家具扱いされて追放されたけれど、王太子に「替えのきかない椅子」として隣に迎えられました』 ―使い捨て令嬢が選んだのは、誰にも譲らない“私だけの椅子”でした―
家具のように扱われた令嬢が、今度こそ譲らない椅子を選ぶ物語。
【譲られる日】
「――エステル・クラヴィス様と、グランシュ侯爵家嫡男アルノー様の婚約は、正式に解消されました」
その声が響いた瞬間、舞踏会の空気はわずかに凍りついた。
演奏は止まりかけて、また何事もなかったように続いた。
誰かが小さく息を呑み、別の誰かはそっと口元を覆い、さらに別の誰かは……笑った。
「まあ、やっぱり。フィオナ様の方が華があるわよねえ」
「お姉様の方は、なんというか……家具みたいな存在でしたし」
聞こえている。すべて。
私は、黙ってグラスを置いた。
ドレスの裾を乱さぬよう立ち上がり、拍手の中心に視線を向ける。
そこには、確かにいた。
フィオナ。私の妹。煌びやかな薔薇色のドレスに身を包み、会場の光を一身に浴びている。
その腕に絡むのは、アルノー――数分前まで“私の婚約者”だった男。
「皆さま、どうぞよろしくお願いいたしますわ。姉に代わりまして、私がアルノー様と婚約いたしますの」
会場に柔らかな拍手が広がる。笑顔に満ちた祝福の波が、私を通り抜けていった。
私は歩き出す。
微笑みを浮かべたまま、誰にも気づかれないように、会場の出口へと向かう。
すれ違う客人たちが私を見ても、気まずさではなく“用済みの道具を見る目”だった。
フィオナと視線が合った。
彼女はふわりと笑い、唇をわずかに動かした。
――ありがとう、お姉様。
声は聞こえなかった。けれど、読み取るのは簡単だった。
私はその言葉を、彼女から何度も受け取ってきたから。
あの目。あの“それ、私のだよね?”って顔。
小さい頃からずっと、彼女は私のものを欲しがった。
私が祖母から譲られた髪飾り。
私が初めて買ってもらった絵本。
私が褒められた紅茶の淹れ方。
私が、ただ持っていただけの――婚約者。
欲しがりの瞳に射抜かれたものは、だいたい奪われる。
そういう仕組みで、私の世界はできていた。
私は振り返らず、会場を出る。
廊下の奥にある控室の扉を開けると、母が待っていた。
「フィオナの方が、やっぱり相応しいと思ったの。あなたもそう思うでしょう?」
淡々とした口調だった。まるで、最初からそう決まっていたかのように。
「ええ。わかっていました」
私はそう答えた。
嘘ではなかった。だって、これはいつものことだったから。
妹が欲しがったものは、妹のもの。
私が譲ることに疑問を抱く方が、おかしいのだ。
母は満足げに頷くと、続けた。
「それにね、これからはあまり顔を出さない方がいいわ。婚約解消後の姉が社交界をうろつくなんて、フィオナの評判にも関わるでしょう?」
私の存在は、もはや“恥”らしい。
「わかりました。ご迷惑はおかけしません」
椅子に座ると、ドレスの裾が滑らかに床を撫でた。
鏡の向こうの自分を、私はじっと見つめる。
完璧に結い上げられた髪。笑ってもいない、泣いてもいない顔。
誰のために整えられ、着飾られたのか。答えはもう、要らなかった。
この椅子に座っている間、私はずっと“何者か”の代用品だった。
気配を殺し、感情を押し殺し、扱いやすく――“家具”であることを、求められていた。
だから、私は立ち上がる。
静かに荷物をまとめ、脱いだドレスを畳み、宝石箱の蓋を閉じる。
そして、祖母の遺した古い鍵を手に取った。
誰も止めない。
屋敷を出る私を、見送る人はひとりもいなかった。
夜の冷たい空気が、頬をかすめる。
でも不思議と、悲しくなかった。
むしろ、少しだけ――胸が軽い。
「家具は……扉の外には、持ち出さないものだから」
そう呟いて、私は扉を閉めた。
【家具の退場】
馬車の車輪が軋む音を、私は膝の上で指を組みながら聞いていた。
