確かに情熱は無かった
この人達、何がしたいんだろう?
平日の夜、自宅に入った途端に異変に巻き込まれた松岡有紗は、途方に暮れていた。
目の前でメソメソと涙をこぼす女の隣には、私の結婚した相手であるはずの松岡浩がこちらをジッと見ている。
なぜか睨みつけるような視線で。
そして私の斜め横には見知らぬ男。
毎朝欠かさず朝食をとるダイニングセットの、隣同士だった椅子をずらして座っている律儀な彼は、なぜかニコニコとしているのでちょっと怖い。
「奥さんにはっ、悪いと思ってるけどっ、私達の方がっ、先に愛し合っててっ、私とヒロ君はっ本当にっ、ずっと前から愛し合っているから、どうしてもっ別れることなんて出来なくてっ」
声を上げて嗚咽を繰り返す女の背を、隣に座る松岡ヒロシの手が気遣うようにさする。
その様子にも、見知らぬ男は笑みを崩さず咎め止める様子もない。
彼女の身内では無いのか? じゃあ誰なんだろう? っていうか、何なんだろうこの状況は。と、松岡有紗はまだよくわかっていない。
・・・私はいったいいつまでこうやってなければならないんだろうか?
つい今さっきまでシステム障害の対応に追われていたのだ。午前中から続く問題はなにも解決できていないのに、ユーザー側の担当者が逃げたようで、代わりに対応していた責任者まで『今夜はもう解散で・・・』と言い残し連絡が取れなくなってしまった。エンドユーザーからしたらたまったもんじゃないが、こちらとしても打てる手は無い。
そんなどこかフワフワした気持ちのまま帰路についたが、家に着くなりこの3人に迎えられ、このよくわからない状況に巻き込まれたのだ。
今の正直な気持ちとしては、何も考えたく無いし風呂に入って早く寝たい。
「なんで君は何も言わないんだ?」
「えっと、まだ意味がわからなくて。なんで知らない人を勝手に家に招き入れているのかなって」
「はぁっ。君がいつまでもそんなんだから。ここは君の夫である僕の家でもあるよね?」
「いや、私の家だよ。結婚前に、私が私の名義で私の父から相続したんだから」
私の夫と自ら名乗った男は、泣いている女の身体から手を離す事なく「ッチッ」と、大きく舌打ちをした。
──え? 舌打ち? 私の夫は、こんな男だっただろうか?
有紗は、目を見開いて目の前の夫を見た。
この男は今朝だって、このテーブルでいつもと変わらず、私の作った朝食を食べていたじゃないか。
お互い両親は早世している天涯孤独の身だったので、家族に特別な挨拶などはなく、結婚式もあげず、新婚旅行もなかったが、互いの上司を交えただけの見合い結婚とはいえ、結婚生活は穏やかに粛々と営まれていたはずだ。
お互い仕事を持っていたので財布は別。自分のことは自分で。と、彼がそれまで賃貸だったため、持ち家だったこちらのマンションに住む事になったとて、家賃を請求することはなかった。
当然のように水道光熱費もそのまま自分で払い続けたが、それについてお互いに何か話し合いが持たれたこともなかった。
彼が食費を持つと言っていたが、彼は食事の用意をしないので当然買い物もしない。だから当然、家計の食費を払ったことはない。
この3年間、自分が作る朝食以外は一緒に食事を摂ることもなく、それすらも朝のニュース番組を聞き流す時間でしか無かったが、お互いの仕事が激務なことは結婚前から分かっていたし、夫と一緒に暮らす事での変化といえば、元々クイーンサイズだったベットが少々狭くなった程度で、それまでとあまり変わらなかった。
──子供がいたら話は違ったのだろうか。
有紗が、ぼんやりとそんなことを考えていると、テーブルを ドン と叩く音で我にかえる。
「なんでここまでされてまだ『離婚しよう』と言わないんだ!!」
「あ、ごめん。なに? どうゆうこと?」
「オマエみたいな女と3年も夫婦だったことに吐き気がするっ! もう良いっ帰ろうっサユリ!」
男は女の手をとり立ち上がったが、女は座ったまま「イヤっ別れたくないっ! ぅあぁぁ〜ん」と、幼児のように声を上げて泣き出してしまった。
なんなんだ? どうゆうことだ?
