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家具扱いされて追放されたけれど、王太子に「替えのきかない椅子」として隣に迎えられました』 ―使い捨て令嬢が選んだのは、誰にも譲らない“私だけの椅子”でした―

作者: 月白ふゆ

家具のように扱われた令嬢が、今度こそ譲らない椅子を選ぶ物語。


【譲られる日】


「――エステル・クラヴィス様と、グランシュ侯爵家嫡男アルノー様の婚約は、正式に解消されました」


その声が響いた瞬間、舞踏会の空気はわずかに凍りついた。

演奏は止まりかけて、また何事もなかったように続いた。

誰かが小さく息を呑み、別の誰かはそっと口元を覆い、さらに別の誰かは……笑った。


「まあ、やっぱり。フィオナ様の方が華があるわよねえ」


「お姉様の方は、なんというか……家具みたいな存在でしたし」


聞こえている。すべて。


私は、黙ってグラスを置いた。

ドレスの裾を乱さぬよう立ち上がり、拍手の中心に視線を向ける。


そこには、確かにいた。

フィオナ。私の妹。煌びやかな薔薇色のドレスに身を包み、会場の光を一身に浴びている。

その腕に絡むのは、アルノー――数分前まで“私の婚約者”だった男。


「皆さま、どうぞよろしくお願いいたしますわ。姉に代わりまして、私がアルノー様と婚約いたしますの」


会場に柔らかな拍手が広がる。笑顔に満ちた祝福の波が、私を通り抜けていった。


私は歩き出す。

微笑みを浮かべたまま、誰にも気づかれないように、会場の出口へと向かう。

すれ違う客人たちが私を見ても、気まずさではなく“用済みの道具を見る目”だった。


フィオナと視線が合った。

彼女はふわりと笑い、唇をわずかに動かした。


――ありがとう、お姉様。


声は聞こえなかった。けれど、読み取るのは簡単だった。

私はその言葉を、彼女から何度も受け取ってきたから。


あの目。あの“それ、私のだよね?”って顔。

小さい頃からずっと、彼女は私のものを欲しがった。


私が祖母から譲られた髪飾り。

私が初めて買ってもらった絵本。

私が褒められた紅茶の淹れ方。

私が、ただ持っていただけの――婚約者。


欲しがりの瞳に射抜かれたものは、だいたい奪われる。

そういう仕組みで、私の世界はできていた。


私は振り返らず、会場を出る。

廊下の奥にある控室の扉を開けると、母が待っていた。


「フィオナの方が、やっぱり相応しいと思ったの。あなたもそう思うでしょう?」


淡々とした口調だった。まるで、最初からそう決まっていたかのように。


「ええ。わかっていました」


私はそう答えた。

嘘ではなかった。だって、これはいつものことだったから。

妹が欲しがったものは、妹のもの。

私が譲ることに疑問を抱く方が、おかしいのだ。


母は満足げに頷くと、続けた。


「それにね、これからはあまり顔を出さない方がいいわ。婚約解消後の姉が社交界をうろつくなんて、フィオナの評判にも関わるでしょう?」


私の存在は、もはや“恥”らしい。


「わかりました。ご迷惑はおかけしません」


椅子に座ると、ドレスの裾が滑らかに床を撫でた。

鏡の向こうの自分を、私はじっと見つめる。


完璧に結い上げられた髪。笑ってもいない、泣いてもいない顔。

誰のために整えられ、着飾られたのか。答えはもう、要らなかった。


この椅子に座っている間、私はずっと“何者か”の代用品だった。

気配を殺し、感情を押し殺し、扱いやすく――“家具”であることを、求められていた。


だから、私は立ち上がる。


静かに荷物をまとめ、脱いだドレスを畳み、宝石箱の蓋を閉じる。

そして、祖母の遺した古い鍵を手に取った。


誰も止めない。

屋敷を出る私を、見送る人はひとりもいなかった。


夜の冷たい空気が、頬をかすめる。


でも不思議と、悲しくなかった。

むしろ、少しだけ――胸が軽い。


「家具は……扉の外には、持ち出さないものだから」


そう呟いて、私は扉を閉めた。




