extra step 壁裏の散歩者 scene 1/2
ベルの顔を見た瞬間、カトラは尋ねた。
「何があったの?」
「そんなに分かりやすいか?」
「ええ、とっても困ってます、って顔に書いてあるわ」
ベルは頬を擦りながら苦笑した。
「壁裏スキッパーって分かるか」
「ええ、知ってるわ。洞窟に住む魔物で、人が大切にしている物を盗んでいくんでしょう?」
「そう。そいつが、どこかから官舎に入り込んだらしくてな」
「まぁ」
「どうも一ヶ月か、もう少し前からずっといるらしい。たぶん、魔石の調査の時に連れてきたんだろうけど……もう何人も被害に遭っててさ。それが分かったのが昨日で」
と、彼は頬杖をして、軽く溜め息をついた。
「駆除するのは簡単なんだけど、問題は盗られた物だ。空き巣と違って、返ってきそうにないからな。どうしたものか、と」
「そういうことなら、専門家に聞いてみるわ」
「専門家?」
「言ったでしょう、サルバトールってあたしの友達。魔物学者なの。もしかしたら、取り返し方を知ってるかもしれないから」
「ありがとう。助かるよ」
「ベルも何か盗られたの?」
何気なく聞くと、彼は目線を泳がせて、「え、ああ……まぁ、うん……」と曖昧に頷いた。
これ以上は聞かないでくれ、と顔に書いてあるのを見て、カトラは追及するのをやめた。
やめたけれど、でも。
翌日、図書館へ向かう道中も、カトラの頭の中はそのことでいっぱいだった。
(ベルの大切な物って何かしら?)
とても気になる。家族からの贈り物? 自分で買ったお気に入りの何か? ううん、だとしたらあんなふうに濁す必要なんてないわ。それなら――
(――昔の恋人との思い出の品、とか。それなら濁すのも分かるわ。……別に、気にしなくてもいいとは思うけれど)
ふ、とカトラは妙な気分になって、空に視線をやった。十一月の頭、すっきりと晴れ渡った薄青の空は、だんだんベルの瞳の色に近付いている。寒さがやってきている証拠だ。
(ベルの、昔の恋人……)
これまで考えたこともなかったが、きっといたに違いないのだ。故郷の北国に。一体どんな女性だったのだろう? やっぱり北国の女性だから、背が高くて美しいのだろうか。どうして別れたのだろう? 喧嘩して、というのは考えにくかった。とすると、ベルが南部勤務になったからだろうか。
(……どういうふうに付き合ってたのかしら。あたしに対するのと同じ感じ?)
同じだったとしても、違ったとしても、どちらにせよもやもやした。自分以外の女性にあの優しさを向けたことがあったとしたら、どうも気に食わない感じがしたし、自分の知らない顔をどこかの誰かが知っているとしたら、その事実もしゃくに障る。
通りかかった店の窓に、頬を膨らませた自分が映って、はたと我に返った。
(どうしようもないことで不機嫌になったって仕方ないでしょ、もう!)
カトラは軽く自分の頬を張って、意識的に頭を切り替えた。
☆
サルバトールと一緒に軍警の官舎を訪ねたのは、それから二日後の金曜日のことだった。
官舎の前の明かりの下で落ち着きなく立っていたベルは、いち早くこちらに気が付いて、軽く手を上げた。一瞬サルバトールを見つめた目が、納得するように二、三度瞬いたのは、遠目にはサルバトールが男性に見えたからに違いない。彼女のいつもの服装にはジャケットが追加されて、いっそう男性らしくなっていた。
「紹介するわ、ベル。デラクアの都市大学で魔物の研究をしていらっしゃる、サルバトールよ」
「あの、はじめまして。サルバトール・ネラーと申します」
サルバトールは深々と頭を下げてから、いつもどおりの穏やかな笑顔で、再びループタイを留めるようになったブローチに触れた。
「カトラさんから聞いています。これを取り戻すのに、尽力してくださったと。その節は本当にありがとうございました」
「いや、そんな礼を言われるようなことは、何も。ただ運が良かっただけで」
「運も実力のうちと申しますから」
その通りだ。カトラも隣で何度となく頷いた。どれだけ幸運があろうと、発揮できなければ意味がない。あの場で勝負にいける度胸は間違いなくベルの実力である。
ベルは照れたように首筋をひっかいた。
「今度は、私が取り返す番です。魔物のことでしたらお任せください」
サルバトールが胸を張って、堂々と請け負った。
軍警の独身者用の官舎は、本部のすぐ傍に林立している。奥に細長い造りの五階建てで、各階に六部屋ずつあるらしい。それが全部で五棟。もちろんこれですべての軍警をカバーしているわけではなく、相部屋の寮や家族用の官舎などもあるらしいが、それらはまったく別の場所に建っているのだという。
「壁裏スキッパー、正式名称コラドロ、北国では“臆病者の獲物”と呼ばれる小型の魔物ですが、彼らは魔物の中でも少々特殊な位置づけをされている存在でして、“実体を持たない”という特徴があります。“精霊”や“妖精”といったほうがイメージしやすいかもしれませんね。だからこそ、洞窟や建物の壁の裏に生息できるのですけれど」
サルバトールは原稿でも読むようにつらつらと語りながら、廊下の壁をぺたぺたと触っている。いわく、だいたいの位置はこれで分かるらしい。
「妖精系統の魔物は、生きるために特殊なルールに従っています。他の一般的な動物系統の魔物であれば、他の魔物や動物、人間などを食べることで生きていますが、妖精系統は違うのです。壁裏スキッパーであれば、誰かが大切にしまい込んでいる物を盗み出す、というのがルールになっているようですね。それで具体的にどのようなエネルギーを得ているのか、という点につきましては、現在調査中ですので、はっきりとしたことは言えないのですが、おそらく、人間の想いに含まれる微弱な魔力を吸っているのではないか、と推測されています――ああ、この辺りですね」
「出番かしら?」
「はい、お願いします」
サルバトールに促されて、カトラは肩に掛けていたバッグからビンと深皿を取り出した。
「それは?」
「ダミアナの葉っぱをお酒に漬けたものよ」
床に置いた深皿にビンの中身を注いでいく。甘い香りがふわりと立ち上った。それを嗅いで、ベルは首をひねった。
「何だっけ……君がよく、寝る前に淹れてくれるやつ」
「カモミールのことかしら」
「それだ。それに似てるな」
「そうね」
香りだけはね、とカトラは心の中で言った。効果のほうは、半分同じで、半分違うのだ。不安を和らげ、リラックスさせるところは同じだが、ダミアナのことを調べればどの本にも真っ先に“媚薬”としての効果が載っているだろう。
「お皿に半分ほどで大丈夫です。あとは少し待ちましょう」
「ええ、分かったわ」
ビンの蓋を閉めてバッグに入れ、振り返る。
と、ベルとサルバトールが横並びに立っていた。たったそれだけのことが、突然カトラの目に引っかかった。背丈のバランスがいいのだ。少なくとも、自分よりはずっと。
(あたしにももう少し身長があれば良かったのに)
心の狭さが顔に出ないよう気をつけながら、カトラはサルバトールの隣に並んだ。




