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私となにか  作者: noyww
8/10

第8話「食事」

――トク、トク、トク。

何かが煮える音がする。

目を開けると、部屋が薄暗かった。

カーテンは閉じられ、電気もついていない。

なのに、台所から柔らかな光が漏れている。

匂いがした。

出汁のような、煮物のような……

でも、それ以上に――生臭い。

金属と脂が混じったような、鼻の奥にまとわりつく匂い。

空腹だった。

昨日から何も食べていない。

いや、昨日という概念すらあやふやだ。

森を見た。

そのあと気づけば、ベッドにいて、今は――この匂い。

「お姉ちゃん、起きた?」

台所から、妹の声。

あの夜、燃えたはずの菜々が、何事もなかったように立っている。

白いエプロンに、笑顔。

手にはおたま。

湯気の向こうの影が、ゆらゆらと揺れていた。

「朝ごはん、できたよ。」

テーブルの上には、湯気を立てる鍋。

その中には、赤く煮えた何かが沈んでいた。

人参のようにも見えるし、指のようにも見える。

「なに、これ……?」

「お姉ちゃんのために作ったの。

食べないと、体が溶けちゃうから。」

菜々が微笑む。

その笑顔は、どこかおかしい。

口角が不自然に裂けて、頬の奥に筋肉が覗いていた。

でも、それを指摘したら壊れてしまいそうで、何も言えなかった。

「……いただきます。」

箸を取る。

汁をすくう。

湯気が鼻をくすぐる。

その瞬間、強烈な吐き気が込み上げた。

鉄。

血の匂い。

舌の上で、ざらざらとした何かが溶ける。

肉? いや、違う。

もっと……皮膚に近い。

「どう? おいしい?」

妹が無邪気に笑う。

私の目の前で、彼女も箸を取った。

鍋の中から、赤黒い塊を取り出す。

それを口に運び、噛む。

――ぐちゃ。

その音で、喉が凍りついた。

菜々の口から、白い何かが垂れた。

歯。

噛み砕かれた歯の欠片が、ぽとりと床に落ちる。

「お姉ちゃんの体、あったかいね。

だからすぐ煮えるの。」

彼女の言葉が理解できなかった。

いや、理解したくなかった。

私が食べているのは、誰?

震える手で鍋の中を覗く。

浮かんでいるのは肉片――だけじゃない。

その間に、見覚えのあるブレスレット。

母のものだ。

あの日、海に落としたはずの。

「……お母さん、どこにいるの?」

「ここにいるよ。

ちゃんと“入ってる”から。」

妹の腹のあたりを指差した。

笑いながら、彼女は自分の腹を叩く。

鈍い音が響く。

「お姉ちゃんも食べなきゃ。

一緒になれないよ?」

その言葉と同時に、鍋の中が蠢いた。

肉が泡を吹き、形を変える。

顔。

笑う母の顔。

そして、泣く私の顔。

「やめて……!」

椅子を倒して立ち上がる。

背後の壁が生き物のように波打つ。

そこから、腕のような影が伸びてきた。

柔らかく、温かい。

皮膚の裏側から伸びているみたいに。

妹が立ち上がる。

その顔が、どんどん歪んでいく。

口が裂け、舌が長く伸び、耳の下まで届いた。

「食べて、食べて、食べて――」

声が重なる。

妹の声。

母の声。

そして、私自身の声。

何十人分もの「私」が、食卓を囲んで囁いていた。

「お姉ちゃん、もうずっと食べてるよ。」

目の前の皿の上に、何かがあった。

肉の塊。

形を見た瞬間、息が止まった。

それは、耳。

私の耳だった。

血が滲み、皿の上でまだ震えている。

触ると温かい。

自分の頭の横を触ると、そこに穴があった。

何も感じない。

痛みも、音も。

「ね、だから言ったでしょ?

食べないと、体が溶けちゃうって。」

妹が笑いながら、私の手を掴む。

そして、私の耳を掴んで、口元に近づける。

「一緒に、戻ろう。」

舌が震えた。

唇が勝手に動いた。

塩味。鉄味。

口の中に“私”の味が広がっていく。

噛み砕くたび、記憶が消える。

家族の顔がぼやけていく。

部屋の形も、匂いも、音も――

すべて、味に溶けていく。

気づけば、私は笑っていた。

妹と同じ顔で。

「おいしいね。」

「うん、お姉ちゃんの味。」

二人で食べ続ける。

鍋の中には、もう何も残っていない。

ただ、床に広がった赤黒い汁が、ゆっくりと家の奥へ染み込んでいく。

まるで、家そのものが“食べている”みたいに。

壁が呼吸する。

冷蔵庫が低く唸る。

テーブルの脚から、無数の小さな舌が覗く。

「ねえ、菜々。」

「なあに?」

「これ、全部……私たちが食べたの?」

「ううん。」

妹が笑う。

「全部、私たちに食べられたんだよ。」

その瞬間、舌の感覚が消えた。

味がなくなる。

代わりに、体の内側から誰かの声が響いた。

「お姉ちゃん、次は“朝”だよ。」

視界が暗くなる。

匂いも味も遠のく。

最後に感じたのは、

自分の舌が“誰か”に噛み切られる感覚だった。

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