第五話「空」
逃げたはずだった。
あの“家”から、全力で走って逃げたはずだった。
気がつくと、私は知らない道に立っていた。
街のはずれ。住宅が途切れ、畑が広がる場所。
夕暮れの空が赤く染まり、地平線が滲むようにぼやけている。
深呼吸をした。
肺に入る空気が重たい。
まるで空そのものが腐っているみたいだった。
――いや、違う。
空が、揺れている。
地面に波紋が走るように、空の表面がゆらゆらと歪んでいた。
太陽の形が崩れ、溶けた金属のように垂れ落ちていく。
その下で、黒い影がゆっくりと“反対側の空”から覗いていた。
私は瞬きをした。
その一瞬で、世界が変わった。
太陽が二つあった。
片方は赤く、片方は白い。
空の中で、二つの太陽がゆっくりと重なっていく。
その境界に、うっすらと“顔”が見えた。
それは人間の顔だった。
輪郭が曖昧で、無数の目が空の中からこちらを見下ろしている。
私の喉が勝手に鳴る。
逃げなきゃ――そう思ったのに、足が動かない。
空の顔と目が合った瞬間、体の奥がひきつれる。
「見えるんだね」
耳元で声がした。
振り返ると、そこに“私”がいた。
昨日、家で見たもう一人の私。
「この空、やっと見えるようになったんだね。
でも、まだ途中だよ。まだ“裏”まで届いてない。」
何を言っているのか分からない。
「裏……?」
彼女は笑った。
「この空の下にあるのが“表”。
私たちはずっと、空の“裏”にいるの。」
空が音を立てて裂けた。
金属を裂くような悲鳴。
そこから黒い液体が垂れ落ちてくる。
液体は地面に触れると煙を上げ、溶かしていく。
私は後ずさった。
背中にぶつかったのは、電柱だった――と思った。
違った。
電柱の表面が人の皮膚のようにざらついていた。
よく見ると、電柱の上に“腕”が生えている。
その腕が空の方へ伸び、黒い液体を受け止めている。
腕は何百本も絡まり、空を支えるように動いていた。
私は叫んだ。
でも声が出ない。
喉の奥から、別の音が漏れる。
「お姉ちゃん、また見ちゃったんだね。」
振り向くと、“妹”がいた。
菜々。
もういないはずの妹が、笑って立っていた。
「どうして……」
「空の裏側にいるとね、みんな繋がっちゃうの。
家も、人も、空も。もう区別なんてないんだよ。」
妹の目が真っ黒に広がる。
その瞳の中に、空が映っている。
私がさっき見た“顔”が、彼女の瞳の奥で動いていた。
「お姉ちゃん、空がね、呼んでるの。
一緒に上に行こうって。」
上を見ると、裂けた空の向こうに“もう一つの地球”が浮かんでいた。
逆さまの街、逆さまの海、逆さまの雲。
そこにも“私”が立っていた。
逆さの地球の地面に、逆さの私が私を見下ろしている。
私は息を呑んだ。
逆さの私が、口を開いた。
「上の空、下の空。
どっちが本物だと思う?」
妹が私の手を握った。
その手が、冷たい。骨がなかった。
柔らかい粘土のように、私の指と溶け合っていく。
「お姉ちゃん、早く。上に行かないと。
空の下にいると、体が混ざっちゃうよ。」
視界がぐにゃりと歪む。
周囲の家々が、ひっくり返るように浮かび上がる。
屋根が地面になり、地面が空になる。
重力の方向が変わった。
私は空へ落ちていた。
風が逆流し、呼吸ができない。
空の中を落ちていく。
青空の膜が肌に触れた瞬間、体の輪郭が溶けた。
――空の裏側。
そこは、静かだった。
空の裏側には無数の人影が浮かんでいた。
全員、上を見上げていた。
その顔は、私と同じ。
「ここが、もう一つの地球だよ。」
妹の声が聞こえる。
「私たちは、空の夢の中にいたんだ。」
影たちがゆっくりと笑い始める。
空の表面がざわざわと波打ち、何かを“吸い込む”ように動く。
遠くで、母の声が聞こえた。
「菜々、早く帰っておいで。
ごはん、冷めちゃうわよ。」
私は空を見上げた。
上――つまり地上。
そこに“もう一人の私”が立っていた。
地面の向こう側から、私を見下ろしている。
彼女が私に手を伸ばした。
でも、もう届かない。
空が閉じ始めていた。
裂け目が塞がり、光が遠のく。
妹が笑って言った。
「大丈夫。私たちは、空の中で生きてるから。」
最後に聞こえたのは、無数の私の声だった。
「空は私。
私は空。
見上げているのは、あなたじゃない。」
空が完全に閉じた。
その瞬間、音が消えた。
次に目を開けたとき、私は自分の部屋にいた。
窓の外の空は青い。
鳥が飛んでいる。
――でも、鳥の影が逆向きに落ちていた。
上へ、上へと昇っていく影。
私は窓を閉めた。
その瞬間、窓ガラスの内側に、私の顔が映った。
笑っている私。
その口が、ガラス越しにこう動いた。
「空の向こうで、待ってるね。」




