表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鋼と小麦  作者: 井ノ下功
step 4 愛するということ
57/80

extra scene 幸せの吸い方

「ご家族に、手紙を書いてあげて」

「手紙を?」

「そう」


 カトラと名乗った女性はこくりと頷いた。どことなく寂しげで、悲しげな顔をしていた。なぜ彼女がそんな顔をするのだろう。分からなかったけれど、尋ねようという気にはなれなかった。


「生きてるってことだけ、伝えてあげてほしいの。後になってからでいいのよ。別の町に着いてからで。……生きていると知っていて過ごすのと、死んだと思って過ごすのとは、まったく違うんだから」

「……」

「家族のこと、恨みたくはない、って言っていたでしょう。だったらなおさら、伝えるだけ伝えてあげて。それに、そうすれば捜査も終わるわ。軍警さんたちに無駄な仕事をさせなくて済むでしょう」

「……そうですね」


 そうします、と告げると、彼女はほっとしたように微笑んだ。そして、私に背を向けて軽やかに歩いていってしまう。自由で確かな足取り。何にも縛られていない、幸せで脳天気な歩み。

 ああ、私も彼女みたいに歩きたい。

 そのために家を飛び出した。事故を偽装するなんていう真似をして。魔法で髪の毛も真っ黒に染めてしまって。この先で、私のことなど誰も知らない世界で、ああいうふうになれるだろうか。――なれない気がする。私は物心ついた頃からどんくさかったし、器量も良くない。もっとはきはきしなさいとみんなに言われ続けてきた。いいところは全部、妹にくれてしまったのだ。みんなそう言ったし、自分でもそう思う。私はただのしぼりかす。

 彼女がいなくなってしまうと、


「レティ」


 木の陰からアルバおばさまが顔を出した。彼女がサーカスの座長だ。私の恩人でもある。この人が親身になって私の話を聞いてくれなかったら、私は今頃大人しく結婚して、そして一生、妹に恨まれたまま過ごしていただろう。――ううん、それどころじゃない。私よりもずっと賢くて、ずっと勇気がある妹は、私を殺してでも彼を奪うと息巻いていた。妹はやると言ったらやる。遠くない未来、私は誰にも気づかれないまま、死体になっていたに違いない。

 そうなる前に、私は私の手で私を殺した。結果は同じだから、きっと妹は満足したことだろう。――なんて醜いのだろう、私は。妹の幸せを願うとか言っておきながら、結局は自分の命が可愛いだけ。

 アルバおばさまは、ステージ上では野放図にしている真っ白い髪を、今は後ろで二つに分けて束ねていた。服装も至って普通、地味なワンピースだ。下に作業用のズボンを履いて、重たげな眼鏡をかけているところからすると、花火の仕込みをやっていたらしい。


「大丈夫そうだったね」

「何がです?」

「今の娘さ。あんたを売るような感じじゃなくって安心したよ」

「何から何まで、本当にありがとうございます」

「当然さ。あんたはもうあたしのサーカスの仲間だからね」


 かっかっ、と豪快に口を開けて笑う姿が、夏の太陽のように清々しくて。私は眩しさに耐えられなくてうつむく。


「さぁ、今日は出発の日だ。しっかりと準備をしておきよ。あと一時間もしたら出るからね」

「はい」


 ついにこの場所を離れるのか。何度も、何度も、空想の中ではこの町を捨てていた。あるときは王子様に手を引かれて、あるときは神様に導かれて、あるときは一人ぼっちで。現実は空想のどれとも違うけれど、どれよりも私らしい形になった。地に足のついた――


「ほーら、レティ!」

「きゃっ」


 突然背中を叩かれて、私は飛び上がった。


「しゃっきりおし! 胸を張って、前を見るんだよ!」


 アルバおばさまはそうやって私を叱りつけてから、ふと私を抱きしめた。おばさまの手が私の背中を優しくなでる。


「あんたはこれから、幸せをたっぷり吸い込むんだからね。ちゃんと息をしないと、吸い損ねちまうよ。何より、ほら、冒険の始まりだ。わくわくするだろう?」


 ――地に足のついた、現実的な存在の中で、最も非日常的なサーカス団。

 そうだった、ここはサーカス団。毎日を冒険する人々の群れ。

 私はできるだけはっきりと頷いた。


「はい……とっても、わくわくします!」


 サーカス団に入ったからといって、髪を真っ黒に染めたからといって、戸籍上死んだからといって、私が私でなくなるわけではない。きっと私はずっとこのまま、しぼりかすのままだろう。

 けれど、少なくとも、自由に幸せを吸い込むことはできる。それが一番の幸せだと、私はすでに知っているのだ。


   fin.

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