第6話「海」
音が、変だった。
目が覚めた瞬間、鼓膜の内側でざわめくような音が鳴っていた。
波の音に似ている。でも、少し違う。
もっと、近い。
耳のすぐ奥で、波が打ち寄せているような――そんな音だった。
枕元に置いたスマホを手に取る。
電源を入れると、画面が一瞬だけ歪んだ。
波紋のように、誰かの顔が映った気がした。
すぐに消える。
朝だというのに、外は薄暗い。
窓を開けると、潮の匂いがした。
ここは、内陸のはずなのに。
遠くでカモメの声が聞こえる。
――海が、近い。
玄関を出ると、道が濡れていた。
靴の裏に、細かい砂がつく。
足跡の先に、白い霧が漂っている。
風の音がしない。
代わりに、低い唸りが耳の奥で響いていた。
歩き出すと、音がついてくる。
ひとつ、またひとつ。
後ろから足音のように。
ふと、思い出す。
昔、妹と海に行ったときのこと。
波打ち際で笑っていた菜々の声。
「お姉ちゃん、波の音って人の声に似てるね」
――そう言って笑った顔。
でも、あのときの菜々はもういない。
いや、本当にそうだろうか?
耳の奥で、また波の音がした。
その中に、微かに声が混じっている。
「……お姉ちゃん……」
心臓が跳ねた。
周囲を見渡す。
誰もいない。
風もない。
なのに、耳の中だけが騒がしい。
「お姉ちゃん、ここだよ」
今度ははっきり聞こえた。
波の音の中から、妹の声がした。
私は足を止めた。
地面が湿っている。
アスファルトの隙間から、水が滲み出ている。
足元の水たまりの中に、何かが映っていた。
――海。
見覚えのある海岸線。
私と妹が遊んでいた、あの場所。
でも、映っている“私”の隣には、誰もいなかった。
「お姉ちゃん、もうすぐ聞こえるよ」
声が、頭の中に直接響いた。
私は耳を塞いだ。
でも、止まらない。
塞いだ手の中で、骨の奥から音が鳴る。
波の音。
心臓の音。
そして――呼吸の音。
どれが私の音なのか、もう分からない。
気づけば、足元が海になっていた。
道路が溶けて、波が打ち寄せている。
膝まで水に浸かっているのに、冷たくない。
むしろ、温かい。
その水の中から、手が伸びてきた。
白く、細い子供の手。
私の手を掴んだ。
「菜々……?」
水面の下から、妹の顔が現れた。
目を閉じている。
唇が動いている。
「聞こえる? この音の向こうに、お姉ちゃんがいるの」
「なに言ってるの?」
「お姉ちゃんはね、もう半分、こっちにいるの。
海の音がそれを教えてくれるの。」
妹の声が、波と一緒に揺れる。
空の色が青から灰色に変わり、世界全体が遠ざかっていく。
水面の下の景色が広がっていく。
そこには、無数の“私”がいた。
全員、耳を塞いでいる。
全員、口を動かしている。
でも、音は聞こえない。
代わりに、波の音だけが響いていた。
妹が私の耳に顔を近づけた。
囁くような声で言う。
「お姉ちゃん、もう少し耳を澄ませて。
聞こえるでしょ? 本当の声。」
私は息を止めた。
すると、波の音が消えた。
代わりに、聞こえてきたのは――
“助けて”
どこかで、誰かが叫んでいる。
私の声だった。
視界が揺れる。
足元の水が渦を巻く。
音が反転する。
波が引くように、記憶が削れていく。
母の顔が消える。
家の形が歪む。
妹の声だけが残る。
「お姉ちゃん、消えたくないんでしょ?」
「……どうすればいいの……」
「この海に、耳を沈めて。
全部、聞こえるようになるから。」
私は海の中に膝をついた。
耳を水面に近づける。
すると、水の下から無数の声が聞こえた。
泣き声、笑い声、祈り、絶叫――
全部、私の声だった。
「お姉ちゃん、ねえ、思い出した?」
妹の声が遠くなる。
私は水の中に頭を沈めた。
そこは暗く、静かで、どこまでも深い。
でも、その奥で確かに誰かが歌っていた。
旋律のような、波のような声。
「お姉ちゃん、これで一緒だね。」
その瞬間、音が止まった。
海の中に、静寂だけが広がる。
目を開けると、そこは自分の部屋だった。
ベッドの上。
濡れた髪。
耳の中で、波が打ち寄せていた。
スマホが震えている。
画面には新着ボイスメッセージ。
再生ボタンを押す。
スピーカーから、私の声が流れた。
「お姉ちゃん、海がきれいだね」
そして、別の私の声が答えた。
「うん。今度は溺れないようにしようね」
録音の最後に、波の音が続いた。
やがて、機械的な女の声が混ざる。
「複製E、音覚同調完了。次段階へ移行。」
スマホが、じりじりと熱を帯びる。
画面の奥で、海が広がっていた。
波打ち際に、妹と私が並んで立っている。
どちらが私で、どちらが妹なのか――
もう、分からなかった。
耳の奥で、波が囁いた。
「次は、森だよ。」




