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「悪役令嬢寄り?――断罪の前提が間違っている」

家具扱いされて追放されたけれど、王太子に「替えのきかない椅子」として隣に迎えられました』 ―使い捨て令嬢が選んだのは、誰にも譲らない“私だけの椅子”でした―

作者: 月白ふゆ
掲載日:2025/07/02

家具のように扱われた令嬢が、今度こそ譲らない椅子を選ぶ物語。


【譲られる日】


「――エステル・クラヴィス様と、グランシュ侯爵家嫡男アルノー様の婚約は、正式に解消されました」


その声が響いた瞬間、舞踏会の空気はわずかに凍りついた。

演奏は止まりかけて、また何事もなかったように続いた。

誰かが小さく息を呑み、別の誰かはそっと口元を覆い、さらに別の誰かは……笑った。


「まあ、やっぱり。フィオナ様の方が華があるわよねえ」


「お姉様の方は、なんというか……家具みたいな存在でしたし」


聞こえている。すべて。


私は、黙ってグラスを置いた。

ドレスの裾を乱さぬよう立ち上がり、拍手の中心に視線を向ける。


そこには、確かにいた。

フィオナ。私の妹。煌びやかな薔薇色のドレスに身を包み、会場の光を一身に浴びている。

その腕に絡むのは、アルノー――数分前まで“私の婚約者”だった男。


「皆さま、どうぞよろしくお願いいたしますわ。姉に代わりまして、私がアルノー様と婚約いたしますの」


会場に柔らかな拍手が広がる。笑顔に満ちた祝福の波が、私を通り抜けていった。


私は歩き出す。

微笑みを浮かべたまま、誰にも気づかれないように、会場の出口へと向かう。

すれ違う客人たちが私を見ても、気まずさではなく“用済みの道具を見る目”だった。


フィオナと視線が合った。

彼女はふわりと笑い、唇をわずかに動かした。


――ありがとう、お姉様。


声は聞こえなかった。けれど、読み取るのは簡単だった。

私はその言葉を、彼女から何度も受け取ってきたから。


あの目。あの“それ、私のだよね?”って顔。

小さい頃からずっと、彼女は私のものを欲しがった。


私が祖母から譲られた髪飾り。

私が初めて買ってもらった絵本。

私が褒められた紅茶の淹れ方。

私が、ただ持っていただけの――婚約者。


欲しがりの瞳に射抜かれたものは、だいたい奪われる。

そういう仕組みで、私の世界はできていた。


私は振り返らず、会場を出る。

廊下の奥にある控室の扉を開けると、母が待っていた。


「フィオナの方が、やっぱり相応しいと思ったの。あなたもそう思うでしょう?」


淡々とした口調だった。まるで、最初からそう決まっていたかのように。


「ええ。わかっていました」


私はそう答えた。

嘘ではなかった。だって、これはいつものことだったから。

妹が欲しがったものは、妹のもの。

私が譲ることに疑問を抱く方が、おかしいのだ。


母は満足げに頷くと、続けた。


「それにね、これからはあまり顔を出さない方がいいわ。婚約解消後の姉が社交界をうろつくなんて、フィオナの評判にも関わるでしょう?」


私の存在は、もはや“恥”らしい。


「わかりました。ご迷惑はおかけしません」


椅子に座ると、ドレスの裾が滑らかに床を撫でた。

鏡の向こうの自分を、私はじっと見つめる。


完璧に結い上げられた髪。笑ってもいない、泣いてもいない顔。

誰のために整えられ、着飾られたのか。答えはもう、要らなかった。


この椅子に座っている間、私はずっと“何者か”の代用品だった。

気配を殺し、感情を押し殺し、扱いやすく――“家具”であることを、求められていた。


だから、私は立ち上がる。


静かに荷物をまとめ、脱いだドレスを畳み、宝石箱の蓋を閉じる。

そして、祖母の遺した古い鍵を手に取った。


誰も止めない。

屋敷を出る私を、見送る人はひとりもいなかった。


夜の冷たい空気が、頬をかすめる。


でも不思議と、悲しくなかった。

むしろ、少しだけ――胸が軽い。


「家具は……扉の外には、持ち出さないものだから」


