第四話「家」
目が覚めた瞬間、胸の奥がざらついていた。
昨日、何があったのか思い出せない。
ただ、何かを「忘れた」感覚だけが残っている。
部屋の空気が重い。
いつもより天井が低く見える。
窓の外の景色も、どこか違う。
昨日までの家と同じはずなのに、空気の匂いが違った。
階段を降りると、母がリビングで洗濯物を畳んでいた。
「おはよう」と声をかけると、母は一瞬、こちらを見た。
その目は優しかったけれど――どこか、知らない人の目だった。
「おはよう……菜々」
……菜々?
その言葉が、頭の中で反響する。
「え? 私、菜々じゃないよ」
そう言うと、母は首を傾げて笑った。
「何言ってるの。お姉ちゃんは昨日、海に行ったでしょ」
喉が凍りついた。
“お姉ちゃん”は海に行った――?
母が畳んでいる洗濯物の中に、私の制服があった。
裾の部分が濡れて、潮の匂いがする。
海。あの日の冷たい波の感触が、足の裏をよみがえらせる。
私はリビングを見渡した。
家具の配置が少しずつ違う。
カーテンの柄、ソファの向き、そして壁の家族写真。
そこには、母と父、そして“私”が二人写っていた。
どちらも笑っている。
どちらも、まったく同じ顔。
私の喉が勝手に震える。
「これ……いつ撮ったの?」
母は何気なく答えた。
「昨日だよ。やっと、ちゃんと撮れたんだから」
何が“やっと”なのか。
その言葉が引っかかった。
リビングの奥、扉の隙間から冷たい風が流れ込む。
地下室の扉。
私の家に地下室なんて――あっただろうか?
足が勝手に動いていた。
階段を降りると、コンクリートの湿った匂い。
暗闇の中に、かすかな機械音が響いている。
ランプが一つ、ぼんやりと灯っていた。
その光に照らされた部屋の中央――そこに、何かが並んでいた。
家の間取り図。
壁一面に貼られた無数の紙。
廊下、部屋、トイレ、キッチン。
全部、私の家の構造を細かく描いた図だった。
でも、それだけじゃない。
赤いペンで、ところどころに書き込みがある。
「複製A:成功」
「複製B:不安定」
「複製C:拒絶反応」
紙の下には、私の写真が貼られていた。
笑っている私。泣いている私。眠っている私。
そして、一番下のメモにはこう書かれていた。
「複製D:安定個体。居住中」
背筋が凍った。
“安定個体”?
“居住中”?
ランプの明かりが一瞬、ちらついた。
その瞬間、背後に人の気配を感じた。
振り返る。
誰もいない。
でも、耳の奥で“家”が呼吸する音がする。
壁の向こうから、心臓の鼓動のような低い振動が響く。
ドクン……ドクン……。
それは、まるで家そのものが生きているような音だった。
震える足で階段を上がり、リビングに戻る。
息を整えようとしたとき、玄関の方から足音がした。
玄関の扉がゆっくり開く。
そこに立っていたのは――私だった。
もう一人の“私”。
全く同じ顔、同じ髪、同じ服。
でも、笑っている。異様に静かに。
「やっと、出てこれた。」
その声が私の声に重なる。
私は後ずさる。
影の私は、ゆっくりとリビングの中に入ってきた。
「ずっと待ってたんだよ。入れ替わる日を。」
「……なにを言ってるの?」
「この家は、私たちを“保つ”ためにあるんだよ。
お姉ちゃんが消えないように、妹が壊れないように。」
笑う“私”の背後の壁が波打つ。
まるで呼吸をしているように膨らみ、脈を打つ。
そこから、いくつもの白い手が伸びてきた。
その手が私の足首を掴む。
冷たい、柔らかい、人間の手。
引きずられそうになって、私は必死に逃れようとした。
「やめて!」
叫んだ瞬間、壁が裂けた。
中から出てきたのは、無数の“私”。
年齢も髪型も少しずつ違う。
でも全員、私だった。
笑っている私。泣いている私。歪んだ笑顔の私。
みんなが一斉に囁く。
「ようこそ、家へ。」
視界がぐにゃりと歪んだ。
床も壁も天井も、脈打つように動き始める。
家具が血管のように伸び、家全体が“生き物”になっていく。
私は必死で玄関に走った。
ドアノブを掴むと、まるで心臓の鼓動のように熱かった。
開けようとしても開かない。
ドアの表面が柔らかく脈打ち、私の手を飲み込もうとする。
背後で、もう一人の“私”が笑った。
「逃げられないよ。
だって、この家は“私たちの体”なんだから。」
耳の奥で、低く響く声。
「複製D、安定中。融合率――上昇。」
息ができない。
視界が暗くなる。
足元から、床がぬるりとした感触に変わっていく。
まるで生肉の上を歩いているようだった。
私は叫びながら最後の力で窓を叩いた。
ガラスが割れる。
外の空気――冷たい夜風が頬を打った。
私は全力で外に飛び出した。
振り返ると、家の屋根がゆっくりと動いていた。
まるで何か巨大な生物が、背伸びをしているかのように。
家の窓から、無数の“私”が覗いていた。
その全員が、同じ笑顔で手を振っていた。
遠くで母の声がした。
「菜々、どこ行くの? 帰ってきなさい。
もう、家の一部になれたのに。」
私は泣きながら走った。
夜の空気が痛い。
でも、走らなきゃいけなかった。
この“家”から、逃げなければ。
だけど――次に瞬きをしたとき、目の前に立っていたのは。
見覚えのある玄関。
私の家だった。
表札には、見慣れない名前が彫られていた。
「安定個体D邸」
足元を見ると、家の影がゆっくりと私の足に絡みついていく。
そして、地面が呼吸した。
――家は、生きていた。
そして、私もまた、その中で“生かされている”のだと悟った。