【家具の退場】


馬車の車輪が軋む音を、私は膝の上で指を組みながら聞いていた。

身の回りのものは小さな鞄ひとつに収まった。宝飾品は不要。家名の紋章入りの扇も置いてきた。

名を名乗ることに意味がないのなら、捨てたところで惜しくもない。


「クラヴィス家の長女としては、もう失格なのでしょう?」


自嘲気味にそう呟くと、御者の青年が少しだけこちらを見た。

声に出ていたことに気づき、私は軽くかぶりを振って目を逸らす。

家具に感情なんてあるはずないのに、どうも最近は余計なことばかり口からこぼれる。


馬車は街道を外れ、林道へと入っていく。

舗装のない揺れが続くたび、車内の窓が軋み、冷えた風が隙間から入り込む。


目的地は、祖母が生前に暮らしていた離れ。

クラヴィス家の本家から馬車で二時間ほどの距離。

相続人が私だったことさえ、家族はすっかり忘れていたらしい。

たぶん、今も気づいていない。あるいは、気づいていても興味がない。


それでいい。


その方がずっと、やりやすい。


────


離れは、記憶よりも小さかった。

門扉には蔦が絡み、鍵穴はさびついていたけれど、祖母の形見の鍵は一発で回った。


玄関を開けると、冷気が一斉に流れ込んできた。

吐く息が白くなる。床の石タイルは濡れたように冷たい。

けれど、その空気は懐かしかった。

誰の声もしない静けさが、私には心地よい。


家具は、そっと手入れされていた。祖母が最期に使っていたらしいロッキングチェア、古い棚、ベッド、丸テーブル。


「……誰も動かしていない。置き去りにされたまま」


まるで、自分のようだと思った。


私は暖炉に火を入れ、部屋の埃を払い、ひとまず眠れる場所を整える。

日が落ちる頃には、なんとか人の住む家の形になった。


────


翌朝。

祖母の書斎だった部屋で、机の抽斗を開けてみる。

遺された手紙の束。レシピ帳。古い日記。

そして、一枚の古びた地図。そこに丸がつけられていた。


地図を見つめるうちに、記憶がふいに蘇る。

まだ私が十歳の頃、祖母に連れられて行った町の市場。

初めて自分で金貨を握って、紅茶葉を選び、商人と値引き交渉までした――あの思い出。


「あなたは黙って譲るばかりの子だけれど、選ぶ力もあるのよ」


祖母の声が、確かに脳裏に残っていた。


あの町なら、きっと働き口もある。

祖母が「人間として扱ってくれた」数少ない場所。


私は地図をたたみ、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。


この椅子は硬くて、少しきしむ。

でも、不思議と心地よかった。


「家具じゃないなら、椅子くらい自分で選ばなきゃね」


そう呟くと、ふっと笑いが漏れた。

冷たくて重かった体が、ようやく少しだけ、自分のものになった気がした。




【椅子のない部屋】


その町は、王都の影に隠れた、小さな商人の町だった。

石畳の道には露店が並び、パン屋からは香ばしい匂いが流れ、行き交う人々の会話は、どこかぬるま湯のように心地よかった。


私は、その町で“ただのひとり”になった。


名を伏せて、服を地味なものに変えて、手持ちの金貨を崩しながら、何日か宿に泊まった。

そして、祖母と来たあの店──文具と雑貨を扱う小さな商店の扉を叩いた。


「あの、何か、お仕事……ありませんか」


声が震えていなかったのが、少しだけ誇らしかった。


店主は、驚いたような顔をして、私の顔をじっと見た。


「お嬢さん、貴族の出かい?」


「違います。……元、です」


店主はそれ以上詮索せず、「帳簿の整理ができる人なら助かる」と言ってくれた。

それが、私の“椅子のない日々”の始まりだった。


────


仕事は淡々としていた。

商品の在庫と注文書の突き合わせ、顧客の帳簿整理、領収書の記載チェック。

地味で、誰にも注目されない仕事。


でも、誰にも“譲らなくていい”仕事だった。


間違っていても、私が訂正する。

失敗すれば、私が謝る。

