第7話「森」
森の匂いが、する。
朝、目を覚ました瞬間、そう思った。
部屋の中なのに、湿った土の香りが鼻を突いた。
寝具の隙間から、草のような匂いが漂ってくる。
甘く、腐ったような香り。
懐かしい気もする。
――でも、何かが違う。
カーテンを開けると、窓の外が変わっていた。
家の前の道路が、緑に覆われている。
夜のうちに森が生えたみたいに。
アスファルトは消え、木々の根が地面を割っている。
鳥の声がしない。
代わりに、木々の間で何かが“息をしている”音がする。
昨日、海を見た。
波の音を聞いた。
あの夜、私は確かに溺れたはずだったのに、気づけばまた家に戻っていた。
それも、何事もなかったように。
「……夢、なのかな」
そう呟いた瞬間、森の匂いが強くなった。
空気の中に、血のような鉄の臭いが混ざる。
吐き気を覚えるほどの濃度だ。
玄関を開けた。
一歩踏み出した足が、柔らかい苔の上に沈む。
見渡す限り、木々。
見慣れた住宅街の面影は一切ない。
風が吹くたび、木の幹が軋む音がする。
その音が、人の呻き声のように聞こえた。
――この森、息をしている。
どの方向を向いても同じ景色。
帰る道が分からない。
スマホを取り出すが、圏外表示。
画面がゆらゆらと揺れて、木々の隙間の映像と重なっている。
画面の中の私が、こちらを見て笑った気がした。
少し歩くと、小さな小道が現れた。
誘われるように進む。
進むたびに匂いが変わる。
最初は草の香り、次に泥、次は焦げた匂い。
まるで誰かが匂いで導いているようだった。
そのたびに、胸の奥がざわつく。
「……この匂い、知ってる」
焼けた木の匂い。
――火事の匂いだ。
記憶が蘇る。
あの日。
妹の菜々と森で遊んでいたとき、焚き火の火が広がって――
いや、違う。
私はその日、海にいたはずだ。
なのに、どうして火の匂いを覚えている?
森の奥に、古い鳥居が見えた。
朱塗りの表面が剥げ、黒ずんでいる。
その向こうに小さな祠があった。
近づくと、何かが動いた。
黒い影。
人の形をしている。
でも、動き方が“人間”じゃない。
まるで、木の根が歩いているみたいに、軋みながら私の方へ近づいてくる。
その影が通り過ぎた瞬間、鼻の奥が焼けるように痛んだ。
生臭い。
獣の死骸のような匂い。
頭の中がぐるぐると回る。
「お姉ちゃん」
誰かの声がした。
木の間から、小さな影が現れる。
妹の菜々だった。
白いワンピースを着て、裸足で立っている。
足元には、血のような赤い苔。
目の下には黒いクマ。
それでも、笑っていた。
「ここ、覚えてる? 二人で来た森だよ。」
「……違う。そんな場所、知らない。」
「覚えてないだけ。
お姉ちゃん、匂いを嗅げば思い出すよ。」
菜々が一歩近づいた。
風が吹いて、鼻にあの匂いが入り込む。
焦げた木、腐った葉、鉄の匂い。
混ざり合って、胸の奥に広がる。
その瞬間、景色が歪んだ。
――炎。
――煙。
――菜々の泣き声。
「お姉ちゃん、逃げて!」
小さな声。
熱い風。
目の前の木々が炎に包まれる。
でも、私は動けなかった。
菜々が泣きながら手を伸ばしている。
「なんで来なかったの?」
その言葉で、すべてが戻った。
あの日、私は森に取り残された妹を置いて逃げた。
怖くて、何もできなかった。
その罪を、忘れるために――
海で“自分”を沈めた。
火の粉が空を舞う。
森が燃えているのに、どこかで波の音が聞こえた。
炎の奥から、妹がゆっくりと歩いてくる。
「やっと思い出したね。
この森は、私たちの中にあるの。」
菜々が笑う。
その瞳の奥に、木の根がうごめいていた。
私の足元からも、同じ根が伸びていく。
土を突き破り、足首に絡みつく。
「やめて……!」
もがいても、離れない。
根が皮膚の中に入り込む感覚がした。
血管を這うように、体の中で広がっていく。
「お姉ちゃん、匂いで分かるでしょ?
もう、外には戻れないよ。」
菜々の声が、森全体から響いた。
木々の幹が震え、風が唸る。
どこからか無数の“私”の声が重なる。
「ここは家族の森」
「忘れた罪の森」
「お姉ちゃんの体の中の森」
頭の中が真っ白になる。
呼吸ができない。
匂いだけが強くなっていく。
土、血、焦げ、涙――
それらが混ざり、私の中でひとつの言葉になる。
「わたしたちは、まだ一緒にいる。」
次の瞬間、視界が暗転した。
気がつくと、ベッドの上だった。
天井を見上げると、木目模様が揺れている。
息を吸うと、森の匂いがした。
そして、胸の上に何か重いものが乗っていた。
見ると、小さな手。
その手の持ち主は、笑顔の妹だった。
「お姉ちゃん、次は“食べる”番だよ。」
その声とともに、部屋の隅から無数の根が伸びてきた。
まるで呼吸するように、湿った匂いを吐きながら――。




