scene 9 それぞれの愛し方
次の朝早くにその場所へ向かう。朝の支度で賑わう人々の隙間を縫って歩く。外れていることを願うように、その一人一人の顔を確認していく。
と、一人の女性に目がとまった。朝食の給仕を手伝っている。薄汚れたバンダナを頭にかぶって、つぎはぎだらけのワンピースを着ているが、確かに見たことのある顔だ。
「――あの」
「おはようございます。あら、同じくらいの女性がいるって知らなかったわ」
「レティ、でしょう?」
彼女ははっとしたように目を見開いて、手を止めた。その顔がみるみるうちに青ざめていくのを見て、カトラは慌てて――小声で――言いつのった。
「勘違いしないで。あたし、連れ戻しに来たわけじゃないわ。大丈夫よ、誰にもばれてない。ただ、あたし、話を聞きたいだけなの。お願い、話を聞かせて」
レティはしばらくためらっていた。が、やがてそっと息を吐くと、カトラを手招きした。
サーカスの興行自体はもう終わっている。次の移動に向けて、テントは半分ほど解体されていた。今は解体作業が始まる前だから、テントの周辺は静まり返っている。
レティは木箱に腰掛けて、カトラを見た。儚げな薄い琥珀色の瞳。華奢で薄っぺらい体つき。とてもじゃないが、こんな思い切ったことをするような人には見えなかった。
「私、捜されてますか?」
「ええ、もちろん。軍警さんが毎日川に潜ってるわ」
「そう……軍警の方々には申し訳ないと思います。けれど……」
「どうしてこんなことをしたの?」
単刀直入な問いかけに、レティは少し目を伏せて、ぼそぼそと言った。
「父が決めた結婚が嫌だったんです。それから逃げたかった。それだけです」
「サーカスを見て、思いついたのね」
「はい」
注目を逸らし、地下を通って別の場所に出る。あの瞬間移動の手品を応用すれば、行方不明者を一人出すことなど簡単だったろう。舟はもともと小さくて、乗っている人が思いきり飛び跳ねれば簡単に引っくり返せるものだ。サーカス団が用意した花火に合わせて、レティは自分で舟を引っくり返した。そして、鍵開け師が開け、大男が格子を曲げた地下水路を通って、町を後にした――。
「ここの人たちはみな親切に、私の願いを聞いてくれました。この先も、一緒に行くことを許してくれました。父には申し訳ないですが、きっと大丈夫でしょう。妹もいますし、すぐに私のことなど諦めて、立ち直るはずです」
「……妹さんが原因じゃないの?」
レティはびくりと肩を震わせた。
「あたし、あなたたちがサーカスにいるのを見かけたわ。あたしはてっきり、妹さんの恋人だと思ったの、あの秘書の男性。あなたの婚約相手には見えなかったわ」
「やめてください」
か細い声がきっぱりとカトラを遮った。薄黄色の瞳がこわばり、それ以上の言及を拒んでいる。
「私、家族を恨みたくありません。ミレーナが……妹が幸せになれるなら、そのほうがいいんです」
「レティ……」
「それに私、サーカスと一緒にあちこちに行くの、とっても楽しみで。自由な人生って感じで、素晴らしいでしょう? 私は、私の意志で、こうしたんです……だからどうか、誰にも言わないでください。お願いします」
深々と頭を下げたレティに、カトラは何も言えなかった。ただ、誰にも言わないことを約束して、家に戻るしかなかった。
東の草原から町への道を、のろのろと歩いていく。
何か、など、言えるはずがないのだ。
家族に心配をかけて、軍警さんたちを困らせて――なんて、もっともらしく説教することも。
どうして父親と真正面から話さず、逃げ出したのか――なんて、正論で責め立てることも。
できるはずがなかった。だって、
(彼女はあたしと同じだわ。あたしも逃げ出したんだから)
すっかり秋色に染まったそよ風が草原を吹き抜けて、カトラのおさげをなびかせた。
でも、どうしよう。約束したのだから、軍警に報告することはできない。けれど、言わなければ捜査は続く。担当じゃなくても、ベルは頭を悩ますだろう。その間、自分は彼に嘘をつき続けなければいけないのだろうか。
(困ったわ……)
初めてだった。カトラは初めて、ベルに会いに来てほしくないと願っていた。
「あら、なんだか湿気てるわね」
突然声をかけられて顔を上げると、見たことのある女性とすれ違うところだった。
「あ、ええと……料理屋さんの」
「モルガンよ」
「こんにちは、モルガン。あたしはカトラ」
「ねぇ、なんであんた湿気てるの?」
「……湿気てるって?」
「魔力よ。前に会ったときは何にも感じなかったのに。あんたも魔法使いだったの?」
そういえば、とカトラは思い出した。魔法使いは、魔力を湿気として感じ取れるらしい。カトラにその感覚は分からないものだったが、弟はよくそう言っていた。
「……いいえ、あたしは魔法使いじゃないわ。あたし、不完全なの。魔法、使えたり使えなかったりして……」
「あら、そう。じゃあ満月が近いからかしら。不思議なものね」
「あなたはどこへ?」
話を逸らそうと、カトラは分かりきっていることを聞いた。この先にはサーカスしかないのだから、答えは決まっている。
「サーカスよ」
「また店主さんと喧嘩したの?」
「違うわ。ちょっとした頼まれ事。別に私たち、毎日喧嘩しているわけじゃないわよ。……いや、これは嘘ね。ほとんど毎日喧嘩してるわ」
「喧嘩ばっかりって、嫌にならない?」
「何言ってるの、なるわけないじゃない。……いや、これも嘘だわ、ごめん。嫌にはなる。本当に腹が立つし、最低だと思うし、出ていってやるって思う。でも本当に嫌になったわけじゃないし、ちゃんと戻りたくなるのよ」
尋ねたわけではなかったが、カトラがあんまり不可解だという顔をしていたからだろう。モルガンは少し考えてから付け足した。
「分かってるからでしょうね、お互いに。だってあの人、可愛いのよ。私がすねてしばらく帰らずにいると必ず探しに来るし、私の好物をきっかり一人分だけ用意しておきながら“注文が余ったんです”なんて白々しく言うし、男の客に声をかけられると絶対に首を突っ込んでくるし。この間なんてそれでうっかり火事になりかけたんだから。本当に馬鹿よね」
そう言ってけらけらと笑う。
「私たちは分かってるからいいのよ、どれだけ喧嘩したって。分からないですれ違っちゃうと大変なんだけど……私たちも数年すれ違ってたけど。でももう分かったから平気なの」
じゃあね、と彼女は軽く手を振ると、カトラとすれ違って行ってしまった。




