extra scene 幸せの吸い方
「ご家族に、手紙を書いてあげて」
「手紙を?」
「そう」
カトラと名乗った女性はこくりと頷いた。どことなく寂しげで、悲しげな顔をしていた。なぜ彼女がそんな顔をするのだろう。分からなかったけれど、尋ねようという気にはなれなかった。
「生きてるってことだけ、伝えてあげてほしいの。後になってからでいいのよ。別の町に着いてからで。……生きていると知っていて過ごすのと、死んだと思って過ごすのとは、まったく違うんだから」
「……」
「家族のこと、恨みたくはない、って言っていたでしょう。だったらなおさら、伝えるだけ伝えてあげて。それに、そうすれば捜査も終わるわ。軍警さんたちに無駄な仕事をさせなくて済むでしょう」
「……そうですね」
そうします、と告げると、彼女はほっとしたように微笑んだ。そして、私に背を向けて軽やかに歩いていってしまう。自由で確かな足取り。何にも縛られていない、幸せで脳天気な歩み。
ああ、私も彼女みたいに歩きたい。
そのために家を飛び出した。事故を偽装するなんていう真似をして。魔法で髪の毛も真っ黒に染めてしまって。この先で、私のことなど誰も知らない世界で、ああいうふうになれるだろうか。――なれない気がする。私は物心ついた頃からどんくさかったし、器量も良くない。もっとはきはきしなさいとみんなに言われ続けてきた。いいところは全部、妹にくれてしまったのだ。みんなそう言ったし、自分でもそう思う。私はただのしぼりかす。
彼女がいなくなってしまうと、
「レティ」
木の陰からアルバおばさまが顔を出した。彼女がサーカスの座長だ。私の恩人でもある。この人が親身になって私の話を聞いてくれなかったら、私は今頃大人しく結婚して、そして一生、妹に恨まれたまま過ごしていただろう。――ううん、それどころじゃない。私よりもずっと賢くて、ずっと勇気がある妹は、私を殺してでも彼を奪うと息巻いていた。妹はやると言ったらやる。遠くない未来、私は誰にも気づかれないまま、死体になっていたに違いない。
そうなる前に、私は私の手で私を殺した。結果は同じだから、きっと妹は満足したことだろう。――なんて醜いのだろう、私は。妹の幸せを願うとか言っておきながら、結局は自分の命が可愛いだけ。
アルバおばさまは、ステージ上では野放図にしている真っ白い髪を、今は後ろで二つに分けて束ねていた。服装も至って普通、地味なワンピースだ。下に作業用のズボンを履いて、重たげな眼鏡をかけているところからすると、花火の仕込みをやっていたらしい。
「大丈夫そうだったね」
「何がです?」
「今の娘さ。あんたを売るような感じじゃなくって安心したよ」
「何から何まで、本当にありがとうございます」
「当然さ。あんたはもうあたしのサーカスの仲間だからね」
かっかっ、と豪快に口を開けて笑う姿が、夏の太陽のように清々しくて。私は眩しさに耐えられなくてうつむく。
「さぁ、今日は出発の日だ。しっかりと準備をしておきよ。あと一時間もしたら出るからね」
「はい」
ついにこの場所を離れるのか。何度も、何度も、空想の中ではこの町を捨てていた。あるときは王子様に手を引かれて、あるときは神様に導かれて、あるときは一人ぼっちで。現実は空想のどれとも違うけれど、どれよりも私らしい形になった。地に足のついた――
「ほーら、レティ!」
「きゃっ」
突然背中を叩かれて、私は飛び上がった。
「しゃっきりおし! 胸を張って、前を見るんだよ!」
アルバおばさまはそうやって私を叱りつけてから、ふと私を抱きしめた。おばさまの手が私の背中を優しくなでる。
「あんたはこれから、幸せをたっぷり吸い込むんだからね。ちゃんと息をしないと、吸い損ねちまうよ。何より、ほら、冒険の始まりだ。わくわくするだろう?」
――地に足のついた、現実的な存在の中で、最も非日常的なサーカス団。
そうだった、ここはサーカス団。毎日を冒険する人々の群れ。
私はできるだけはっきりと頷いた。
「はい……とっても、わくわくします!」
サーカス団に入ったからといって、髪を真っ黒に染めたからといって、戸籍上死んだからといって、私が私でなくなるわけではない。きっと私はずっとこのまま、しぼりかすのままだろう。
けれど、少なくとも、自由に幸せを吸い込むことはできる。それが一番の幸せだと、私はすでに知っているのだ。
fin.