そう呟いて、私は扉を閉めた。




【家具の退場】


馬車の車輪が軋む音を、私は膝の上で指を組みながら聞いていた。

身の回りのものは小さな鞄ひとつに収まった。宝飾品は不要。家名の紋章入りの扇も置いてきた。

名を名乗ることに意味がないのなら、捨てたところで惜しくもない。


「クラヴィス家の長女としては、もう失格なのでしょう?」


自嘲気味にそう呟くと、御者の青年が少しだけこちらを見た。

声に出ていたことに気づき、私は軽くかぶりを振って目を逸らす。

家具に感情なんてあるはずないのに、どうも最近は余計なことばかり口からこぼれる。


馬車は街道を外れ、林道へと入っていく。

舗装のない揺れが続くたび、車内の窓が軋み、冷えた風が隙間から入り込む。


目的地は、祖母が生前に暮らしていた離れ。

クラヴィス家の本家から馬車で二時間ほどの距離。

相続人が私だったことさえ、家族はすっかり忘れていたらしい。

たぶん、今も気づいていない。あるいは、気づいていても興味がない。


それでいい。


その方がずっと、やりやすい。


────


離れは、記憶よりも小さかった。

門扉には蔦が絡み、鍵穴はさびついていたけれど、祖母の形見の鍵は一発で回った。


玄関を開けると、冷気が一斉に流れ込んできた。

吐く息が白くなる。床の石タイルは濡れたように冷たい。

けれど、その空気は懐かしかった。

誰の声もしない静けさが、私には心地よい。


家具は、そっと手入れされていた。祖母が最期に使っていたらしいロッキングチェア、古い棚、ベッド、丸テーブル。


「……誰も動かしていない。置き去りにされたまま」


まるで、自分のようだと思った。


私は暖炉に火を入れ、部屋の埃を払い、ひとまず眠れる場所を整える。

日が落ちる頃には、なんとか人の住む家の形になった。


────


翌朝。

祖母の書斎だった部屋で、机の抽斗を開けてみる。

遺された手紙の束。レシピ帳。古い日記。

そして、一枚の古びた地図。そこに丸がつけられていた。


地図を見つめるうちに、記憶がふいに蘇る。

まだ私が十歳の頃、祖母に連れられて行った町の市場。

初めて自分で金貨を握って、紅茶葉を選び、商人と値引き交渉までした――あの思い出。


「あなたは黙って譲るばかりの子だけれど、選ぶ力もあるのよ」


祖母の声が、確かに脳裏に残っていた。


あの町なら、きっと働き口もある。

祖母が「人間として扱ってくれた」数少ない場所。


私は地図をたたみ、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。


この椅子は硬くて、少しきしむ。

でも、不思議と心地よかった。


「家具じゃないなら、椅子くらい自分で選ばなきゃね」


そう呟くと、ふっと笑いが漏れた。

冷たくて重かった体が、ようやく少しだけ、自分のものになった気がした。




【椅子のない部屋】


その町は、王都の影に隠れた、小さな商人の町だった。

石畳の道には露店が並び、パン屋からは香ばしい匂いが流れ、行き交う人々の会話は、どこかぬるま湯のように心地よかった。


私は、その町で“ただのひとり”になった。


名を伏せて、服を地味なものに変えて、手持ちの金貨を崩しながら、何日か宿に泊まった。

そして、祖母と来たあの店──文具と雑貨を扱う小さな商店の扉を叩いた。


「あの、何か、お仕事……ありませんか」


声が震えていなかったのが、少しだけ誇らしかった。


店主は、驚いたような顔をして、私の顔をじっと見た。


「お嬢さん、貴族の出かい?」


「違います。……元、です」


店主はそれ以上詮索せず、「帳簿の整理ができる人なら助かる」と言ってくれた。

それが、私の“椅子のない日々”の始まりだった。


────


仕事は淡々としていた。

商品の在庫と注文書の突き合わせ、顧客の帳簿整理、領収書の記載チェック。

地味で、誰にも注目されない仕事。


でも、誰にも“譲らなくていい”仕事だった。


間違っていても、私が訂正する。