責任を取るのも、誉められるのも、私。


それは怖くて、少しだけ嬉しかった。


昼は店の奥で書類に囲まれ、夜は祖母の離れへ戻る。

自分で火を起こし、スープを温め、ひとりで食卓につく。


空っぽの対面に、誰も座っていない食卓。

だけど、そこには“誰かの椅子”がなかった。

誰のためにも席を譲らなくていい、それがこんなにも楽だなんて、知らなかった。


────


ある日の午後、帳簿を抱えて出た帰り道、私は彼に出会った。


雨が降り始めた石畳の路地。

木箱を抱えていた私は、濡れた足元でバランスを崩し、帳簿をばらまいてしまった。


「……っ」


急いで拾おうとしたとき、誰かが無言で紙束を拾い集めてくれていた。


「助かりました」


私がそう言うと、男は無言で軽く会釈を返した。

若い。けれど、顔立ちは端整すぎて、少し浮いている。


着ているコートは質素なのに、所作はやけに洗練されていた。

何より、こちらを見つめるその目が、私の“顔”ではなく、“声”を聞いているような気がした。


「失礼を。少し、手が余っていたものですから」


彼の声は低くて柔らかかった。

それだけで、周囲の雑踏の音が一瞬だけ遠のいた気がした。


私は咄嗟に名前を名乗りかけ、ぐっと飲み込む。

エステル・クラヴィスではない、私はもう。


「セラ、と呼ばれています。助けていただいて、ありがとうございます」


彼は小さく微笑んだ。


「では、セラさん。またどこかで」


名前も名乗らず、彼は雨の中を去っていった。


────


あの出会いは、偶然だった。

でも、不思議な予感だけが残っていた。


いつか、また会う気がする。

そんな根拠のない予感が、心の奥で灯をともした。


帰宅して、祖母の椅子に腰を下ろす。

ふと、膝の上に目を落とすと、彼が拾ってくれた帳簿の隅に、書かれていた文字が目に入った。


《王都商会分室:取引記録要確認》


王都。商会。

そしてあの男の立ち居振る舞い。


……まさか、とは思いつつも、

私は初めて、他人のことを“気にしている自分”に気づいた。


それはきっと、家具ではない人間の、当たり前の感情なのだろう。




【欲しがりの視線】


週に一度、私は商店の帳簿を商会本部へ届ける。

本部は町の外れにあるレンガ造りの建物で、規模は小さいが品物の流通では町一番だ。

私は名前を伏せ、セラという通称で登録されていたが、それでも信用は少しずつ得られ始めていた。


ある日、本部で帳簿の確認を終え、通用口から外へ出たときだった。


通りの先に、見覚えのある髪色が揺れていた。

柔らかな亜麻色。手入れの行き届いた巻き髪。

動作の一つひとつが“見られること”を意識して形作られている、あの仕草。


フィオナ。


まさか、この町に来ているとは。


私はとっさに顔を伏せ、帽子を深くかぶった。

それでも、気づかれるには十分だったらしい。


「あら? ……お姉様?」


背筋が冷えるような声だった。

明るく、可愛らしく、誰にも悪意を感じさせない口調。

けれど私は知っている。

その声が、どれほどのものを“奪って”きたのか。


「まあ、こんなところでお会いするなんて。どうされたの? まさか、お仕事?」


目を丸くして笑うフィオナは、まるで花畑に舞い降りた蝶のように華やかだった。

通行人の何人かが振り返り、彼女に視線を向ける。


「ええ、少し。身を寄せる場所があって助かっています」


私は穏やかに微笑み返した。感情は込めず、丁寧に。ただ、それだけ。


フィオナは無邪気に手を組みながら、店の扉をちらりと見た。


「ここが、お姉様の働いている場所? なんだか素敵な雰囲気ね。……けれど、随分とこぢんまりしていて」


上品に微笑んでいるつもりなのだろう。

でも、言葉の端々にはしっかりと“差”が滲んでいた。


「まあ、貴族の名を捨ててまでこういう場所に来るなんて、少し驚いてしまって」


驚いているのは私の方だった。

なぜ彼女がこの町に?

王都を離れてまで、何を求めてここに?


