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鋼と小麦  作者: 井ノ下功
step 4 愛するということ
60/80

extra scene 不眠気味の鋼と冬の雨

 ベルトランド・リドルは柵に両腕を預け、川面に大きな溜め息を落とした。

 九月頭の夜。立ち並ぶアパートメントの窓の半分ほどはまだ明るく、どこかから楽しげな笑い声が聞こえてくる。ガス灯の光が水面で揺れていた。

 のろのろと夜空を仰げば、とぼけた輪郭の満月が浮かんでいる。雲一つないのに、周囲が明るすぎるせいで色褪せて見えるのが、どうにも気にくわなかった。こんなんじゃだめだ。こんな、はっきりしない光じゃあ。もっとはっきりと呼んでくれなければ――


(……やっぱ、気のせいだよな)


 ベルはもう一度溜め息をついた。カトラに呼ばれたような気がして、いても立ってもいられずに出てきたはいいが、訪ねるほどの勇気はなかったのだ。昼間ならともかく、「呼ばれたような気がした」なんて言葉で押しかけるには少々暗くなりすぎていた。結局、最初に彼女と出会ったこの場所で、時間を無為にするほかなく。

 ここは人通りの少ない辺りだが、それでも誰もいないわけではない。時折背後を過ぎていく人の足音を、聞くともなしに聞きながら、ベルはぼんやりと水の流れを見ていた。水を眺めるのは好きだ。月を眺めるのも。自然は良い。自分が透明になっていくような気がするから。――それを言えば、カトラだってそうだ。小麦の髪。スミレの瞳。野に咲く草花の香り。――会いに行ってしまいたい。呼ばれてなくたっていい。用などなくたっていい。ただ彼女のそばで安眠をむさぼりたいという己の欲望を満たすためだけに――

 彼が不意に瞬きをして、できる限りゆっくりと振り返ったのは、自分に真っ直ぐ向かってくる足音を聞きつけたからである。普通の人は誰もが、わずかに進路を変えて、ベルを遠巻きにしながら通っていくのに。わざわざ近付いてくる足音なんて、悪者でなければ知り合いだ。

 そういうわけで振り返った彼が、さらに瞬きを繰り返したのは、そこにいたのが思いがけない人物だったからであった。


「え……」

「名は言うな。面倒なことになりかねん」


 目深にかぶったフードの下から、透き通った青い瞳が、鋭い眼差しでベルを見上げていた。

 リカルド・エヴァンジェリスティ――十七か十八か、年の頃はそれぐらいである。その年にして、高慢と受け取れる口調が舌の根に染みついているようだった。背丈はやや低めで、ベルと並ぶと少年のようにしか見えない彼は、中央からやってきた魔法使いだ。ここ二週間ほど、護衛対象として行動を共にしている相手である。


「散歩ですか」

「それ以外の何に見える」


 無愛想に言い捨てると、リカルドは腕を組み、柵にもたれかかった。


「お前のほうは、散歩というにはいやに浮かない顔をしているな」

「……俺はそんなに分かりやすいですか」

「ああ」


 ベルの、やや不満げな問いに、リカルドはあっさりと頷いてみせた。そしてどこというわけでもない場所を見つめながら、


「表層さえ見なければ、という話だが。いや、しかしお前はその表層があってこそかもしれないな」

「どういうことです?」

「柔らかい人間は騙されやすい。それで装甲まで柔らかかったら、格好の標的になるだろう。いいものを生まれ持ったな。卵が先か、鶏が先かは分からないが」


 これはもしかして褒められているのだろうか。考えて黙り込んだベルを、リカルドが見上げた。ガス灯の光を反射した青色は、川面とはまた違う揺らめきを持っている。雨を固めたらこんな感じになりそうだな、それも冬場の冷たい雨だ――などとぼんやり思っていたせいだ。


「女の悩みか」

「えっ」


 突然言い当てられて、自分でも恥ずかしくなるほど狼狽した。


「こんな簡単な鎌にかけられるなよ」


 リカルドは目をきゅうと細めた。ひどく嫌そうに眉根を寄せる。


「喧嘩か? 浮気か? 何にせよ、他人に不幸を押しつけるくらいなら別れてしまえ」

「いえっ! いえ、違います。喧嘩なんてしてませんし……浮気なんてもってのほかです」

「ふぅん? なら何だって言うんだ」

「……この時間に会いに行くのは無作法かなと」


 正直に言うと、リカルドは細めていた目を見開いて、それからそれを力なく閉じて、額を押さえて天を仰ぎ、溜め息と共にうつむいて、そこまでしてからようやく元のようにベルを見上げた。


「その程度のこと、本人に聞いてみればいいだろう。慎重は美徳だが、臆病は悪徳だぞ。……素直に聞かれたほうが、向こうにしたって嬉しかろうよ」


 やはり素っ気なく言い捨てると、リカルドは軽く勢いをつけて柵から背を離した。そのままさっさと歩き去ってしまう。軽い足音がこつこつと石畳を叩き、翻ったローブの裾が角の向こうに消える。


(何だったんだろう)


 気まぐれだろうが、それにしても不思議な絡まれ方をしたものだ。ベルは首を傾げながら、再び水面に目を落とす。


(……でも、そうか。聞いてみればいいのか。確かにそうだな)


 深く納得して、改めて感心した。ちょっと聞いただけでこうも簡単に解決策を出せるなんて、と。あの年で中央の研究員として認められているのだから、彼が賢いのは当然なのかもしれないが、それにしたってすごい。

 まるでカトラのようだ、と思って、ベルもまた柵から手を離した。大きなあくびをひとつ。

   fin.

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