scene 8 針路はどちらへ
エンリカは座っていても分かるくらい小柄な女性だった。耳の真ん中辺りでばっさりと切りそろえた前下がりがよく似合っていた。艶のある黒髪は、黒いパールのイヤリングとそろいのように見えた。頬にはそばかすが散っていたが、それを隠す気はないらしい。そもそも気にしていないのか、化粧を好まないのかは分からない。シンプルな白いブラウスと黒いロングスカート。自分が着飾ることより、誰かを飾ることのほうが得意だと全身で主張するような出で立ちだ。
「それで、話って?」
「一昨日の祭りのとき、転覆した舟にルチアが乗っていたでしょう。あれ、もともとはあなたが乗る予定だったんですってね」
「そうよ。危ないところだったわ」
「危ないところ、って?」
「私、泳げないの。あの子に言われなかったら溺れてるところだったわ」
「あの子?」
「知らない子。花冠をつけてたから、結婚が近いんでしょうけど。その子に突然、泳げるかって聞かれて、泳げないって答えたら、それなら別の舟に乗ったほうがいいわって言われたのよ。泳げる子と交換してもらいなさい、って。……そういえば、なんであの子、舟が引っくり返るって知ってたのかしら。不思議だけど助かったわ。……ルチアには悪いことしちゃったけど」
ルチア、元気だった? とエンリカはこちらを一瞥した。つれない態度を取っているが、目の動きは不安げだ。
「ショックは受けてたみたいだけど、体の具合は悪くなさそうだったわ」
「そう、それなら良かった」
エンリカの口元が少し緩んだ。
わずかな沈黙の間、カトラはどう切り出そうか迷った。エンリカはルチアのことを本当に心配しているようだった。ルチアが主張していたことをそのまま聞くのはためらわれる。けど、確認しないわけにはいかない。
迷った挙げ句、そっと切り出す。
「あのね」
「何?」
「ルチアは、あなたから恋人を取っちゃったことを気にしてるみたいだったわ」
「取った?」
声が急に尖った。針を置いて振り返った、その目が吊り上がっている。
「何それ。どういうこと?」
「先月まであなたが付き合ってた方と、ルチアが今付き合ってるって知ってるでしょう?」
「あの馬鹿男と? ルチアが?」
エンリカは吐き捨てるような言い方をした。それからはっとしたように頬を押さえる。
「ああ、ねぇ、まさかそれで……それで最近、あの子の様子がおかしかったっていうの? やだわ、馬鹿馬鹿しい!」
「知らなかったの?」
「知るわけないじゃない、こっちから捨てた男のことなんて!」
話が違う、とカトラは危うく叫ぶところだった。一度呼吸をして、冷静に聞き返す。
「エンリカが捨てたのね」
「そうよ。博打打ちだし、女好きだし、そのうえあんまり見栄っ張りだから嫌になっちゃって。どうせアイツのことよ、私に捨てられたなんて言えないで、こっちから捨ててやったくらいのこと言ってるんでしょ。ルチアならそれを信じてもおかしくないわ。馬鹿ね、本当に。……たとえそうだったとしても、男一人のために友達を捨てるもんか」
そうよね、とカトラは頷きたかった。恋人一人のために、別の誰かを犠牲にするなんてあり得ない。そんな豹変の仕方はあり得ない。そう言い切ってしまいたかった。
エンリカは微笑んで、カトラに向き直った。そうやって穏やかに笑っていると、つんと上を向いた鼻も切れ長な目も愛嬌たっぷりに見えた。
「ルチアのこと、ありがと。あの子変に臆病だからさ。私に直接聞けばいいのに、わざわざあんたに頼みなんかして」
「いいのよ。あたしはどうせ暇してるもの」
「なら、暇ついでに私からも頼んでいい?」
「どうぞ。何かしら」
「ルチアに伝えてほしいの。あんたが誰と付き合おうと、私は友達だって」
「直接言わなくていいの?」
「いいの。恥ずかしくて言えないし……たぶん、ルチアには直接言わないほうがいいと思うの。そういう性格の子だから。なんて言ったらいいかしら。ほら……友達としゃべるときに、いろいろ気遣って、本音で話さないっていうか……だから、私もそうするって思ってるんだと思う。知り合いじゃないほうが正直になれる感じ。だから、人づてに聞いたことのほうが正しいって思っちゃうタイプ。そういうの、分かる?」
「分かると思うわ」
カトラは伝言を請け負って、店を後にした。見送ってくれた店長さんとエンリカに手を振り返して、向き直った顔から笑みが消える。
(エンリカは何もしていないわ。殺されかけた、っていうのはルチアの気のせい。こっちはこれで解決ね。これ以上はあたし、何もしなくていい――)
――でも、気になってしまう。なぜ舟は転覆したのか。
なぜ、花冠をかぶった女性は、結婚を目前に控えた彼女は、転覆することを事前に知っていて、周りに警告までしておいてなお、行方不明になったのか。
(……行ってみて、外れていたらそこでおしまいにしよう)
カトラはぐっと唇を引き結んだ。