その答えは、すぐに現れた。


──彼だった。


ルシアン。

あの日、帳簿を拾ってくれた青年が、通りの向こうから歩いてきた。

変装こそしているが、その所作は隠しきれない。

深く被った帽子。粗末なコート。けれど、指先の動きも、姿勢も、どこか“育ちの良さ”を滲ませている。


「まあ……」


フィオナが小さく息を呑んだ。


気づいた。

あの“欲しがりの目”が、彼に向けられる。


「……あの方は?」


無邪気を装いながら問うその声は、もはや私には警報にしか聞こえなかった。


「取引先の方です。ご紹介するような関係ではありません」


私はすぐにそう答えた。

けれどフィオナは、そのまま彼に向かって歩き出す。


「まあまあ、せっかくだからご挨拶だけでも――」


その瞬間、ルシアンがこちらに気づいた。

私とフィオナを見比べ、一瞬だけ困ったように眉を寄せる。


そして、いつもの柔らかな笑みで、私の方だけに会釈をした。


「セラさん、今日もご苦労さまです」


フィオナの方には、目線を合わせないまま。


それはきっと、偶然ではない。


私は小さく会釈を返すと、踵を返して立ち去った。


後ろで、フィオナの足音が止まるのを感じながら。


────


夜、祖母の椅子に腰かけながら、私はぼんやりと暖炉の火を見ていた。


フィオナの視線は、あの日と同じだった。

あの、“それ、私のだよね?”という目。

彼女の瞳が光るとき、それは欲望のサインだ。


そして私の人生で、その光に射抜かれて奪われなかったものは――ほとんどない。


でも。


私は火を見ながら、手のひらをそっと重ねる。


初めて、自分が何かを“守ろう”としていることに気づいた。


今度こそ、譲らない。

誰にも。


たとえそれが、椅子の一脚であっても。




【初めて、欲しがった】


再びルシアンと出会ったのは、雨の上がった午後だった。


市場の裏手にある石畳の細道。

帳簿を届けた帰り、角を曲がった先で、彼とばったり鉢合わせた。


「あ……」


私の声に、彼が足を止めた。


「セラさん」


名前を呼ばれただけで、ほんの少し心が温かくなった気がした。


「先日は、失礼しました。あの……妹が、突然声をかけてしまって」


「構いませんよ」


ルシアンは笑った。

その笑みは柔らかくて、けれどどこか、大人の皮肉を含んでいた。


「実の妹さんとは、随分と……対照的ですね」


「よく言われます」


苦笑まじりに返すと、彼は少しだけ顎を引いて、こちらを見た。


「あなたは、何も欲しがらない人ですね」


その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


「え?」


「話していると、わかるんです。必要なものは最小限。迷惑もかけず、空気のように振る舞う。……そうしてきたのでしょう?」


私は言葉を失った。

彼が何を知っているわけでもないことは、わかっていた。


それでも――図星だった。


「……譲ってきたんです。そうすることで、誰かの機嫌が良くなるならって」


「自分を削って?」


「削るというほど大層なものじゃありません。ただ、黙っていれば波風は立たないし、私でなくてもいいことばかりだったから」


それは、今まで誰にも話したことのない本音だった。


沈黙が落ちた。

風が吹き抜け、枝が擦れ合う音が聞こえる。

小さな葉が一枚、ルシアンの肩に落ちた。彼はそれを払いながら言った。


「……でも、それはあなたが欲しくなかったからですか?」


「……いいえ」


返答は、喉をすり抜けて出た。

自分でも驚くほど、すんなりと。


「私は、欲しかった。愛されることも、認められることも。……でも、“欲しい”と口にした瞬間、それは誰かのものになってしまうから」


私はいつも黙っていた。

欲しいものを、欲しいとすら言えなかった。


「だから、欲しがらないようにしていたの」


まるで、告白だった。

彼に何を伝えたかったのか、自分でもわからない。

ただ、誰かに話したくて仕方がなかったのだ。


「……なら」


ルシアンは私の正面に立ち、真っすぐに見つめてきた。


「今は、欲しいと思うものがありますか?」


その問いかけに、私は戸惑った。


けれど、ほんの少しの沈黙のあと、うなずいた。


「……ええ」


「それは?」


問い返されて、視線を伏せる。


けれど、次の瞬間にはもう顔を上げていた。


「あなたの隣に、いてもいいと――そう思いました」