身の回りのものは小さな鞄ひとつに収まった。宝飾品は不要。家名の紋章入りの扇も置いてきた。
名を名乗ることに意味がないのなら、捨てたところで惜しくもない。
「クラヴィス家の長女としては、もう失格なのでしょう?」
自嘲気味にそう呟くと、御者の青年が少しだけこちらを見た。
声に出ていたことに気づき、私は軽くかぶりを振って目を逸らす。
家具に感情なんてあるはずないのに、どうも最近は余計なことばかり口からこぼれる。
馬車は街道を外れ、林道へと入っていく。
舗装のない揺れが続くたび、車内の窓が軋み、冷えた風が隙間から入り込む。
目的地は、祖母が生前に暮らしていた離れ。
クラヴィス家の本家から馬車で二時間ほどの距離。
相続人が私だったことさえ、家族はすっかり忘れていたらしい。
たぶん、今も気づいていない。あるいは、気づいていても興味がない。
それでいい。
その方がずっと、やりやすい。
────
離れは、記憶よりも小さかった。
門扉には蔦が絡み、鍵穴はさびついていたけれど、祖母の形見の鍵は一発で回った。
玄関を開けると、冷気が一斉に流れ込んできた。
吐く息が白くなる。床の石タイルは濡れたように冷たい。
けれど、その空気は懐かしかった。
誰の声もしない静けさが、私には心地よい。
家具は、そっと手入れされていた。祖母が最期に使っていたらしいロッキングチェア、古い棚、ベッド、丸テーブル。
「……誰も動かしていない。置き去りにされたまま」
まるで、自分のようだと思った。
私は暖炉に火を入れ、部屋の埃を払い、ひとまず眠れる場所を整える。
日が落ちる頃には、なんとか人の住む家の形になった。
────
翌朝。
祖母の書斎だった部屋で、机の抽斗を開けてみる。
遺された手紙の束。レシピ帳。古い日記。
そして、一枚の古びた地図。そこに丸がつけられていた。
地図を見つめるうちに、記憶がふいに蘇る。
まだ私が十歳の頃、祖母に連れられて行った町の市場。
初めて自分で金貨を握って、紅茶葉を選び、商人と値引き交渉までした――あの思い出。
「あなたは黙って譲るばかりの子だけれど、選ぶ力もあるのよ」
祖母の声が、確かに脳裏に残っていた。
あの町なら、きっと働き口もある。
祖母が「人間として扱ってくれた」数少ない場所。
私は地図をたたみ、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。
この椅子は硬くて、少しきしむ。
でも、不思議と心地よかった。
「家具じゃないなら、椅子くらい自分で選ばなきゃね」
そう呟くと、ふっと笑いが漏れた。
冷たくて重かった体が、ようやく少しだけ、自分のものになった気がした。
【椅子のない部屋】
その町は、王都の影に隠れた、小さな商人の町だった。
石畳の道には露店が並び、パン屋からは香ばしい匂いが流れ、行き交う人々の会話は、どこかぬるま湯のように心地よかった。
私は、その町で“ただのひとり”になった。
名を伏せて、服を地味なものに変えて、手持ちの金貨を崩しながら、何日か宿に泊まった。
そして、祖母と来たあの店──文具と雑貨を扱う小さな商店の扉を叩いた。
「あの、何か、お仕事……ありませんか」
声が震えていなかったのが、少しだけ誇らしかった。
店主は、驚いたような顔をして、私の顔をじっと見た。
「お嬢さん、貴族の出かい?」
「違います。……元、です」
店主はそれ以上詮索せず、「帳簿の整理ができる人なら助かる」と言ってくれた。
それが、私の“椅子のない日々”の始まりだった。
────
仕事は淡々としていた。
商品の在庫と注文書の突き合わせ、顧客の帳簿整理、領収書の記載チェック。
地味で、誰にも注目されない仕事。
でも、誰にも“譲らなくていい”仕事だった。
間違っていても、私が訂正する。
失敗すれば、私が謝る。
責任を取るのも、誉められるのも、私。