「つまり『離婚してください』ってあなた達は言っているのよね?」
痺れを切らせた有紗が、ストレートな質問をすると、やはり並んで座る松岡ヒロシとサユリは真逆のことを答えるのだ。
「当然だろっ!」
「違うわっ!」
「えぇ〜・・・」
どうゆうことぉ、わけわかんないわぁ、どうなってるのぉ。
これが松岡ヒロシの、自分の夫の一方的な思い込みで、他人様の娘さんにおかしなストーカー行為をしているのなら『身内が迷惑をかけた』と、立場上言わねばならぬこともあるのだろうが、この“サユリさん”とやらは『私とヒロ君はずっと前から愛し合っている』と宣言している。
つまり不倫なのよね? お互い合意の上で不倫関係を結んでいるのよね? なんの説明もいい訳も未だないけれども、そうゆうことなのよね?
有紗は、断片的に勃発するサユリとヒロシのやり取りから得た情報を独自解釈しつつ、それが正解ならば、それなのに号泣している意味もわからない女と、不貞の責任を無視してなぜか上から目線のままの夫の言動も理解できないまま、目の前で繰り広げられる押し問答にかれこれ1時間ほど付き合わされている。おそらくここにいる全員、明日も朝から仕事があるのに。
大人が3人もいて、なぜ順を追っていちから顛末までを誰も説明しないのかわからない。わからなすぎて、こちらからなんと声をかけて良いかもわからないでいた。
──そしてさらなる謎。このずっとニコニコしている男はなんなんだ?
有紗が見つめた左側、ダイニングテーブルのお誕生日席に座る男と目が合うと、謎の男はその笑みを一層深めてあっけらかんと言い切った。
「私にも訳がわからんのです」
有紗の全身に ゾワ っと悪寒感が走る。
有紗は、そう思っただけで決して口に出してない。それなのにこの男は『私もわからない』と言い切った。有紗がわかっていない事を理解した上でなんの説明もしていないのだ。
「えぇと、浩さん、こちらの方は?」
「サユリの配偶者だ」
「はぁっ!?」
有紗は、得体の知れない男よりはマシだと思ったのに、真顔の夫の答えに驚いて思わず大きな声が出た。
泣いている女が ビクリッ と身体を揺らすと、松岡ヒロシはその女の身体から手を離す事なく再び「ッチッ」と、大きく舌打ちをした。
「ご挨拶が遅れました。私は常田光博と申します。この常田サユリの配偶者を4年ほどやっていた者ですが・・・」
立ち上がり両手で手渡された名刺から、常田光博が名の知れた某企業法律事務所の弁護士であることがわかり、有紗は自分の夫が弁護士の妻を寝とるような愚か者だったと知って、仰け反りたいほどの衝撃を受けた。
常田ミツヒロは、テーブルに視線を戻しレコーダーの隣にあった朱肉の蓋を開けると、丁寧な所作で背に置いていた鞄から書類封筒をとりだし、クリアファイルに挟まれたいわゆる“緑の紙”を出した。
そしてそのままテーブルの上を滑らせるようにサユリの前に差し出すと、胸ポケットから高級そうなペンを出してそっと添え置いた。
「もう良いじゃ無いか。さっさとこれに記入してくれ」
「イヤッ! ヒロ君とは別れたく無いっ」
「え、ヒロ君、て、浩さんのことではなくて、常田光博さんの『ヒロ君』?」
「いいえ、違いますよ。私は『ヒロ君』と呼ばれた事はありません」
「えっ!?」
「オマエッ! さっきからデカい声を出すなよっ! お腹の子に何かあったらどうするんだ!?」
有紗の驚きに、サユリの身体が再びビクッと跳ねたのと同時に、松岡ヒロシが大声で有紗を叱責した。
「お腹の、子?」
「あぁそうだ。サユリは僕の子供を孕んでいる」
なぜか得意げに顎を上げる松岡ヒロシからギギギと顔を逸らし、有紗が確認するようにそちらを向くと、常田ミツヒロはニコニコしたまま頷いて言った。