風が止んだ。

小鳥のさえずりすら聞こえなくなるほど、世界が静かになった気がした。


ルシアンは目を細めて、微笑んだ。


「なら、今度はこちらから願いましょう。……隣にいてください、セラさん」


彼の声が、そっと私の輪郭をなぞるように響いた。


そして私は、たぶん人生で初めて――

“欲しがったもの”を、誰にも奪われずに受け取ったのだと思った。




【その椅子は、私のもの】


王都の王宮広間に、満ちる緊張。


「次期王太子妃候補の発表」という名目で催されたこの茶会は、貴族たちにとって社交界の“年に一度の見せ場”だった。

選ばれる候補は一人のみ。

数多の上流令嬢たちが装いを競い、振る舞いを演じ、誰よりも美しく笑う日。


フィオナ・クラヴィスも、そのひとりだった。

いや──彼女は“選ばれると信じていた”ただひとりだった。


「今夜、王太子様は私に視線を向けてくださるわ」

「お姉様がいなくなってから、ようやく私が主役ね」


そう言って、鏡に向かって笑っていたフィオナの姿を、私は知っている。


私は、その場にいた。


けれど、誰も気づいていなかった。

“あの地味で無害な姉”が、再び舞台に戻ってきたことを。


────


「皆さま、本日はご足労いただき感謝いたします」


司会役の老宰相が前に出て、会の始まりを告げる。

ざわつく貴族たちの視線が、王太子の席へと集まった。


その隣に座る一人の女性。

控えめな淡い青のドレス、上品にまとめられた髪、飾り気のない微笑み。


――エステル・クラヴィス。


それが、私だった。


招待状はルシアンの手で直接届けられ、ドレスも、椅子も、“私のため”に用意された。

隣に座るという意味が、この場でどういう扱いになるかは、明らかだった。


会場の空気が変わったのは、次の瞬間だった。


「それでは、次期王太子妃としてお迎えする方を――発表いたします」


一瞬の沈黙。

そして──


「エステル・クラヴィス殿」


全体が、静止した。

数秒遅れて、ざわめきが爆ぜる。


「え……クラヴィス家って、あの“妹”じゃなくて……?」


「長女の方? まだ生きてたの?」


「というか、どこにいたの……?」


私は、静かに椅子に座ったまま、前を見つめていた。


視線の先に、フィオナがいた。


彼女の顔は、最初きょとんとしていた。

自分が呼ばれると思っていたのだろう。

頬に手を添え、少しだけ照れて、立ち上がる準備すらしていた。


けれど、呼ばれたのは“姉”だった。

今や、家具でも添え物でもない、“名指し”された私だった。


フィオナの瞳に、やがて理解が滲んだ。


そして、あの目が現れる。


“それ、私のだよね?”という、あの目。


「な……なんで……お姉様……が……」


喉の奥から掠れた声が漏れた。


「どうして……そんな……っ、だって、お姉様は……家具みたいな、ただの……!」


彼女の言葉は途中で遮られた。

誰かが肩を掴み、誰かが席を離れ、誰かが視線を逸らす。


ルシアンが立ち上がった。


「エステル・クラヴィス殿は、私が生涯を添い遂げたいと願う方です」


その言葉が、広間に染み込むように響いた。


「その心、才、品格、どれを取っても他に替えがきかぬ存在。

 かつて誰かが“家具”と呼んだなら、それは――彼女を見ようとしなかった者の怠慢です」


私は座ったまま、深く頭を下げた。

誰のためでもない。ただ、自分のために。


譲らないと、決めた。

この椅子は、もう私のもの。誰の手にも渡さない。


私は、“選ばれた”のではない。

“選ばせた”のでもない。


ただ、座るべき椅子に、自分でたどり着いただけだ。




【名札付きの椅子】


王都での発表から数日後。

王宮の居室にいた私のもとへ、訪問者が現れたという報せが届いた。


──フィオナ・クラヴィス嬢、並びにクラヴィス公爵ご夫妻。


驚きは、なかった。

むしろ、今まで来なかったことのほうが不自然だった。


王宮の応接間で、三人を迎えた。

私の正面に並ぶその姿は、かつての記憶とは微妙に違っていた。


フィオナは目の下に影を落とし、華やかだった巻き髪も整えきれずに崩れている。

両親は服装こそ整っていたが、その視線はどこか遠慮がちだった。


「エステル……立派になったのね」


母が言った。

数年前、私に「もう顔を出さないで」と告げたその口で。


「お姉様、その……ほんとうに、申し訳なかったわ……。あのときのこと、全部……私……」


