、できたよ。」
テーブルの上には、湯気を立てる鍋。
その中には、赤く煮えた何かが沈んでいた。
人参のようにも見えるし、指のようにも見える。
「なに、これ……?」
「お姉ちゃんのために作ったの。
食べないと、体が溶けちゃうから。」
菜々が微笑む。
その笑顔は、どこかおかしい。
口角が不自然に裂けて、頬の奥に筋肉が覗いていた。
でも、それを指摘したら壊れてしまいそうで、何も言えなかった。
「……いただきます。」
箸を取る。
汁をすくう。
湯気が鼻をくすぐる。
その瞬間、強烈な吐き気が込み上げた。
鉄。
血の匂い。
舌の上で、ざらざらとした何かが溶ける。
肉? いや、違う。
もっと……皮膚に近い。
「どう? おいしい?」
妹が無邪気に笑う。
私の目の前で、彼女も箸を取った。
鍋の中から、赤黒い塊を取り出す。
それを口に運び、噛む。
――ぐちゃ。
その音で、喉が凍りついた。
菜々の口から、白い何かが垂れた。
歯。
噛み砕かれた歯の欠片が、ぽとりと床に落ちる。
「お姉ちゃんの体、あったかいね。
だからすぐ煮えるの。」
彼女の言葉が理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
私が食べているのは、誰?
震える手で鍋の中を覗く。
浮かんでいるのは肉片――だけじゃない。
その間に、見覚えのあるブレスレット。
母のものだ。
あの日、海に落としたはずの。
「……お母さん、どこにいるの?」
「ここにいるよ。
ちゃんと“入ってる”から。」
妹の腹のあたりを指差した。
笑いながら、彼女は自分の腹を叩く。
鈍い音が響く。
「お姉ちゃんも食べなきゃ。
一緒になれないよ?」
その言葉と同時に、鍋の中が蠢いた。
肉が泡を吹き、形を変える。
顔。
笑う母の顔。
そして、泣く私の顔。
「やめて……!」
椅子を倒して立ち上がる。
背後の壁が生き物のように波打つ。
そこから、腕のような影が伸びてきた。
柔らかく、温かい。
皮膚の裏側から伸びているみたいに。
妹が立ち上がる。
その顔が、どんどん歪んでいく。
口が裂け、舌が長く伸び、耳の下まで届いた。
「食べて、食べて、食べて――」
声が重なる。
妹の声。
母の声。
そして、私自身の声。
何十人分もの「私」が、食卓を囲んで囁いていた。
「お姉ちゃん、もうずっと食べてるよ。」
目の前の皿の上に、何かがあった。
肉の塊。
形を見た瞬間、息が止まった。
それは、耳。
私の耳だった。
血が滲み、皿の上でまだ震えている。
触ると温かい。
自分の頭の横を触ると、そこに穴があった。
何も感じない。
痛みも、音も。
「ね、だから言ったでしょ?
食べないと、体が溶けちゃうって。」
妹が笑いながら、私の手を掴む。
そして、私の耳を掴んで、口元に近づける。
「一緒に、戻ろう。」
舌が震えた。
唇が勝手に動いた。
塩味。鉄味。
口の中に“私”の味が広がっていく。
噛み砕くたび、記憶が消える。
家族の顔がぼやけていく。
部屋の形も、匂いも、音も――
すべて、味に溶けていく。
気づけば、私は笑っていた。
妹と同じ顔で。
「おいしいね。」
「うん、お姉ちゃんの味。」
二人で食べ続ける。
鍋の中には、もう何も残っていない。
ただ、床に広がった赤黒い汁が、ゆっくりと家の奥へ染み込んでいく。
まるで、家そのものが“食べている”みたいに。
壁が呼吸する。
冷蔵庫が低く唸る。
テーブルの脚から、無数の小さな舌が覗く。
「ねえ、菜々。」
「なあに?」
「これ、全部……私たちが食べたの?」
「ううん。」
妹が笑う。
「全部、私たちに食べられたんだよ。」
その瞬間、舌の感覚が消えた。
味がなくなる。
代わりに、体の内側から誰かの声が響いた。
「お姉ちゃん、次は“朝”だよ。」
視界が暗くなる。
匂いも味も遠のく。
最後に感じたのは、
自分の舌が“誰か”に噛み切られる感覚だった。




