scene 10 軽い足音
満月が煌々と照る金曜日、カトラは窓際でそれを睨みつけていた。やっぱり月は綺麗だ。こっちはこんなに悩んで、困って、苦しんでいるというのに。どうしてあんなに無関心な顔をしていられるのだろう。ついに明日は土曜日だ。休みになったらベルは来るだろう。来るに決まっている。来てくれなければいいのに――いや、それはそれで悲しいものがある――でも、来てしまったら――。
何度目か分からない溜め息をついた、そんなときだった。
玄関がノックされたので、カトラは立ち上がった。
「どちら様?」
「僕だよ、姉さん」
扉越しに返ってきた声に、思わず言葉を失う。この声……いいえ、間違いないわ! 理解するのに数拍費やして、それからようやくカトラは扉を開けた。
「リカルド?!」
「久しぶり。元気にしてた?」
「ええ、久しぶり。本当に久しぶりね」
中に招き入れながら、カトラはまじまじと彼を見つめた。目深にかぶっていたフードを取って、ローブ状の上着を脱ぐと、襟元に魔法学研究所のバッチが光っていた。一年と半年ぶりに見る弟の姿は、記憶よりも少し――少し――小首を傾げる。
「背、縮んだ?」
「伸びてるよ!」
「そうよね、縮むわけないわよね」
ベルを見慣れたせいで、普通のサイズを小さく感じたらしい。誤魔化すように笑って椅子を勧める。
「研究所に入ったのね。大学は?」
「飛び級で出た」
「さすがだわ」
相変わらず誇らしい――憎らしい――弟だ。どろっとした感情を封じ込めるように茶葉の瓶を閉めながら、ふと思い至った。お茶を準備する手を止めて振り向く。
「ねぇ、もしかして、魔石の鉱脈の調査に来てるのって」
「どこで知ったの、それ?」
「リカルドのことだったのね!」
道理で、とカトラは膝を打った。ベルの言い回しが年下にするものだと思っていたのだ。リカルドだったなら納得だ。
「護衛の人に迷惑かけてない? 大丈夫?」
リカルドはテーブルに頬杖をついて、ふくれっ面を作った。
「本当だったんだ、あのでかいのと付き合ってるって。それで僕のこと縮んだとか思ったのか。ちぇっ、確かに僕は小さいけどさぁ、あれと比べたら大概の人間が小さいだろ」
「あれとか言わないの」
「迷惑はかけてないよ。北国の出ってすごいね。この間、壁裏スキッパーを素手で追い払っててびっくりした」
「まぁ。怪我してなかった?」
「半日で治りそうなかすり傷を怪我とは言わないでしょう」
「小さい傷を見くびっちゃいけないのよ、もう」
お茶をテーブルに並べて、向かいに座る。
リカルドは頬杖をついたまま、お茶には目もくれないで、天井の隅を睨むようにしていた。どうやら彼には何か言いにくい、しかし言わなければならないことがあるらしい。買ってもらったばかりの服を破いてしまったとか、借りた本を破いてしまったとか、弟は切り出しにくいことがあるとき、いつもこうやって斜め上を見て、こちらに尋ねてもらうのを待っているのだ。
「それで、何を話しに来たの?」
促すと、彼はようやくこちらを向いた。頬杖もやめて姿勢を正すから、こちらも自然と背筋を伸ばしてしまう。
「……あのね、姉さん。落ち着いて、最後まで聞いてほしいんだけど」
「うん」
「父上は、カトラ・エヴァンジェリスティの葬儀を挙げた」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。え、と漏れた音が、自分の声だったかどうかも分からない。
「もともと病弱だったところに、母親の死のショックで体調を崩してそのまま、っていう筋書きで。姉さんが家出した一ヶ月後に」
「待って、それじゃ……あたし……」
周りに何もない真っ暗闇に放り込まれたような気分だった。ティーカップを掴んでいるはずの手も、椅子にかけているはずの腰も、何も感じない。天井も床もすべてが崩れていた。夜は家ごとカトラを飲み込んでしまった。
――ついに、書類上も家族ではなくなった。父様はそこまでするほど――あたしのことを――
「で、こっちに来て、この町の戸籍を調べてみたら、姉さんの名前があった。母上の旧姓で、カトラ・マーリで登録されていた」
「……え?」
「これからはその名前を名乗るように。ちゃんと登録されていたから大丈夫だよ。安心して使っていい。……父上が書類をいじったんだと思う。父上の友人の、戸籍管理に関われる人が何度かうちに出入りしていたのを見たから、たぶん間違いない。あの人にお願いしたんだと思うよ。姉さんはただ、エヴァンジェリスティを名乗れなくなっただけだ。名乗らなくっていいだろう、あんな名前。僕の姉さんであることに変わりはないし」
書類の上で、父はカトラを殺し、そして蘇らせた。どうしてそんなことを? 理解がまったく追いつかなくて、頭も心も凍り付いてしまう。出ていけと繰り返していた父の声、それと同じ冷たい声が、戸籍の偽造を、父にとっては何の利益もない偽造を頼むなんて、とてもじゃないが信じられなかった。どうして、そんなことを?