フィオナの声は震えていた。

けれど、その震えは“自責”のものではなく、“失ったことへの不安”に聞こえた。


私は、静かに彼女たちを見た。

怒りも、憎しみも、いまさら湧いてこなかった。


それよりも、ただひとつだけ、伝えたかった。


「私は……家具じゃなかったの」


その言葉に、三人の顔がわずかに動いた。


「都合よく黙っていて、何も望まなくて、場所を譲って、文句ひとつ言わない。

 それは、気に入られたかったから。誰かに、見てほしかったから。

 でも、誰も見てくれなかった」


静かな声で、私は続けた。


「だから今は、自分で決めた椅子に座ってるの。

 この椅子には、もう名札がついているの。『私のもの』って」


誰にも譲らない。


誰かが欲しがっても、それはもう手の届かない場所にある。


父が口を開いた。

「……エステル。家に戻ってきてほしい。家の名誉のためにも、お前の立場を……」


「その言葉を、どうして数年前に言ってくれなかったのですか?」


私は遮るように言った。


「“家具”には、戻るつもりはありません。

 “人”として向き合わないなら、今度は一切、目を合わせません」


応接間の空気が凍る。

けれど、それでよかった。

私の言葉は、ようやく“聞かれるべき重さ”を持ったのだ。


フィオナは椅子から立ち上がり、泣きそうな顔で私の腕を取ろうとした。


「お姉様……でも、あの人……ルシアン様は……!」


「私が選んだの。誰にも譲らなかった、私の初めての“欲しい”を。

 あなたの“欲しい”とは、違うのよ、フィオナ」


彼女の手が、ふるふると宙で止まり、やがて降りた。


「お引き取りください」


扉を指し示すと、三人は何も言わずに立ち上がり、歩き出した。

去り際、フィオナが一度だけ振り返った。

その瞳に、あの“欲しがる光”は、もうなかった。


────


夜、居室に戻った私は、椅子に腰かけて紅茶を飲んだ。

王妃としての椅子。名指しされた存在としての椅子。

誰かに選ばれるのを待たず、自分で手に入れたもの。


その座り心地は、かつてのどれよりもしっくりと馴染んだ。


もう、私は譲らない。


たとえ、誰が欲しがっても。




【使い捨てだった私へ】


私は、ずっと家具だった。


感情を押し隠して、誰にも面倒をかけず、置かれた場所にじっと収まっていた。

家族にとっても、社交界にとっても、都合のいいだけの存在。

そのくせ心のどこかで、誰かが手を伸ばしてくれるのを待っていた。


自分から動かなかったくせに。


だから、奪われた。

欲しがったこともないくせに、譲った顔をしてすべてを手放していた。


でも、本当は違った。


私は、欲しかった。


愛されることも、認められることも、自分だけの場所も。

欲しかったのに、口に出すことが怖かった。

“欲しがる自分”が、誰かにとって邪魔になるのではないかと、怯えていた。


けれど、今。


私はここにいる。


静かに火が灯る室内。

王宮の一角にある私の居室。

祖母の離れで慣れ親しんだ椅子によく似た、けれど確かに“私のために選ばれた椅子”に、私は腰を下ろしている。


椅子には名札がついていた。


誰かの都合で使われるための名前じゃない。

私自身の名。私が選び、私がここに在ると宣言するための印。


扉の外、足音が近づく。

控えめにノックされた後、ルシアンが入ってきた。


「紅茶、まだ残ってる?」


「冷めているけど、それでもいいなら」


彼は微笑んでうなずき、私の向かいに腰を下ろす。

こうして向かい合う時間が、少しずつ日常になってきた。

けれど、決して当たり前ではない。

彼が私を“選び続けてくれている”という事実を、私は一日たりとも軽んじない。


「よく似合ってるよ、その椅子」


カップを手にしながら、ルシアンがふとそう言った。


「そう?」


「うん。“そのために用意された椅子”に見える。まるで、君の姿に合わせて作られたみたいだ」


私は少しだけ考えてから、笑った。


「……そうかもね。ようやく見つけたの、この椅子」


「誰にも譲らない?」


「もちろん」


私はカップを口元に運びながら、ゆっくりと言葉を継いだ。


「これは、使い捨てだった私が、自分のために見つけた椅子。

 もう二度と、誰にも譲る気はないわ」


(完)

ここまで読んでくださり、ありがとうございました!


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