それは怖くて、少しだけ嬉しかった。
昼は店の奥で書類に囲まれ、夜は祖母の離れへ戻る。
自分で火を起こし、スープを温め、ひとりで食卓につく。
空っぽの対面に、誰も座っていない食卓。
だけど、そこには“誰かの椅子”がなかった。
誰のためにも席を譲らなくていい、それがこんなにも楽だなんて、知らなかった。
────
ある日の午後、帳簿を抱えて出た帰り道、私は彼に出会った。
雨が降り始めた石畳の路地。
木箱を抱えていた私は、濡れた足元でバランスを崩し、帳簿をばらまいてしまった。
「……っ」
急いで拾おうとしたとき、誰かが無言で紙束を拾い集めてくれていた。
「助かりました」
私がそう言うと、男は無言で軽く会釈を返した。
若い。けれど、顔立ちは端整すぎて、少し浮いている。
着ているコートは質素なのに、所作はやけに洗練されていた。
何より、こちらを見つめるその目が、私の“顔”ではなく、“声”を聞いているような気がした。
「失礼を。少し、手が余っていたものですから」
彼の声は低くて柔らかかった。
それだけで、周囲の雑踏の音が一瞬だけ遠のいた気がした。
私は咄嗟に名前を名乗りかけ、ぐっと飲み込む。
エステル・クラヴィスではない、私はもう。
「セラ、と呼ばれています。助けていただいて、ありがとうございます」
彼は小さく微笑んだ。
「では、セラさん。またどこかで」
名前も名乗らず、彼は雨の中を去っていった。
────
あの出会いは、偶然だった。
でも、不思議な予感だけが残っていた。
いつか、また会う気がする。
そんな根拠のない予感が、心の奥で灯をともした。
帰宅して、祖母の椅子に腰を下ろす。
ふと、膝の上に目を落とすと、彼が拾ってくれた帳簿の隅に、書かれていた文字が目に入った。
《王都商会分室:取引記録要確認》
王都。商会。
そしてあの男の立ち居振る舞い。
……まさか、とは思いつつも、
私は初めて、他人のことを“気にしている自分”に気づいた。
それはきっと、家具ではない人間の、当たり前の感情なのだろう。
【欲しがりの視線】
週に一度、私は商店の帳簿を商会本部へ届ける。
本部は町の外れにあるレンガ造りの建物で、規模は小さいが品物の流通では町一番だ。
私は名前を伏せ、セラという通称で登録されていたが、それでも信用は少しずつ得られ始めていた。
ある日、本部で帳簿の確認を終え、通用口から外へ出たときだった。
通りの先に、見覚えのある髪色が揺れていた。
柔らかな亜麻色。手入れの行き届いた巻き髪。
動作の一つひとつが“見られること”を意識して形作られている、あの仕草。
フィオナ。
まさか、この町に来ているとは。
私はとっさに顔を伏せ、帽子を深くかぶった。
それでも、気づかれるには十分だったらしい。
「あら? ……お姉様?」
背筋が冷えるような声だった。
明るく、可愛らしく、誰にも悪意を感じさせない口調。
けれど私は知っている。
その声が、どれほどのものを“奪って”きたのか。
「まあ、こんなところでお会いするなんて。どうされたの? まさか、お仕事?」
目を丸くして笑うフィオナは、まるで花畑に舞い降りた蝶のように華やかだった。
通行人の何人かが振り返り、彼女に視線を向ける。
「ええ、少し。身を寄せる場所があって助かっています」
私は穏やかに微笑み返した。感情は込めず、丁寧に。ただ、それだけ。
フィオナは無邪気に手を組みながら、店の扉をちらりと見た。
「ここが、お姉様の働いている場所? なんだか素敵な雰囲気ね。……けれど、随分とこぢんまりしていて」
上品に微笑んでいるつもりなのだろう。
でも、言葉の端々にはしっかりと“差”が滲んでいた。
「まあ、貴族の名を捨ててまでこういう場所に来るなんて、少し驚いてしまって」
驚いているのは私の方だった。
なぜ彼女がこの町に?
王都を離れてまで、何を求めてここに?
