第三話「妹」
朝、目が覚めた瞬間、誰かの視線を感じた。
部屋には誰もいない。
でも、枕元のあたりから小さな呼吸の音がした。
心臓が一拍遅れて跳ねる。
布団をめくると、そこには小さな手鏡があった。
私のものじゃない。
鏡の中に映る自分が、ゆっくりと瞬きをした――私より一拍、遅れて。
階下に降りると、母が朝食を作っていた。
「おはよう」と言うと、母は振り向いて笑う。
その笑顔が、昨日よりも固い。
まるで、貼りつけた笑みのようだった。
「菜々、まだ寝てるの?」と聞くと、母は少しだけ眉をひそめた。
「菜々?」
「妹の菜々。昨日、宿題手伝ってって……」
「うちに妹なんていないでしょ」
その瞬間、体の奥が冷たくなった。
確かに昨日、妹と一緒に宿題をした。
一緒に笑って、一緒に寝た。
夢じゃない。
夢じゃ、なかったはずなのに。
黙ってリビングを見回すと、壁の家族写真が目に入った。
そこにいたのは、母と父、そして私。
妹の姿はどこにもない。
代わりに、三人とも“私の顔”になっていた。
思わず後ずさりしたとき、二階から何かが落ちる音がした。
駆け上がって自分の部屋に入ると、机の上に一枚の絵が置かれていた。
子供の描いたような、拙いクレヨン画。
そこには、笑って手をつなぐ“私たち姉妹”の姿があった。
だけど、妹の顔の部分だけが黒く塗り潰されている。
そして下のほうに、小さな字でこう書かれていた。
「お姉ちゃん、もう代わって」
息が詰まった。
その言葉が、胸の奥にじわりと溶け込んでいく。
“代わって”とは、どういう意味だろう。
その夜、眠れなかった。
部屋の隅から、かすかな子供の笑い声が聞こえる。
寝返りを打って目を開けると、暗闇の中に小さな影が立っていた。
妹のような輪郭。
「菜々?」と呼ぶと、その影が静かに首を傾ける。
光が当たって、ようやく顔が見えた。
――それは私の顔だった。
少し幼い、あの日の私の顔。
影の“妹”はにっこり笑って言った。
「お姉ちゃん、やっと思い出したね」
私は声が出なかった。
影の私が続ける。
「わたし、ずっとここにいたの。
お姉ちゃんが忘れたときから、ずっと。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
思い出の断片がばらばらに蘇る。
海辺で遊んだ日。
転んだ妹の手を引いた瞬間――波の音。
そして、あの冷たい感触。
妹の小さな手が、私の指の中から消えていく。
あの日、私は“助けられなかった”。
妹は海に消えた。
でも、どうして母も父も覚えていないの?
鏡の中から声がした。
「覚えてるよ。だって、菜々はもうあなたの中にいるから。」
振り向くと、誰もいない。
ただ、鏡の中の私が泣いていた。
鏡の私の背後には、小さな子供の手が見えた。
私の肩に、そっと触れていた。
部屋の電気が点滅した。
瞬間的に照らされた鏡の中――そこには二人の“私”がいた。
一人は泣き、一人は笑っている。
笑っている方の私が、ゆっくりと口を開いた。
「次は、あなたの番。」
気づけば、私はベッドの上に倒れていた。
全身が汗で濡れている。
息が浅い。
足元を見ると、床に水滴が落ちていた。
小さな裸足の足跡が、ドアの外へ続いている。
追いかけるように廊下に出る。
家中が静まり返っている。
月明かりが窓から差し込み、白く光る床を照らす。
足跡は階段を降り、リビングの奥へと続いていた。
テーブルの上に、妹の描いた絵が置かれている。
さっきの絵と同じ。でも一つだけ違っていた。
黒く塗り潰されていた顔が、今は“笑っている”。
その顔が、私の今の顔にそっくりだった。
喉の奥がひゅっと鳴る。
そのとき、背後から小さな声がした。
「お姉ちゃん、もう大丈夫。わたし、もう出られるから。」
振り返った瞬間、視界が真っ白になった。
何かが私の体の中から抜け出していくような感覚。
骨の隙間から冷たい風が吹き抜けた。
気がつくと、私はリビングのソファに座っていた。
母と父が向かいにいる。
母が笑って言う。
「妹の菜々、元気になってよかったね」
意味が分からなかった。
横を見ると、私にそっくりな少女が微笑んでいた。
彼女の目の奥は、あの日の海と同じ色をしていた。
私は声を出そうとした。
でも口が動かない。
喉の奥から、別の声が漏れた。
「お姉ちゃん、もう休んでいいよ。」
母が私に毛布をかける。
妹――“菜々”が私の手を握った。
その指先が冷たくて、でもどこか懐かしい。
意識が遠のく中で、私は気づいた。
自分の手が、あの子の手と重なっている。
指の長さも、爪の形も、完全に同じ。
最後に見たのは、鏡の中の“私”だった。
鏡の中では、妹が笑い、私がその隣で眠っている。
そして、耳元で囁く声がした。
「これで、やっと一緒になれたね。」




