scene 7 泡
エンリカを訪ねたのはその翌朝だ。結局、ベルや軍警に相談するのは一度話を聞いてからにしようと決めたのである。
(その前に)
と、カトラは少しだけ回り道をして、川を目指した。事前に現場を見ておきたい。地形や流れによっては、偶然の事故だった可能性もある。
川沿いの歩道に出ると、軍警が複数人集まっていた。端のほうで囲っている舟は例の転覆した舟だろう。川に入っている人も何人かいる。とすると、この場所が正しい事故現場であるらしい。
とりたてて変わったところなどない現場だった。
(カーブしているわけじゃないし、狭くもない。……ただの事故、とは言いにくそうね)
誰かが意図的に転覆させたのでなければ、そう簡単には引っくり返りそうにない。
(雨はここ数日なかったから、流れだっていつもどおり、決して速くないわ)
比較的川幅の広い辺りである。増水していない今、その水面は地下水路よりもずっと下だ。川の側面に開いた非常時用の水路の鉄格子が下まではっきり見えている。格子が少し歪んでいるのは、何かがぶつかりでもしたのだろうか。水路脇にははしごもあって、救助だって難しくはなさそうだ。
話を聞けそうな人がいないかしら。首をめぐらせたカトラに、舟の側で立ち話をしていた軍警の一人が走り寄ってきた。
「よお、リドルの飼い主ちゃん。何してんだ?」
いつだったか、飼い主を募集していた軍警さんだ。髭を剃るか、せめてもうちょっと整えるかすればきっと見つかるだろうに。
「ちょっと通りかかっただけよ。軍警さんがたくさんいて驚いたわ。昨日のお祭りで事故があったって噂で聞いたんだけれど、本当にそうなのね」
「そうそう。それで、一人行方不明者が出ちまってね」
「まぁ」
「そいつが議員様のご令嬢だってんで、総出で捜索中さ」
と、彼が目線で指し示した先を、カトラは目を細くしてじっと見つめた。唾を飛ばす勢いで一人の軍警に食ってかかっている壮年の男性がいる。あれが”議員様“とやらだろう。その側には綺麗な身なりの男女が一組、一生懸命なだめるような仕草をしていた。脳味噌の裏の辺りでパチッと泡がはじけるような感覚があって、すぐに消えた。
「その方のお名前は?」
「レティ・マッフェイ。あそこにいる秘書くんと結婚する予定だったんだってよ。それがこの事故だ。可哀想になぁ」
本当にお気の毒ね、と返して、カトラはその場を離れた。
(……もし、エンリカが白だったら)
脳味噌の裏がパチパチと音を立てる。それに急かされるようにして、カトラは足を速める。
エンリカが勤める服屋パラッゾ・ディ・フィオリは南部地区の真ん中辺りにある。セミオーダーとフルオーダーを請け負う女性服専門店、ジョルジャの行きつけのお店だ。
(あたしの好みとは少しずれるのよね)
一見するとオーソドックスで清楚な感じなのだが、よくよく見ると、襟ぐりやスリットの深さが大胆なのだ。ジョルジャのような大人っぽい綺麗な女性でなければ、とてもじゃないが着こなせないだろう。
金色の縁取りがされたドアを押し開ける。
「いらっしゃいませ。って、あらぁ、ヴィルヌーヴのお嬢さんじゃないの」
にこやかに迎え入れてくれた背の高い年配の女性は、時々お菓子を買いに来てくれる人だった。どうやら彼女がオーナーであるらしい。そういえばいつもおしゃれな姿だったと今更ながら思い出す。
「あなたってここの人だったのね」
「そうよ。来てくれて嬉しいわぁ。あなたは自分で縫っちゃうって聞いてたから、あんまり売り込まなかったんだけど」
と彼女はにっこりして、
「普段と違う姿を見せるって大事よね。彼をドキドキさせちゃいたい気持ち、分かるわぁ。どんなのがいいかしら。あなたなら何だって似合うと思うけれど、そうね、いきなり大胆なのは駄目よね。いつもよりほんのちょっとだけ肌を見せて――」
「えっ、あっ、違うの、違うのよ! ごめんなさい、あたし、服をお願いしに来たんじゃないの!」
「あら、そうだったの?」
心底残念そうなオーナーさんにもう一度謝って、エンリカのことを尋ねる。するとあっさり裏の作業場に通してくれた。
作業場に入って、思わずカトラは溜め息をついた。ちょっと奥まった場所にあるおかげか、窓からは穏やかな日が入ってくるだけで、表通りの喧噪はほとんど届かない。色とりどりの布や糸が整然と並ぶ棚。型紙を収めてあるらしい引き出し。天井には魔導式のランプが吊り下がっていて、夜の作業も快適そうだ。それに何より、優しいブラウンの、広々とした机が三つ。
そのうちの一つの前で作業をしていた女性が振り返り、部屋に見とれているカトラを見て言った。
「いい環境でしょ」
「ええ、素晴らしいわ」
「新入り?」
「ううん。ルチアに頼まれて、話を聞きに来たの」
「ルチアに?」
「あなたがエンリカね」
「そうだけど、そっちは」
「あたしはカトラ。ヴィルヌーヴっていうお菓子屋の手伝いをしてるの」
「ああ」
やはりヴィルヌーヴのことは知っているらしい。エンリカは興味を失ったように頷いて、手元に目線を戻した。やや粗雑に針を進めていくのは、仮縫いの段階だからだろう。
「適当に座っていいよ。オーナーは夜しか使わないし、ルチアは休みだから」
「ありがとう」
カトラは手近な椅子に腰掛けた。