第二話「友達」
翌朝、目を覚ました瞬間、昨日の出来事が夢だったらと思った。
でも、部屋の空気がそれを否定していた。
昨夜よりも静かで、空気が重い。
布団の上に、黒い髪の一本が落ちていた。
私のものじゃない。長さが合わない。
階下から母の声がした。
昨日と同じ調子で、「早く起きなさい」。
声は優しいのに、どこか“録音”みたいに均一だ。
私は何も言わずに制服に着替え、家を出た。
学校までは十五分ほどの道。
途中にある公園の桜が、季節外れに一輪だけ咲いていた。
冬の空気に似合わないその花が、まるで“思い出し笑い”のようで気味が悪い。
教室に入ると、いつも通りの朝のざわめき。
けれど席順が違った。
昨日まで窓際の三列目にいたはずなのに、私の席は中央になっている。
机の中には見覚えのないノート。表紙には「佐久間絵里」と書かれていた。
私の名前じゃない。
「おはよう、絵里」
隣の席から声がした。麻美だ。
笑顔で手を振ってくれる。
でも、私は絵里じゃない。
「……私、絵里じゃないけど」
そう答えると、麻美は首をかしげた。
「またその冗談? 昨日も言ってたよ」
冗談じゃない。
私は“私”なのに。
昼休み、麻美が「今日、うち寄っていかない?」と言った。
少し怖かったが、何か確かめたくて頷いた。
放課後、麻美の家に着くと、門柱にかかった表札が目に入った。
「佐久間」。
私は息を飲んだ。
玄関のドアが開き、麻美の母親が顔を出した。
「まあ、絵里ちゃん! 久しぶりねえ」
その瞬間、背筋が凍った。
私は一度もここに来たことがない。
けれど、リビングに入ると――壁に私の写真が飾られていた。
制服姿の私、笑っている私、誕生日ケーキを前にした私。
どれも記憶にない。
写真立ての裏を見ると、日付が記されていた。
「2017年」。
八年前。私はその年、小学生だったはずだ。
麻美が私の肩に手を置いた。
「絵里、覚えてないの? 前もここに住んでたんだよ」
――住んでた?
麻美は続けた。
「転校してから、ずっと来なかったけど……また戻ってきてくれて嬉しい」
私は言葉が出なかった。
彼女の瞳の奥が濁って見えた。
あの“母の目”と同じ。
ふと見ると、リビングの奥の壁にもう一枚の写真があった。
麻美と私、そして知らない女の子が写っている。
その女の子の顔は、私の顔を歪めたように見えた。
目の位置が少しズレていて、笑い方がまるで私を真似しているようだった。
「この子、誰?」と聞くと、麻美は言葉を止め、少し笑った。
「あなた、でしょ?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「ねえ、もう帰るね」
靴を履きながらそう言うと、麻美の母が廊下から顔を出した。
「また“戻ってきたら”ゆっくりしてね」
“戻ってきたら”――その言葉が耳に残った。
外はもう暗くなっていた。
街灯がちらちらと瞬いて、光の下に白い影が動く。
風が吹くたび、耳の奥で誰かの囁きがする。
「おかえり」
振り返っても、誰もいない。
帰宅してすぐ、机の上の日記を開いた。
昨日の続きを書こうとしたら、ページが破かれていた。
代わりに、見知らぬ文字が残っている。
「佐久間絵里、再接続完了」
インクはまだ乾いていなかった。
ペンを握る手が震える。
“私”という存在の境界が、音もなく崩れていくのを感じた。
その夜、夢を見た。
学校の廊下を歩いていると、ガラス窓に映る自分がこちらを見て笑っている。
ガラスの中の“私”が口を動かした。
音は聞こえない。
でも唇の動きがはっきり読めた。
「お前が誰か、もう分からない」
目を覚ますと、スマホの通知が点滅していた。
LINEに、麻美からのメッセージ。
「今日は楽しかった。また“前みたいに”遊ぼうね」
その下に、もう一件。
送信者不明。
アイコンは私の顔だった。
メッセージは一行だけ。
「私、やっと見つけた」




