第10話「地球」
目を開けた瞬間、私は空の底にいた。
上も下もない。
方向という概念が、もはや意味をなしていない。
私の体は存在しているはずなのに、輪郭がどこにも見つからない。
ただ、音があった。
心臓の鼓動のような、一定のリズム。
でも、それは私の心臓ではなかった。
「これは、地球の音……?」
音は大地の奥から響いていた。
地面の中を這い、空気を揺らし、私の皮膚の裏を震わせる。
それが“言葉”のように聞こえた。
――オマエハ モドッタ。
「戻った……?」
――モトハ ココダ。
その声が響くたび、私の記憶が剥がれていく。
名前。
家。
妹。
朝。
光。
すべての言葉が、意味を失い、
ただの“音”として溶けていった。
私は膝をつく。
地面は柔らかく、呼吸をしていた。
指先を押し込むと、そこから鼓動が伝わってくる。
地球の心臓。
「……あなたが、私?」
――オマエハ ワタシ。
声が、世界中から響く。
大地の中、海の底、風の中。
無数の声が、同じリズムで脈打っていた。
それは、痛みだった。
けれど、どこか懐かしい。
私は立ち上がり、空を見上げた。
空がゆっくりと裂ける。
その向こうに、巨大な“眼”があった。
地球の眼。
私が見ているのではなく、
地球が私を見ている。
その視線に晒された瞬間、脳の奥が焼けた。
意識が白く泡立つ。
目の裏で、光が何度も爆ぜる。
思考が消えていく。
それでも、私は問わずにいられなかった。
「私……どうして、ここにいるの?」
――ミンナ オマエヲ タベタ。
――オマエモ ミンナヲ タベタ。
「……食べた?」
思い出す。
妹の皮膚。
母の顔。
壁に浮かんだ無数の口。
あれは“食事”だったのか。
――イノチハ マワル。
――マワルモノハ クサル。
――クサルモノハ ウツクシイ。
その言葉と同時に、私の足元の地面が脈打った。
皮膚のように、湿った音を立てて波打つ。
そこから、無数の腕が伸びてきた。
白く、柔らかい腕。
人の腕。
子どもの腕。
老いた腕。
性別も年齢も混ざり合い、形だけが残った“生の残滓”。
それらが私の脚を包み込む。
冷たいのに、生温かい。
まるで子宮に沈むような安堵。
「……やめて……」
声にならない。
喉の奥で空気が泡になって弾ける。
視界がぐにゃりと歪む。
腕たちは私の体を引きずり込む。
地面の中へ。
泥の中へ。
闇の胎内へ。
――オマエハ アサダ。
――オマエハ ヨルダ。
――オマエハ ヒトダ。
――オマエハ チキュウダ。
声が重なっていく。
無数の声が、私の脳を満たす。
痛みと音の境界が消える。
地面の中は温かい。
光がないのに、世界が見える。
そこには無数の“顔”があった。
動物の顔。
人の顔。
知らない生物の顔。
それらすべてが、私の皮膚の下で蠢いている。
「私……これ、全部……」
――オマエノ ナカ。
地球の声が答える。
私は、自分の手を見た。
そこに大陸が浮かび上がっていた。
皺の間に、海が流れている。
血管が、河川になっていた。
「これが……私の、体……?」
――ウツクシイ。
地球の声が震えた。
その震えに、無数の命の鼓動が混ざる。
獣が叫び、木が軋み、海が泡立つ。
そのすべてが私の心臓に直結している。
脳が焼ける。
骨が砕ける。
でも、もう痛くない。
私は気づいた。
この世界のあらゆる“生”は、
死んでも、私の中に戻る。
“生きる”とは、
“私の中で腐る”ことだった。
――アサガ クル。
地球の声が囁く。
暗闇の中で、再び光が差し込んだ。
それは太陽ではない。
私の心臓の奥から湧き出た、白い光。
地表が割れ、空気が沸騰する。
光が海を焼き、山を融かし、都市を溶かす。
すべての物質が同じ温度になっていく。
完全な“朝”。
その中心に、私がいた。
もはや人ではない。
血も肉も、形もない。
ただ、“感じる存在”。
――オハヨウ。
無数の声が同時に言った。
私の声だった。
あなたの声でもあった。
世界は、目を覚ました。
いや、最初から眠っていなかったのかもしれない。
ただ、人間という夢を見ていた。
それが、終わっただけ。
光が収束していく。
世界はひとつの呼吸となり、静かに脈を打った。
私は、その中心で微笑む。
「ねぇ、菜々……朝って、きれいだね。」
どこかで、妹の笑い声がした。
そして、地球はまた、ゆっくりと回り始めた。
――終――




