extra scene 首輪
「ただいま戻りました、父上」
ご子息の帰還報告を、エヴァンジェリスティ卿は鷹揚に頷いて済ませた。うら若き次期当主はさすがに慣れたご様子である。こちらをちらりと見て、デラクアで会った男だと認識しながら無視したのは、僕が密偵であることを察しているからだろう。本当に、卿のご子息に相応しい青年だ。
彼はそのまま出ていこうという素振りを一瞬だけ見せて、ふと立ち止まった。
「研究資金、ありがとうございました。有益に使いました」
「うむ」
「そういえば、我が家から逃げた鳥は鳥籠に収まっていましたよ」
おっと、その話題はまずい。僕があえて報告を避けていたっていうのに。
案の定、卿はわずかに眉を動かした。めったに表情筋を動かすことのない彼だ、たったあれだけの動きでも明日あたり筋肉痛になるんじゃないだろうか。
「どのような籠だった?」
「相当不格好な鋼の籠でしたが、広くて居心地は悪くなさそうでしたよ」
「そうか」
「では、私はこれで」
ご子息が出ていった瞬間、鋭く研がれた青色の宝石がこちらを睨みつけた。
「セシリオ、お前からの報告にはなかったと思うが」
「勘弁してください。ご令嬢の男の話なんてしたくないですよ。だいたい、自由に生きてもらうために手放したんでしょう? だったら、どんな男と一緒になろうが文句は言えないはずです」
「文句を言うつもりはない」
嘘つけ、そんな目をしておいて何を言う、とは心の中だけにとどめておく。
「それで、いつからのことだ」
「出会ったのは今年の三月頃ですね。交際が始まったのは、おそらく夏頃かと」
「どんな男だ」
「背が高くてがたいがよくて、筋骨隆々って言葉が非常によく似合う、軍警勤めの男ですよ。見た目は怖いですが、性格は穏やかで、卿とは何もかもが反対です」
卿は線が細くて小柄だし、年の割に若く見えて、たいへん穏やかな紳士のように思える。奥様が亡くなってからは一切見られなくなったが、微笑んでいるときなど春の日差しよりも温かみを感じたくらいだ。これで誰も逆らえない威圧感を出すのだから、詐欺じみたお人だと言うほかない。
卿はわずかに機嫌を損ねたようだった。眉間のしわが少しだけ深くなっている。
「そんなに気になるなら置いておけば良かったのに」
「ここには不幸しかない」
動揺は一瞬だけだった。もう眉間はいつもどおり、刻みつけられただけの不動の筋に戻っている。
「それじゃ、僕を呼び戻したこと、後悔していますか」
監視は最長でも二年、と最初から決まっていたのだ。僕からの報告を元に、もう戻ってこい、と言ったのは卿である。
「まさか」
何をくだらないことを、と言外の言葉が聞こえた。
「あれの見る目を疑ったことはない。それに、悪い人間だったなら、お前は確実に報告したはずだ。報告しなくても良いというお前の判断が、そのままあれの判断の保証になる」
おやおや、僕はそれなりに信用していただけているようで。嬉しい限りです。
ちょっと調子に乗りそうになったのを見透かしたのか、卿はじろりと僕を見た。
「それはそれとして、報告義務の意図的な怠りは信用に関わる行いだな」
「……おっしゃるとおりで」
「次はないと思え」
「はい」
僕は神妙に頷いて、それ以上深掘りされる前に粛々と部屋を辞した。
☆
使用人部屋で食事を貰ってから帰ろう、と思ったのが運の尽きだったかもしれない。
「なぁ、お前」
ご子息に廊下で声を掛けられた瞬間、肝がひやりとした。恐れる必要はない、と分かってはいるが、不意を突かれた一瞬の怯えまでを抑え込むことはできない。こちらの好青年も見た目どおりとはいかないのだ。どうやら僕を待ち構えていたらしい。
若い分、卿よりも鮮やかな青色の瞳が僕を貫く。
「どうして籠のことを報告しないという判断をした」
これは純粋な好奇心からくる疑問だ。と、思う。卿と同じならば。問いかけ方は質問というより尋問のようにしか聞こえないけれど。
そして卿と同じならば、質問には本心を返すのが最適解だ。
「だって、嫌じゃないですか? 首輪がついたままの自由なんて。僕だったら絶対勘弁してほしいなと思いまして。特に恋愛沙汰に関しては、あんまり首突っ込まれたくないですよ」
ご子息は二、三、小さく頷いて、
「なるほど」
と呟いた。
それからにやりと笑って、
「それでは、私もお前の女遊びは黙っておこう」
「はい?」
「仕事にかこつけてずいぶんと入れ込んでいた女がいるらしいじゃないか」
「おっと、何のお話ですかね」
どこからどうして漏れたのかな。まぁ、まず間違いなく、ご令嬢経由でしょうけど。
「よくわかりませんが、入れ込めるだけの女性がいるというのは幸せなことじゃあないですか? ご子息にもそういう方がいらっしゃるといいですね」
「余計なお世話だ」
ご子息は鼻で笑った。
fin.