その答えは、すぐに現れた。
──彼だった。
ルシアン。
あの日、帳簿を拾ってくれた青年が、通りの向こうから歩いてきた。
変装こそしているが、その所作は隠しきれない。
深く被った帽子。粗末なコート。けれど、指先の動きも、姿勢も、どこか“育ちの良さ”を滲ませている。
「まあ……」
フィオナが小さく息を呑んだ。
気づいた。
あの“欲しがりの目”が、彼に向けられる。
「……あの方は?」
無邪気を装いながら問うその声は、もはや私には警報にしか聞こえなかった。
「取引先の方です。ご紹介するような関係ではありません」
私はすぐにそう答えた。
けれどフィオナは、そのまま彼に向かって歩き出す。
「まあまあ、せっかくだからご挨拶だけでも――」
その瞬間、ルシアンがこちらに気づいた。
私とフィオナを見比べ、一瞬だけ困ったように眉を寄せる。
そして、いつもの柔らかな笑みで、私の方だけに会釈をした。
「セラさん、今日もご苦労さまです」
フィオナの方には、目線を合わせないまま。
それはきっと、偶然ではない。
私は小さく会釈を返すと、踵を返して立ち去った。
後ろで、フィオナの足音が止まるのを感じながら。
────
夜、祖母の椅子に腰かけながら、私はぼんやりと暖炉の火を見ていた。
フィオナの視線は、あの日と同じだった。
あの、“それ、私のだよね?”という目。
彼女の瞳が光るとき、それは欲望のサインだ。
そして私の人生で、その光に射抜かれて奪われなかったものは――ほとんどない。
でも。
私は火を見ながら、手のひらをそっと重ねる。
初めて、自分が何かを“守ろう”としていることに気づいた。
今度こそ、譲らない。
誰にも。
たとえそれが、椅子の一脚であっても。
【初めて、欲しがった】
再びルシアンと出会ったのは、雨の上がった午後だった。
市場の裏手にある石畳の細道。
帳簿を届けた帰り、角を曲がった先で、彼とばったり鉢合わせた。
「あ……」
私の声に、彼が足を止めた。
「セラさん」
名前を呼ばれただけで、ほんの少し心が温かくなった気がした。
「先日は、失礼しました。あの……妹が、突然声をかけてしまって」
「構いませんよ」
ルシアンは笑った。
その笑みは柔らかくて、けれどどこか、大人の皮肉を含んでいた。
「実の妹さんとは、随分と……対照的ですね」
「よく言われます」
苦笑まじりに返すと、彼は少しだけ顎を引いて、こちらを見た。
「あなたは、何も欲しがらない人ですね」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「え?」
「話していると、わかるんです。必要なものは最小限。迷惑もかけず、空気のように振る舞う。……そうしてきたのでしょう?」
私は言葉を失った。
彼が何を知っているわけでもないことは、わかっていた。
それでも――図星だった。
「……譲ってきたんです。そうすることで、誰かの機嫌が良くなるならって」
「自分を削って?」
「削るというほど大層なものじゃありません。ただ、黙っていれば波風は立たないし、私でなくてもいいことばかりだったから」
それは、今まで誰にも話したことのない本音だった。
沈黙が落ちた。
風が吹き抜け、枝が擦れ合う音が聞こえる。
小さな葉が一枚、ルシアンの肩に落ちた。彼はそれを払いながら言った。
「……でも、それはあなたが欲しくなかったからですか?」
「……いいえ」
返答は、喉をすり抜けて出た。
自分でも驚くほど、すんなりと。
「私は、欲しかった。愛されることも、認められることも。……でも、“欲しい”と口にした瞬間、それは誰かのものになってしまうから」
私はいつも黙っていた。
欲しいものを、欲しいとすら言えなかった。
「だから、欲しがらないようにしていたの」
まるで、告白だった。
彼に何を伝えたかったのか、自分でもわからない。
ただ、誰かに話したくて仕方がなかったのだ。
「……なら」
ルシアンは私の正面に立ち、真っすぐに見つめてきた。
「今は、欲しいと思うものがありますか?」
その問いかけに、私は戸惑った。
けれど、ほんの少しの沈黙のあと、うなずいた。
「……ええ」
「それは?」
問い返されて、視線を伏せる。
けれど、次の瞬間にはもう顔を上げていた。
「あなたの隣に、いてもいいと――そう思いました」