失敗すれば、私が謝る。

責任を取るのも、誉められるのも、私。


それは怖くて、少しだけ嬉しかった。


昼は店の奥で書類に囲まれ、夜は祖母の離れへ戻る。

自分で火を起こし、スープを温め、ひとりで食卓につく。


空っぽの対面に、誰も座っていない食卓。

だけど、そこには“誰かの椅子”がなかった。

誰のためにも席を譲らなくていい、それがこんなにも楽だなんて、知らなかった。


────


ある日の午後、帳簿を抱えて出た帰り道、私は彼に出会った。


雨が降り始めた石畳の路地。

木箱を抱えていた私は、濡れた足元でバランスを崩し、帳簿をばらまいてしまった。


「……っ」


急いで拾おうとしたとき、誰かが無言で紙束を拾い集めてくれていた。


「助かりました」


私がそう言うと、男は無言で軽く会釈を返した。

若い。けれど、顔立ちは端整すぎて、少し浮いている。


着ているコートは質素なのに、所作はやけに洗練されていた。

何より、こちらを見つめるその目が、私の“顔”ではなく、“声”を聞いているような気がした。


「失礼を。少し、手が余っていたものですから」


彼の声は低くて柔らかかった。

それだけで、周囲の雑踏の音が一瞬だけ遠のいた気がした。


私は咄嗟に名前を名乗りかけ、ぐっと飲み込む。

エステル・クラヴィスではない、私はもう。


「セラ、と呼ばれています。助けていただいて、ありがとうございます」


彼は小さく微笑んだ。


「では、セラさん。またどこかで」


名前も名乗らず、彼は雨の中を去っていった。


────


あの出会いは、偶然だった。

でも、不思議な予感だけが残っていた。


いつか、また会う気がする。

そんな根拠のない予感が、心の奥で灯をともした。


帰宅して、祖母の椅子に腰を下ろす。

ふと、膝の上に目を落とすと、彼が拾ってくれた帳簿の隅に、書かれていた文字が目に入った。


《王都商会分室:取引記録要確認》


王都。商会。

そしてあの男の立ち居振る舞い。


……まさか、とは思いつつも、

私は初めて、他人のことを“気にしている自分”に気づいた。


それはきっと、家具ではない人間の、当たり前の感情なのだろう。




【欲しがりの視線】


週に一度、私は商店の帳簿を商会本部へ届ける。

本部は町の外れにあるレンガ造りの建物で、規模は小さいが品物の流通では町一番だ。

私は名前を伏せ、セラという通称で登録されていたが、それでも信用は少しずつ得られ始めていた。


ある日、本部で帳簿の確認を終え、通用口から外へ出たときだった。


通りの先に、見覚えのある髪色が揺れていた。

柔らかな亜麻色。手入れの行き届いた巻き髪。

動作の一つひとつが“見られること”を意識して形作られている、あの仕草。


フィオナ。


まさか、この町に来ているとは。


私はとっさに顔を伏せ、帽子を深くかぶった。

それでも、気づかれるには十分だったらしい。


「あら? ……お姉様?」


背筋が冷えるような声だった。

明るく、可愛らしく、誰にも悪意を感じさせない口調。

けれど私は知っている。

その声が、どれほどのものを“奪って”きたのか。


「まあ、こんなところでお会いするなんて。どうされたの? まさか、お仕事?」


目を丸くして笑うフィオナは、まるで花畑に舞い降りた蝶のように華やかだった。

通行人の何人かが振り返り、彼女に視線を向ける。


「ええ、少し。身を寄せる場所があって助かっています」


私は穏やかに微笑み返した。感情は込めず、丁寧に。ただ、それだけ。


フィオナは無邪気に手を組みながら、店の扉をちらりと見た。


「ここが、お姉様の働いている場所? なんだか素敵な雰囲気ね。……けれど、随分とこぢんまりしていて」


上品に微笑んでいるつもりなのだろう。

でも、言葉の端々にはしっかりと“差”が滲んでいた。


「まあ、貴族の名を捨ててまでこういう場所に来るなんて、少し驚いてしまって」


驚いているのは私の方だった。

なぜ彼女がこの町に?

王都を離れてまで、何を求めてここに?