「妊娠5ヶ月だそうです。私は3年間の米国出張から先月帰ったばかりですので、当然私の子供ではありません」
「ウソでしょ・・・」
「あぁ、予備はまだありますので、よろしければこちらどうぞ」
有紗の言葉を遮って、常田ミツヒロはもう一枚の“緑の紙”を松岡ヒロシに向かって差し出した。
松岡ヒロシは「ッチッ」と大きく舌打ちをして、テーブルの上のペンを勝手に手に取ると、こちらを一瞥することもなく記入捺印して「ほら」と、サユリにそのままペンを差し出した。
「スマホの中にしかいないやつと一緒にいてどうするんだ?」
「そうだよっミツヒロさんだって毎日ちゃんと会って話してくれたもんっ」
「じゃあどうするの? 子供、1人で育てられるの? サユリいま働いてないだろ?」
「今まで通り、みんなで、仲良く、すればいいじゃん!」
「言ったろコイツらには俺らの気持ちなんかわかんないって」
「ヤダ、ヤダ、別れたく無いっ! でもミツヒロさんとも離婚したくないっ」
「じゃあ置いていくよ? 良いの?」
「イヤッ! ヒロ君ともっ別れたくないっ」
私はいったい何を見せられているんだろう?
有紗は、単身赴任中毎日ビデオチャットしてたのか。凄いな。と常田ミツヒロを尊敬の眼差しで見た。単身異国の地で毎日仕事で疲れ果てていただろうに、その後にまたひと仕事ある生活なんて自分には無理だ。と、ミツヒロとヒロシを見比べた。
その視線を受け、サユリはブルブルと震える手で、ヒロシに指さされるままに記入していくが、その間にもえずきながらぐしゃぐしゃに涙と鼻水をたれ流し、泣く声も大きく堪えきれなくなっていく。
これは、正常な判断での行動なのだろうか?
有紗は、尋常ならざるそのあまりの異様さに不安になり「あ、あの、大丈夫?」と、手元にあったティッシュの箱を差し出した。
「あ、あ、ぁぉ、ぉ奥ザン、ヤザシイィ〜」
一瞬ペンが書類から離れ、サユリがティッシュに手を伸ばすが、その箱は常田ミツヒロに パシン と裏拳で弾かれすっ飛び、壁に当たって ボトリ と床に落ちた。
「良いから書いて」
「ぅあぁぁ〜っ」
・・・ビ、ビビったぁぁぁ〜。
視線だけでそちらを見ると、常田ミツヒロの顔は変わらずニコニコとしていたが、どう見ても殺気が出ている気がする。怒っているんだこの人。とてつもなく怒っているのだ。と、瞬時に察し、有紗は椅子の上で固まってただただ気配を消した。
サユリが捺印を終えると、常田ミツヒロは「これはこちらで提出しておくよ。あぁ、慰謝料の請求は相殺はしない。確実に双方別に請求します。必要なら接見禁止も出すし、後日専門の弁護士から連絡させてもらうから」と、書類を引き寄せながらさらりと言った。
コワッと内声しつつ有紗も書類を引き寄せ、その言葉に合わせて便乗する。
「あぁ、私もちゃんと弁護士雇うから、詳しい事は、」
「ッチッ」
全て言い切る前に、松岡ヒロシは舌打ちをして泣いている女の腕を掴んで強引に立たせると、何かまだグズグズと良い募るサユリの腰に手を回して、引きずるように玄関に向かう。
有紗が慌てて「鍵! 部屋の鍵は返して!」と立ち上がって利き手を差し出すと、松岡ヒロシはまた「ッチッ」ともはや本日何回目かわからない舌打ちをして、ポケットに入っていた鍵を床に投げ落とし背を向けた。
「最後の最後までクソみたいな女だったなっ」
わかりやすい捨て台詞と、扉の閉まる音がすると、松岡ヒロシと常田サユリが出て行った部屋は、水を打ったように静けさを取り戻した。
有紗はそのまま椅子に座り、両手を額に当て項垂れた。
「すみません勝手に。でも、今後どうするにせよ、コレはあった方がいいですよ」
椅子に座ったままの常田ミツヒロが、テーブルの上を片付けて、松岡浩の名が記入された“緑の紙”を手に取り読み込むと、小さく頷いてから「失礼」と一言述べて、スマホで書類の写真を撮った。
