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私となにか  作者: noyww
3/10

第三話「妹」

朝、目が覚めた瞬間、誰かの視線を感じた。

部屋には誰もいない。

でも、枕元のあたりから小さな呼吸の音がした。

心臓が一拍遅れて跳ねる。


布団をめくると、そこには小さな手鏡があった。

私のものじゃない。

鏡の中に映る自分が、ゆっくりと瞬きをした――私より一拍、遅れて。


階下に降りると、母が朝食を作っていた。

「おはよう」と言うと、母は振り向いて笑う。

その笑顔が、昨日よりも固い。

まるで、貼りつけた笑みのようだった。


「菜々、まだ寝てるの?」と聞くと、母は少しだけ眉をひそめた。

「菜々?」

「妹の菜々。昨日、宿題手伝ってって……」

「うちに妹なんていないでしょ」


その瞬間、体の奥が冷たくなった。

確かに昨日、妹と一緒に宿題をした。

一緒に笑って、一緒に寝た。

夢じゃない。

夢じゃ、なかったはずなのに。


黙ってリビングを見回すと、壁の家族写真が目に入った。

そこにいたのは、母と父、そして私。

妹の姿はどこにもない。

代わりに、三人とも“私の顔”になっていた。


思わず後ずさりしたとき、二階から何かが落ちる音がした。

駆け上がって自分の部屋に入ると、机の上に一枚の絵が置かれていた。

子供の描いたような、拙いクレヨン画。

そこには、笑って手をつなぐ“私たち姉妹”の姿があった。

だけど、妹の顔の部分だけが黒く塗り潰されている。

そして下のほうに、小さな字でこう書かれていた。


「お姉ちゃん、もう代わって」


息が詰まった。

その言葉が、胸の奥にじわりと溶け込んでいく。

“代わって”とは、どういう意味だろう。


その夜、眠れなかった。

部屋の隅から、かすかな子供の笑い声が聞こえる。

寝返りを打って目を開けると、暗闇の中に小さな影が立っていた。

妹のような輪郭。

「菜々?」と呼ぶと、その影が静かに首を傾ける。


光が当たって、ようやく顔が見えた。

――それは私の顔だった。

少し幼い、あの日の私の顔。

影の“妹”はにっこり笑って言った。

「お姉ちゃん、やっと思い出したね」


私は声が出なかった。

影の私が続ける。

「わたし、ずっとここにいたの。

お姉ちゃんが忘れたときから、ずっと。」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。

思い出の断片がばらばらに蘇る。

海辺で遊んだ日。

転んだ妹の手を引いた瞬間――波の音。

そして、あの冷たい感触。

妹の小さな手が、私の指の中から消えていく。


あの日、私は“助けられなかった”。

妹は海に消えた。

でも、どうして母も父も覚えていないの?


鏡の中から声がした。

「覚えてるよ。だって、菜々はもうあなたの中にいるから。」

振り向くと、誰もいない。

ただ、鏡の中の私が泣いていた。

鏡の私の背後には、小さな子供の手が見えた。

私の肩に、そっと触れていた。


部屋の電気が点滅した。

瞬間的に照らされた鏡の中――そこには二人の“私”がいた。

一人は泣き、一人は笑っている。

笑っている方の私が、ゆっくりと口を開いた。


「次は、あなたの番。」


気づけば、私はベッドの上に倒れていた。

全身が汗で濡れている。

息が浅い。

足元を見ると、床に水滴が落ちていた。

小さな裸足の足跡が、ドアの外へ続いている。


追いかけるように廊下に出る。

家中が静まり返っている。

月明かりが窓から差し込み、白く光る床を照らす。

足跡は階段を降り、リビングの奥へと続いていた。


テーブルの上に、妹の描いた絵が置かれている。

さっきの絵と同じ。でも一つだけ違っていた。

黒く塗り潰されていた顔が、今は“笑っている”。

その顔が、私の今の顔にそっくりだった。


喉の奥がひゅっと鳴る。

そのとき、背後から小さな声がした。

「お姉ちゃん、もう大丈夫。わたし、もう出られるから。」


振り返った瞬間、視界が真っ白になった。

何かが私の体の中から抜け出していくような感覚。

骨の隙間から冷たい風が吹き抜けた。


気がつくと、私はリビングのソファに座っていた。

母と父が向かいにいる。

母が笑って言う。

「妹の菜々、元気になってよかったね」


意味が分からなかった。

横を見ると、私にそっくりな少女が微笑んでいた。

彼女の目の奥は、あの日の海と同じ色をしていた。


私は声を出そうとした。

でも口が動かない。

喉の奥から、別の声が漏れた。


「お姉ちゃん、もう休んでいいよ。」


母が私に毛布をかける。

妹――“菜々”が私の手を握った。

その指先が冷たくて、でもどこか懐かしい。


意識が遠のく中で、私は気づいた。

自分の手が、あの子の手と重なっている。

指の長さも、爪の形も、完全に同じ。


最後に見たのは、鏡の中の“私”だった。

鏡の中では、妹が笑い、私がその隣で眠っている。


そして、耳元で囁く声がした。


「これで、やっと一緒になれたね。」

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