その答えは、すぐに現れた。


──彼だった。


ルシアン。

あの日、帳簿を拾ってくれた青年が、通りの向こうから歩いてきた。

変装こそしているが、その所作は隠しきれない。

深く被った帽子。粗末なコート。けれど、指先の動きも、姿勢も、どこか“育ちの良さ”を滲ませている。


「まあ……」


フィオナが小さく息を呑んだ。


気づいた。

あの“欲しがりの目”が、彼に向けられる。


「……あの方は?」


無邪気を装いながら問うその声は、もはや私には警報にしか聞こえなかった。


「取引先の方です。ご紹介するような関係ではありません」


私はすぐにそう答えた。

けれどフィオナは、そのまま彼に向かって歩き出す。


「まあまあ、せっかくだからご挨拶だけでも――」


その瞬間、ルシアンがこちらに気づいた。

私とフィオナを見比べ、一瞬だけ困ったように眉を寄せる。


そして、いつもの柔らかな笑みで、私の方だけに会釈をした。


「セラさん、今日もご苦労さまです」


フィオナの方には、目線を合わせないまま。


それはきっと、偶然ではない。


私は小さく会釈を返すと、踵を返して立ち去った。


後ろで、フィオナの足音が止まるのを感じながら。


────


夜、祖母の椅子に腰かけながら、私はぼんやりと暖炉の火を見ていた。


フィオナの視線は、あの日と同じだった。

あの、“それ、私のだよね?”という目。

彼女の瞳が光るとき、それは欲望のサインだ。


そして私の人生で、その光に射抜かれて奪われなかったものは――ほとんどない。


でも。


私は火を見ながら、手のひらをそっと重ねる。


初めて、自分が何かを“守ろう”としていることに気づいた。


今度こそ、譲らない。

誰にも。


たとえそれが、椅子の一脚であっても。




【初めて、欲しがった】


再びルシアンと出会ったのは、雨の上がった午後だった。


市場の裏手にある石畳の細道。

帳簿を届けた帰り、角を曲がった先で、彼とばったり鉢合わせた。


「あ……」


私の声に、彼が足を止めた。


「セラさん」


名前を呼ばれただけで、ほんの少し心が温かくなった気がした。


「先日は、失礼しました。あの……妹が、突然声をかけてしまって」


「構いませんよ」


ルシアンは笑った。

その笑みは柔らかくて、けれどどこか、大人の皮肉を含んでいた。


「実の妹さんとは、随分と……対照的ですね」


「よく言われます」


苦笑まじりに返すと、彼は少しだけ顎を引いて、こちらを見た。


「あなたは、何も欲しがらない人ですね」


その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


「え?」


「話していると、わかるんです。必要なものは最小限。迷惑もかけず、空気のように振る舞う。……そうしてきたのでしょう?」


私は言葉を失った。

彼が何を知っているわけでもないことは、わかっていた。


それでも――図星だった。


「……譲ってきたんです。そうすることで、誰かの機嫌が良くなるならって」


「自分を削って?」


「削るというほど大層なものじゃありません。ただ、黙っていれば波風は立たないし、私でなくてもいいことばかりだったから」


それは、今まで誰にも話したことのない本音だった。


沈黙が落ちた。

風が吹き抜け、枝が擦れ合う音が聞こえる。

小さな葉が一枚、ルシアンの肩に落ちた。彼はそれを払いながら言った。


「……でも、それはあなたが欲しくなかったからですか?」


「……いいえ」


返答は、喉をすり抜けて出た。

自分でも驚くほど、すんなりと。


「私は、欲しかった。愛されることも、認められることも。……でも、“欲しい”と口にした瞬間、それは誰かのものになってしまうから」


私はいつも黙っていた。

欲しいものを、欲しいとすら言えなかった。


「だから、欲しがらないようにしていたの」


まるで、告白だった。

彼に何を伝えたかったのか、自分でもわからない。

ただ、誰かに話したくて仕方がなかったのだ。


「……なら」


ルシアンは私の正面に立ち、真っすぐに見つめてきた。


「今は、欲しいと思うものがありますか?」


その問いかけに、私は戸惑った。


けれど、ほんの少しの沈黙のあと、うなずいた。


「……ええ」


「それは?」


問い返されて、視線を伏せる。


けれど、次の瞬間にはもう顔を上げていた。


「あなたの隣に、いてもいいと――そう思いました」