リカルドは淡々と話を続けていく。
「実はね、姉さんが魔法を使えないのは、魔力を通す回路が中途半端だからじゃないんだ。むしろその逆で、普通の倍以上の太さと強さがある。けど、持っている魔力の量は普通の魔法使いと一緒だから、回路が満ちなくて、魔法にならないんだ。だから、空気中の魔力が濃くなる――今日みたいな、満月の日は、まともに魔法が使えるようになる。本当に回路に欠損があったなら、満月だろうがなんだろうが魔法は使えないよ」
ふらふらと闇に浮かんだまま、すがるものもなく、ただ音だけを耳が拾う。わずかに聞きたくないような気がした。けれど遮るほどの気力はなかった。
「……父上は何も話さないことを選んでいる。それが父上の方針だから。でも僕は違う。姉さんには全部話したほうがいいと思っている。だから話すよ。……その姉さんの体質を研究所の――一部の、ちょっと過激な連中が知ったんだ。それがちょうど二年前くらい。どこから漏れたのか分からないけど」
リカルドの目に嫌悪がにじむ。
「それで、姉さんを研究に使いたがってたんだ。葬儀の後も、姉さんの死体を調べさせてくれって、僕にまでこっそり頼んできたくらいだ」
月の光が差し込んでいる。悲しみといつも一緒の月光。
「正直に言おう。姉さんを役立てることはいくらでもできたんだ。魔法が使えない程度で、姉さんの価値は下がらないし、エヴァンジェリスティの名は揺らがない。結婚相手なんて腐るほどいたし、さっき言ったみたいに、研究材料として売ることもできた。でも、姉さんをそんなふうに役立てるなんて絶対に嫌だ。まっぴらごめんだ。だから、僕は父上の方針に賛同した。別に、何か指示されたわけじゃないけどね」
彼は苦笑をにじませた。険しかった声が緩む。
「あのね、姉さん。父上のことは、ごめん、分からないけれど、僕は姉さんのことが本当に大事だよ。もしも父上が姉さんを利用するって言い出したら、真正面から逆らえるくらいに」
真っ直ぐにこちらを覗き込んでくる彼の目は、小さい頃からよく知っている目だ。大好きな――大嫌いな――自分にないものをすべて持っている――可愛い弟の目だ。
その目がいつの間にか、大人の色を纏っていることに気が付いた。そしてそれは、父と同じ色をしているのだった。
「近くで暮らせないのは悲しいけどさ。でも、姉さんが幸せに暮らせることが一番なんだ。姉さんにはさ、権力争いとか、派閥争いとか、そういうの向いてないよ。そういうのとは無縁のところで幸せになってほしいんだ。そのための準備がこれで済んだってわけ。だから……あとは、頼むよ」
そう言うと、彼は立ち上がって、上着を羽織り直した。もう行ってしまうらしい。フードを目深にかぶっていたのは、なるほどそういう理由で人目を気にしていたのだ。死んだはずの姉と会っていると知られたら、厄介なことになるのは間違いない。
「あのでかぶつに泣かされたら呼んで。いつでも来るから。……ね、僕、時々ここに来てもいい?」
「ええ、もちろん。いつでも来て」
「ありがとう。それじゃあ、そろそろ帰るよ。同僚に気付かれたらまずいから」
「気をつけて帰ってね」
「うん」
「お仕事がんばってね」
「うん」
「体に気をつけるのよ」
「うん」
「ちゃんと寝て、よく食べるのよ」
「うん、ありがとう。……じゃあ、おやすみ、姉さん」
「おやすみなさい」
名残惜しそうにしながら、リカルドはそっと扉を閉めた。
軽い足音が少しずつ遠ざかっていく。カトラは扉の前でそれをずっと聞いていた。