──あぁ、住所。ここでは無いどこかが書かれているのね。
なるほど。この3年間、激務なのは自分だけだったのか。
有紗は、常田の行動からその事実に気づいて、とうとう心身共に打ちのめされた。
常田ミツヒロは、俯いたままの有紗を一瞥すると視線をテーブルに戻し、立ち上がってクリアファイルに自分の分の書類をしまいこみながら、部屋を立ち去る準備をしつつ、未だ混乱しているであろう反応のいまいち鈍い女に、なんの気無しに助言するつもりで言葉を続けた。
「実は、貴方がお帰りになる前に3時間以上も話していたのですが、お二人のやり取りを見て納得しました。とても愛があるようには見えませんでしたので」
「愛は・・・ありましたよ」
「え?」
目のあわぬ、俯いたまま両手の細くて長い指の間も、その顔も見えない有紗の口から出た思いがけない答えに、動揺したミツヒロはここにきて初めてその表情を変えた。
「この3年間、ほぼ毎朝一緒に朝ごはんを食べていましたし、あぁ、この1ヶ月は少々仕事が立て込んでおりまして回数は減りましたが、それでも彼の舌打ちなどただの一度も・・・ついさっきまで聞いたことも見たこともありませんでした」
「え、あ、」
「アナタ方がどう思ったかはわかりませんが・・・私も、愛のない男と3年間も同衾したりしません」
「・・・それ、は・・・大変失礼しました」
常田ミツヒロは、最敬礼で頭を下げるとそのまま絞り出すように言った。
「・・・巻き込んでしまい、誠に、申し訳ありませんでした。つきましては何かお力になれることがあれば・・・」
数秒で顔をあげるも、微動だにしない有紗に、再び頭を下げて部屋を辞する。
揃えた革靴に足を入れ、玄関扉を開けた後廊下に落ちている鍵が目に入り「きちんと鍵を・・・」と言葉をかけかけ、腕時計で時間を確認すると、その先を言わずに扉に手をかけた。
入る時に確認したが、このマンションはエントランスに24時間対応のコンシェルジュがいるオートロック式だ。建物から出たら、鍵を持たない者の侵入はまず無理だろう。
「彼女はきっと冷静だった」
常田ミツヒロはそう独りごちると、その施錠音を確認してから部屋を後にした。
とうとう1人残された部屋で、有紗は大きくため息をついた。
常田ミツヒロにはああ言ったが、ここ最近顔を合わせない夫のヒロシを慮った瞬間などない。
思い返せば、毎朝作っていた朝食でさえ、2年目からはもはや虚しい意地だったと今ならわかる。
そもそも結婚の条件が『お互いに変わらないこと』であった。
結婚生活を共に営む共同体としては、最初から破綻していたのだ。
そんな結婚生活に、それでもゆくゆくは人生の良きパートナーになれれば。と言い訳じみた思いしか残らなかった現実に鼻白らむ。
テーブルの上に残された緑の紙とペンを見つける。
常田ミツヒロが部屋を出る際、八つ当たりをした自覚が確かにあった。
図星を突かれて、この無神経な男に最後に不快な気持ちにさせてやりたい。と、嫌がらせの言葉で切って返したのだ。
果たして意図した通り、彼は心を痛めて扉を閉めたことだろう。
なにせアチラのように、毎日16時間の時差をものともせずに語り合う情熱なんぞ、コチラには最初から無かったのだから。
有紗は、自分と同じ、いや、おそらく自分以上に傷ついていた彼が、これから1人の部屋に帰るのかとか、明日そのままの気持ちで出社するとか。それを思うと途端に申し訳ない気持ちになった。
──我ながら愚かな見栄をはったもんだ。
有紗は、大きく深呼吸をして覚悟を決めると、感謝と謝罪の言葉を告げるべく、テーブルの上のペンを手にとり、次に床に落ちた鍵を拾い、靴も履かずに勢いよく扉を開け部屋から走り出た。
完