風が止んだ。

小鳥のさえずりすら聞こえなくなるほど、世界が静かになった気がした。


ルシアンは目を細めて、微笑んだ。


「なら、今度はこちらから願いましょう。……隣にいてください、セラさん」


彼の声が、そっと私の輪郭をなぞるように響いた。


そして私は、たぶん人生で初めて――

“欲しがったもの”を、誰にも奪われずに受け取ったのだと思った。




【その椅子は、私のもの】


王都の王宮広間に、満ちる緊張。


「次期王太子妃候補の発表」という名目で催されたこの茶会は、貴族たちにとって社交界の“年に一度の見せ場”だった。

選ばれる候補は一人のみ。

数多の上流令嬢たちが装いを競い、振る舞いを演じ、誰よりも美しく笑う日。


フィオナ・クラヴィスも、そのひとりだった。

いや──彼女は“選ばれると信じていた”ただひとりだった。


「今夜、王太子様は私に視線を向けてくださるわ」

「お姉様がいなくなってから、ようやく私が主役ね」


そう言って、鏡に向かって笑っていたフィオナの姿を、私は知っている。


私は、その場にいた。


けれど、誰も気づいていなかった。

“あの地味で無害な姉”が、再び舞台に戻ってきたことを。


────


「皆さま、本日はご足労いただき感謝いたします」


司会役の老宰相が前に出て、会の始まりを告げる。

ざわつく貴族たちの視線が、王太子の席へと集まった。


その隣に座る一人の女性。

控えめな淡い青のドレス、上品にまとめられた髪、飾り気のない微笑み。


――エステル・クラヴィス。


それが、私だった。


招待状はルシアンの手で直接届けられ、ドレスも、椅子も、“私のため”に用意された。

隣に座るという意味が、この場でどういう扱いになるかは、明らかだった。


会場の空気が変わったのは、次の瞬間だった。


「それでは、次期王太子妃としてお迎えする方を――発表いたします」


一瞬の沈黙。

そして──


「エステル・クラヴィス殿」


全体が、静止した。

数秒遅れて、ざわめきが爆ぜる。


「え……クラヴィス家って、あの“妹”じゃなくて……?」


「長女の方? まだ生きてたの?」


「というか、どこにいたの……?」


私は、静かに椅子に座ったまま、前を見つめていた。


視線の先に、フィオナがいた。


彼女の顔は、最初きょとんとしていた。

自分が呼ばれると思っていたのだろう。

頬に手を添え、少しだけ照れて、立ち上がる準備すらしていた。


けれど、呼ばれたのは“姉”だった。

今や、家具でも添え物でもない、“名指し”された私だった。


フィオナの瞳に、やがて理解が滲んだ。


そして、あの目が現れる。


“それ、私のだよね?”という、あの目。


「な……なんで……お姉様……が……」


喉の奥から掠れた声が漏れた。


「どうして……そんな……っ、だって、お姉様は……家具みたいな、ただの……!」


彼女の言葉は途中で遮られた。

誰かが肩を掴み、誰かが席を離れ、誰かが視線を逸らす。


ルシアンが立ち上がった。


「エステル・クラヴィス殿は、私が生涯を添い遂げたいと願う方です」


その言葉が、広間に染み込むように響いた。


「その心、才、品格、どれを取っても他に替えがきかぬ存在。

 かつて誰かが“家具”と呼んだなら、それは――彼女を見ようとしなかった者の怠慢です」


私は座ったまま、深く頭を下げた。

誰のためでもない。ただ、自分のために。


譲らないと、決めた。

この椅子は、もう私のもの。誰の手にも渡さない。


私は、“選ばれた”のではない。

“選ばせた”のでもない。


ただ、座るべき椅子に、自分でたどり着いただけだ。




【名札付きの椅子】


王都での発表から数日後。

王宮の居室にいた私のもとへ、訪問者が現れたという報せが届いた。


──フィオナ・クラヴィス嬢、並びにクラヴィス公爵ご夫妻。


驚きは、なかった。

むしろ、今まで来なかったことのほうが不自然だった。


王宮の応接間で、三人を迎えた。

私の正面に並ぶその姿は、かつての記憶とは微妙に違っていた。


フィオナは目の下に影を落とし、華やかだった巻き髪も整えきれずに崩れている。

両親は服装こそ整っていたが、その視線はどこか遠慮がちだった。


「エステル……立派になったのね」


母が言った。

数年前、私に「もう顔を出さないで」と告げたその口で。


「お姉様、その……ほんとうに、申し訳なかったわ……。あのときのこと、全部……私……」