風が止んだ。
小鳥のさえずりすら聞こえなくなるほど、世界が静かになった気がした。
ルシアンは目を細めて、微笑んだ。
「なら、今度はこちらから願いましょう。……隣にいてください、セラさん」
彼の声が、そっと私の輪郭をなぞるように響いた。
そして私は、たぶん人生で初めて――
“欲しがったもの”を、誰にも奪われずに受け取ったのだと思った。
【その椅子は、私のもの】
王都の王宮広間に、満ちる緊張。
「次期王太子妃候補の発表」という名目で催されたこの茶会は、貴族たちにとって社交界の“年に一度の見せ場”だった。
選ばれる候補は一人のみ。
数多の上流令嬢たちが装いを競い、振る舞いを演じ、誰よりも美しく笑う日。
フィオナ・クラヴィスも、そのひとりだった。
いや──彼女は“選ばれると信じていた”ただひとりだった。
「今夜、王太子様は私に視線を向けてくださるわ」
「お姉様がいなくなってから、ようやく私が主役ね」
そう言って、鏡に向かって笑っていたフィオナの姿を、私は知っている。
私は、その場にいた。
けれど、誰も気づいていなかった。
“あの地味で無害な姉”が、再び舞台に戻ってきたことを。
────
「皆さま、本日はご足労いただき感謝いたします」
司会役の老宰相が前に出て、会の始まりを告げる。
ざわつく貴族たちの視線が、王太子の席へと集まった。
その隣に座る一人の女性。
控えめな淡い青のドレス、上品にまとめられた髪、飾り気のない微笑み。
――エステル・クラヴィス。
それが、私だった。
招待状はルシアンの手で直接届けられ、ドレスも、椅子も、“私のため”に用意された。
隣に座るという意味が、この場でどういう扱いになるかは、明らかだった。
会場の空気が変わったのは、次の瞬間だった。
「それでは、次期王太子妃としてお迎えする方を――発表いたします」
一瞬の沈黙。
そして──
「エステル・クラヴィス殿」
全体が、静止した。
数秒遅れて、ざわめきが爆ぜる。
「え……クラヴィス家って、あの“妹”じゃなくて……?」
「長女の方? まだ生きてたの?」
「というか、どこにいたの……?」
私は、静かに椅子に座ったまま、前を見つめていた。
視線の先に、フィオナがいた。
彼女の顔は、最初きょとんとしていた。
自分が呼ばれると思っていたのだろう。
頬に手を添え、少しだけ照れて、立ち上がる準備すらしていた。
けれど、呼ばれたのは“姉”だった。
今や、家具でも添え物でもない、“名指し”された私だった。
フィオナの瞳に、やがて理解が滲んだ。
そして、あの目が現れる。
“それ、私のだよね?”という、あの目。
「な……なんで……お姉様……が……」
喉の奥から掠れた声が漏れた。
「どうして……そんな……っ、だって、お姉様は……家具みたいな、ただの……!」
彼女の言葉は途中で遮られた。
誰かが肩を掴み、誰かが席を離れ、誰かが視線を逸らす。
ルシアンが立ち上がった。
「エステル・クラヴィス殿は、私が生涯を添い遂げたいと願う方です」
その言葉が、広間に染み込むように響いた。
「その心、才、品格、どれを取っても他に替えがきかぬ存在。
かつて誰かが“家具”と呼んだなら、それは――彼女を見ようとしなかった者の怠慢です」
私は座ったまま、深く頭を下げた。
誰のためでもない。ただ、自分のために。
譲らないと、決めた。
この椅子は、もう私のもの。誰の手にも渡さない。
私は、“選ばれた”のではない。
“選ばせた”のでもない。
ただ、座るべき椅子に、自分でたどり着いただけだ。
【名札付きの椅子】
王都での発表から数日後。
王宮の居室にいた私のもとへ、訪問者が現れたという報せが届いた。
──フィオナ・クラヴィス嬢、並びにクラヴィス公爵ご夫妻。
驚きは、なかった。
むしろ、今まで来なかったことのほうが不自然だった。
王宮の応接間で、三人を迎えた。
私の正面に並ぶその姿は、かつての記憶とは微妙に違っていた。
フィオナは目の下に影を落とし、華やかだった巻き髪も整えきれずに崩れている。
両親は服装こそ整っていたが、その視線はどこか遠慮がちだった。
「エステル……立派になったのね」
母が言った。
数年前、私に「もう顔を出さないで」と告げたその口で。
「お姉様、その……ほんとうに、申し訳なかったわ……。あのときのこと、全部……私……」
