10(兄視点)
ヴィクトル・フォン・アントワ公爵はにっこりと微笑んだ。
広大な屋敷の敷地内に入るとすぐに、愛する妹の姿が見えたからだ。
ヴィクトルは、フラーグン王国の騎士団の総司令官で、宝石のように美しいシルバーブロンドに神秘的な紫色の瞳をしている。
黒い騎士服姿で馬を進めていたが、妹に気がつくとすぐに手綱を引いて馬を止めた。
気難しいと言われる男の笑顔はかなり珍しく神々(こうごう)しいほど美しい。
もしも誰かがそばにいたらそれが女でも男でもうっとりと見とれずにはいられないほどだ。
ヴィクトルは、『生きてる人形』と呼ばれるほどの美貌の持ち主なのだから。
「お兄ちゃま、おかえりなさーい!」
水色のドレスを着た愛らしい少女が勢いよく走ってくる。
ヴィクトルの妹のアリーシャだ。
はちみつ色のブロンドが太陽の光を受けて眩しく輝いている。青い瞳はまるで春の空のように澄み切っている。
——きっと、神が可愛いを集めて作ったに違いない。
本気でヴィクトルはそう思った。
アリーシャが赤ん坊のころはあまり接する機会がなかったが、三歳の時から一緒に過ごす時間が増えた。
小さな体をギュッと抱きしめた瞬間の不思議な感動をヴィクトルは今でもはっきりと覚えている。
——愛しい⋯⋯。
そんな気持ちが存在することを教えてくれたのもアリーシャだった。
「走るな、危ないぞ」
「ふぅ、疲れたぁ⋯⋯。馬に乗れたらこんなに走らないでいいのになぁ」
「馬はだめだ。ひとりでは絶対に乗らない約束だ」
アリーシャは十歳の誕生日にポニーから落ちて大怪我をしたのだ。三日も意識が戻らなかった。その時を思い出すと今でもヴィクトルは胸が苦しくなる。
「明日には十五歳になるんだよ。だから大丈夫、お兄ちゃま」
「だめだ——」
ヴィクトルは馬上から妹へ手を伸ばした。
アリーシャがその手を掴むと優しく引き上げる。そのまま自分の前に乗せた。
「ほら、見て。この指輪をアランがくれたの」
嬉しそうに見せてくれた細くて白い妹の中指に、一眼で高価だとわかる立派なルビーの指輪が光っている。
ヴィクトルはムッとした。
「指輪だと? まさか婚約を申し込まれたんじゃないんだろうな?」
「違うの。本をあげたからそのお返しよ」
アリーシャが明るく笑いながら指輪をはめた手をヒラヒラと振る。
「ふうん⋯⋯」
アランというのはヴィクトルの部下のアルベルトの甥っ子で、どうやらアリーシャのことが好きなようで、よく屋敷に遊びに来ているのだ。
「結婚は百年後だ」
「またそんなこと言って」
アリーシャがケラケラと笑う。
ヴィクトルは妹の笑い声が好きだった。明るい声を聞くと、騎士団を率いるトップの重圧や王族たち相手の神経戦の疲れなどが、どこかへ消えていくような気がする。
「素敵な指輪でしょう?」
「大したことはない。そうだ、我が公爵家に代々伝わるエメラルドの指輪があるからそれをおまえに——」
それをおまえにやろう、と言いかけて、ふと思い出した。
「やろうと思ったが、父が馬車の事故に遭った後で行方がわからなくなった」
「そんなことがあったの?」
「ああ——。誰かが盗んだのかもしれないな。紋章入りのとても美しい指輪だったが」
残念に思いつつ馬を進めると、左手に広大な農地が見え始めた。苺園だ。
「今年も豊作だな」
「甘さも最高だよ、お兄ちゃま」
「それは良かった」
アリーシャは『金の手』と呼ばれる才能の持ち主だ。植物を育てる天性の才能がある。
そのアリーシャのおかげで公爵家の苺は常に豊作だった。他の苺園が不作の年でもアリーシャが育てた苺だけは育ちがいいのだ。
苺はこの国の大事な産業。
品種改良を重ねた最高種は驚くほど高値で取引をされている。
つまりアリーシャのおかげで公爵家の財は増え続けているというわけだ。
「アリーシャ」
「はい?」
「おまえ、女領主になったらどうだ?」
「女領主? どういう意味なのお兄ちゃま?」
「公爵家の領地をおまえに任せるということだ——」
それがいい、とヴィクトルは広大な苺農地を見渡しながら思う。
「きっとおまえは、歴史に名を残す女領主になるぞ」
「⋯⋯」
「ん? どうした、嫌なのか?」
「嫌じゃないけど、もちろん嬉しいけど⋯⋯」
「けど?」
アリーシャが何か考え込むような暗い顔になった。
だけどすぐにパッといつもの笑顔に戻る。
「⋯⋯女領主になるなら馬に乗れなきゃいけないね」
「それはだめだ」
「だって馬がないと移動ができないもん、馬に乗りたい!」
「だめだ。俺が一生こうして乗せてやる」
「一生は無理だよ、冗談ばっかり言うんだから」
アリーシャがまたケラケラと笑う。
ヴィクトルはたくましい肩をすくめながら、
——本気だ。
と思った。
ヴィクトルはいつも本気なのだ。