フィオナの声は震えていた。

けれど、その震えは“自責”のものではなく、“失ったことへの不安”に聞こえた。


私は、静かに彼女たちを見た。

怒りも、憎しみも、いまさら湧いてこなかった。


それよりも、ただひとつだけ、伝えたかった。


「私は……家具じゃなかったの」


その言葉に、三人の顔がわずかに動いた。


「都合よく黙っていて、何も望まなくて、場所を譲って、文句ひとつ言わない。

 それは、気に入られたかったから。誰かに、見てほしかったから。

 でも、誰も見てくれなかった」


静かな声で、私は続けた。


「だから今は、自分で決めた椅子に座ってるの。

 この椅子には、もう名札がついているの。『私のもの』って」


誰にも譲らない。


誰かが欲しがっても、それはもう手の届かない場所にある。


父が口を開いた。

「……エステル。家に戻ってきてほしい。家の名誉のためにも、お前の立場を……」


「その言葉を、どうして数年前に言ってくれなかったのですか?」


私は遮るように言った。


「“家具”には、戻るつもりはありません。

 “人”として向き合わないなら、今度は一切、目を合わせません」


応接間の空気が凍る。

けれど、それでよかった。

私の言葉は、ようやく“聞かれるべき重さ”を持ったのだ。


フィオナは椅子から立ち上がり、泣きそうな顔で私の腕を取ろうとした。


「お姉様……でも、あの人……ルシアン様は……!」


「私が選んだの。誰にも譲らなかった、私の初めての“欲しい”を。

 あなたの“欲しい”とは、違うのよ、フィオナ」


彼女の手が、ふるふると宙で止まり、やがて降りた。


「お引き取りください」


扉を指し示すと、三人は何も言わずに立ち上がり、歩き出した。

去り際、フィオナが一度だけ振り返った。

その瞳に、あの“欲しがる光”は、もうなかった。


────


夜、居室に戻った私は、椅子に腰かけて紅茶を飲んだ。

王妃としての椅子。名指しされた存在としての椅子。

誰かに選ばれるのを待たず、自分で手に入れたもの。


その座り心地は、かつてのどれよりもしっくりと馴染んだ。


もう、私は譲らない。


たとえ、誰が欲しがっても。




【使い捨てだった私へ】


私は、ずっと家具だった。


感情を押し隠して、誰にも面倒をかけず、置かれた場所にじっと収まっていた。

家族にとっても、社交界にとっても、都合のいいだけの存在。

そのくせ心のどこかで、誰かが手を伸ばしてくれるのを待っていた。


自分から動かなかったくせに。


だから、奪われた。

欲しがったこともないくせに、譲った顔をしてすべてを手放していた。


でも、本当は違った。


私は、欲しかった。


愛されることも、認められることも、自分だけの場所も。

欲しかったのに、口に出すことが怖かった。

“欲しがる自分”が、誰かにとって邪魔になるのではないかと、怯えていた。


けれど、今。


私はここにいる。


静かに火が灯る室内。

王宮の一角にある私の居室。

祖母の離れで慣れ親しんだ椅子によく似た、けれど確かに“私のために選ばれた椅子”に、私は腰を下ろしている。


椅子には名札がついていた。


誰かの都合で使われるための名前じゃない。

私自身の名。私が選び、私がここに在ると宣言するための印。


扉の外、足音が近づく。

控えめにノックされた後、ルシアンが入ってきた。


「紅茶、まだ残ってる?」


「冷めているけど、それでもいいなら」


彼は微笑んでうなずき、私の向かいに腰を下ろす。

こうして向かい合う時間が、少しずつ日常になってきた。

けれど、決して当たり前ではない。

彼が私を“選び続けてくれている”という事実を、私は一日たりとも軽んじない。


「よく似合ってるよ、その椅子」


カップを手にしながら、ルシアンがふとそう言った。


「そう?」


「うん。“そのために用意された椅子”に見える。まるで、君の姿に合わせて作られたみたいだ」


私は少しだけ考えてから、笑った。


「……そうかもね。ようやく見つけたの、この椅子」


「誰にも譲らない?」


「もちろん」


私はカップを口元に運びながら、ゆっくりと言葉を継いだ。


「これは、使い捨てだった私が、自分のために見つけた椅子。

 もう二度と、誰にも譲る気はないわ」


(完)

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