フィオナの声は震えていた。
けれど、その震えは“自責”のものではなく、“失ったことへの不安”に聞こえた。
私は、静かに彼女たちを見た。
怒りも、憎しみも、いまさら湧いてこなかった。
それよりも、ただひとつだけ、伝えたかった。
「私は……家具じゃなかったの」
その言葉に、三人の顔がわずかに動いた。
「都合よく黙っていて、何も望まなくて、場所を譲って、文句ひとつ言わない。
それは、気に入られたかったから。誰かに、見てほしかったから。
でも、誰も見てくれなかった」
静かな声で、私は続けた。
「だから今は、自分で決めた椅子に座ってるの。
この椅子には、もう名札がついているの。『私のもの』って」
誰にも譲らない。
誰かが欲しがっても、それはもう手の届かない場所にある。
父が口を開いた。
「……エステル。家に戻ってきてほしい。家の名誉のためにも、お前の立場を……」
「その言葉を、どうして数年前に言ってくれなかったのですか?」
私は遮るように言った。
「“家具”には、戻るつもりはありません。
“人”として向き合わないなら、今度は一切、目を合わせません」
応接間の空気が凍る。
けれど、それでよかった。
私の言葉は、ようやく“聞かれるべき重さ”を持ったのだ。
フィオナは椅子から立ち上がり、泣きそうな顔で私の腕を取ろうとした。
「お姉様……でも、あの人……ルシアン様は……!」
「私が選んだの。誰にも譲らなかった、私の初めての“欲しい”を。
あなたの“欲しい”とは、違うのよ、フィオナ」
彼女の手が、ふるふると宙で止まり、やがて降りた。
「お引き取りください」
扉を指し示すと、三人は何も言わずに立ち上がり、歩き出した。
去り際、フィオナが一度だけ振り返った。
その瞳に、あの“欲しがる光”は、もうなかった。
────
夜、居室に戻った私は、椅子に腰かけて紅茶を飲んだ。
王妃としての椅子。名指しされた存在としての椅子。
誰かに選ばれるのを待たず、自分で手に入れたもの。
その座り心地は、かつてのどれよりもしっくりと馴染んだ。
もう、私は譲らない。
たとえ、誰が欲しがっても。
【使い捨てだった私へ】
私は、ずっと家具だった。
感情を押し隠して、誰にも面倒をかけず、置かれた場所にじっと収まっていた。
家族にとっても、社交界にとっても、都合のいいだけの存在。
そのくせ心のどこかで、誰かが手を伸ばしてくれるのを待っていた。
自分から動かなかったくせに。
だから、奪われた。
欲しがったこともないくせに、譲った顔をしてすべてを手放していた。
でも、本当は違った。
私は、欲しかった。
愛されることも、認められることも、自分だけの場所も。
欲しかったのに、口に出すことが怖かった。
“欲しがる自分”が、誰かにとって邪魔になるのではないかと、怯えていた。
けれど、今。
私はここにいる。
静かに火が灯る室内。
王宮の一角にある私の居室。
祖母の離れで慣れ親しんだ椅子によく似た、けれど確かに“私のために選ばれた椅子”に、私は腰を下ろしている。
椅子には名札がついていた。
誰かの都合で使われるための名前じゃない。
私自身の名。私が選び、私がここに在ると宣言するための印。
扉の外、足音が近づく。
控えめにノックされた後、ルシアンが入ってきた。
「紅茶、まだ残ってる?」
「冷めているけど、それでもいいなら」
彼は微笑んでうなずき、私の向かいに腰を下ろす。
こうして向かい合う時間が、少しずつ日常になってきた。
けれど、決して当たり前ではない。
彼が私を“選び続けてくれている”という事実を、私は一日たりとも軽んじない。
「よく似合ってるよ、その椅子」
カップを手にしながら、ルシアンがふとそう言った。
「そう?」
「うん。“そのために用意された椅子”に見える。まるで、君の姿に合わせて作られたみたいだ」
私は少しだけ考えてから、笑った。
「……そうかもね。ようやく見つけたの、この椅子」
「誰にも譲らない?」
「もちろん」
私はカップを口元に運びながら、ゆっくりと言葉を継いだ。
「これは、使い捨てだった私が、自分のために見つけた椅子。
もう二度と、誰にも譲る気はないわ」
(完)
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