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鋼と小麦  作者: 井ノ下功
step 5 あなた/君でなければ
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scene 5 煙草と酒

 土曜日は朝からからりと晴れて、九月に逆戻りしたような陽気だった。それでも、日が落ちてしまえば相応に冷え込む。十月はそろそろ終わろうとしていた。

 一日の警邏はただ長いだけで、何の収穫ももたらさなかった。幸い、新しい空き巣の報告も入っていないが、進展がないことに変わりはない。夜警とバトンタッチするまでの数十分を、四辻の角に立って通りを見張りながら、ベルは煙草をくわえた。ジッロが目を広げてベルを見上げる。


「珍しいじゃん、煙草なんて」

「お前ほど頻繁に吸わないだけだ」

「一本くれよ」

「自分のがあるだろ」

「それがねぇんだなぁ。ケースごとどっかになくしちまって。あれすっげぇ気に入ってたんだけど」


 ま、おおかたリィナかジュリアのところだろうけどな、と女の名前を呟いてから、


「それに、たまには別の銘柄も吸ってみたくなるのさ。北のだろ? それ」


 差し出した手を引っ込めようとしないジッロに折れて、ベルは紙巻き煙草を一本載せてやった。

 ベルから火まで貰ったジッロが、ぎゅっと眉根を寄せた。


「クセが強ぇ」

「こっちのが軽すぎるんだよ」

「お前って煙草嫌いじゃないんだよな。なんで普段吸わねぇの?」

「あんまり欲しいと思わないから。それに、」

「それに?」

「――北のやつをこっちで買うと高くつく」


 本当のことを言わなかったベルに気が付かず、ジッロは「ああ、それはそうだ」と笑った。

 ベルはほんの少しの罪悪感を混ぜ込みながら煙を吐いた。別に嘘をついたわけではないが。普段吸わない一番の理由は、値段ではなく見た目だ。煙草をふかしていると、いつもよりまして怖く見られるような気がしている。それで、誰もいない深夜の川べりとか、部屋の中でしか吸わないでいるのだ。そのことを言わなかったのは、じゃあ今日はどうしたんだ、と掘り下げられるのが嫌だったからである。


「慣れると旨いな、これ」

「だろ」

「うわー、やめろよマジで。高いってのに、はまったらどうしてくれんだよ」

「寄越せっつったのはそっちだろ」


 くだらないことをぐだぐだと言い合いながらも、通りからは目を離さない。南西地区の目抜き通りだが、帰宅時間を過ぎた今、人通りはまばらだ。疲れた足取りの会社員らしき男が溜め息をつきながら通り過ぎた。掃除婦とおぼしき制服の女は、何か失敗でもしたのか、妙に不機嫌な顔つきと足取りである。どう見てもグレーゾーン、あるいは黒と見える男どもが、こちらをあからさまに避けながら路地裏へ入っていった。

 一秒ごとに闇が深まっていく。この先の時間を歩くのは夜を好む人間だけ。酒か、女か、犯罪か、そういうものが跋扈することを許す夜闇の中において、


「あ」


 太陽のような小麦色は異様に目立つのだった。

 いや、ベルの目にだけ、かもしれない。その男女はジッロの後ろ側の通りから四つ辻に入ってきて、ベルの斜め前を通り、西のほうへと消えていった。すれ違いざま彼女は――カトラは――男の向こう側からベルのことを見た――確実に見ていた。見て、瞳を大きく揺らして、そしてそっぽを向いた。

 二度目の目撃だったからか、衝撃は思いのほか小さかった。小さい分だけ圧力が増したらしく、それは真っ直ぐに心を貫き通した。針で突かれたようなごく小さな穴から、空気がすぅと漏れ出ていく。しぼんでいく。しおれていく。死んでいく。


「あー、なるほどね。それで、これか」


 珍しい喫煙の理由を察したらしい。ジッロがベルの肩を叩いた。


「まぁ、女なんて腐るほどいるし、そのうちの九割方の性根は本当に腐ってるもんだから。あんまり気にすんなよ、次があるって」


 こういうときのジッロの軽さは救いだ。深刻に受け止められてしまったら、深刻に考えなければならない。どうせ癒やせない傷ならば、無理に触れてえぐるような真似をするのではなく、自然に忘れるのを待ったほうがずっと楽だ。


「部屋に酒、充分あるか?」

「……あるにはあるけど充分とは言えない」

「オーケー、たまには自腹切ってやろう」


 ジッロは軽薄に笑って煙草を放り捨てた。足の裏で乱雑にもみ消す。


   ☆


 翌朝、ベルはノックの音に起こされた。

 不規則なノックの合間に声がする。ベルさん、いないんですか、ベルさん――

 ベルはあくびをしながらのそのそと起き上がった。昨夜はいくらなんでも飲み過ぎた。頭の中がぐわんぐわんと鳴っていて、気持ちが悪い。しっかり潰れて床で寝こけているジッロを踏まないよう、慎重にまたぎ越えて、扉を開ける。


「誰だ?」

「うわっ……なんですか、この酒臭さ」


 カミーユは遠慮容赦一切なく顔を歪め、鼻をつまんだ。


「どれだけ飲んだらこうなるんです?」

「ありったけ」


 彼は鼻をつまんだまま器用に溜め息をついた。間違ってもこんな大人にはなりたくない、と顔全体に書いてあるのがベルにすら読み取れたぐらいだ。


「それで、何の用だ?」

「カトラさんに頼まれて、伝言を」

「……カトラから、伝言?」

「はい。ええと……」


 と、カミーユはポケットから紙切れを取り出した。折り畳んであったのを片手でぎこちなく開いて、妙な鼻声のまま読み上げる。


「月曜日の午前九時から十時頃、南西地区十五ブロックの七番辺りにある一軒家を見張ってほしい。裏手側の窓を中心に、軍警だと分からない格好で」


 どうして、と聞く前に、カミーユが答えを告げた。


「そこに空き巣が来るから、だそうですよ。何がどうしてこんな結論にたどり着いたのか、僕には皆目見当がつきませんけどね」


 二日酔いでぐらぐらしていた頭が、よりいっそうぐらりと揺れた。


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