表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鋼と小麦  作者: 井ノ下功
step 4 愛するということ
50/80

scene 6 眠気

 さて、とカトラは片付けをしながら脳味噌を回す。


(勘違いかもしれない。そのとおりよ。そして勘違いだったならそれが一番平和な終わり方だわ。だから――だけど――決めつけたりはしない。今聞いた話だけだと、どっちの可能性も同じくらいあり得るもの)


 軍警に相談できない、と言ったのだから、ルチアは心の底では信じていない。本当にエンリカが自分を殺そうとしたとは思いたくないのだ。自分の考えが否定されることを願っている。


(でも、確かに不思議よね。交換に応じた舟がちょうど転覆するなんて。ただの偶然、って片付けるのが難しいのは理解できるわ)


 どちらにせよ、探るべきはエンリカの考えだ。親友とはいえ、いや親友だからこそ、話しにくいこともあるだろう。第三者が噛めばスムーズに進む可能性がある。


(明日訪ねてみるとして、今日のところはどうしようかしら。事故の現場を見に行くか、それとも――)


 厨房から戻ってきたときに店の扉が開いた。反射的に「いらっしゃいませ」と言いかけて、直前に気がつく。


「ベル! おはよう」

「おはよう」

「お仕事は――ああ、そっか、代わってあげたんだから、代わってもらえるわよね」

「話が早くて助かる」


 ベルはにこりとした。なんだか弱々しい顔つきだ。


「ねぇ、もしかして、あんまり眠れてない?」

「もしかしてこの辺りに“ほとんど徹夜です”って書いてあるか?」


 と、彼は頬を擦った。


「ほとんど徹夜? どうしてまた」

「昨日の祭りの最中に舟が転覆したんだ。それで、そこに乗ってた女性の一人が行方不明になった」


 思わず息をのむ。行方不明者。エンリカの企みに巻き込まれて、本当に犠牲になった人がいるのか。だとしたらこの一件、軍警に相談しなくてはいけない類いのものかもしれない。

 でも、とカトラは彼を店から押し出した。今とりわけ気になるのはベルの寝不足だ。


「しばらくその捜索を手伝ってて、深夜に引き上げてきて、それから飯食ってシャワー浴びて……ってやってたら夜が明けてた」

「もう、それなら自分の部屋でゆっくり休んでいたら良かったのに」

「上手く眠れなかったんだ。一人だとどうしてもあれこれ考えてしまって」

「ちゃんと休まなきゃ捜査もできないでしょ」

「それは……そうなんだけど」


 階段を上って部屋の鍵を開けて、中へ入る。朝のうちに掃除を済ませておいて良かった、とカトラはこっそり胸をなで下ろした。

 いつもどおり椅子へ座ろうとしていたベルを慌てて制する。


「ちょっと横になったほうがいいわ。ソファを使って。ベッドでもいいけど」

「いやっ……うん、ありがとう」


 ベルは大人しくソファに座った。ふぅ、と沈み込むように大きく息を吐く。ソファの背に身を預けて、まぶたをゆっくりと開け閉めしている。どうやら眠気はあるらしい。きっと事件のせいで神経だけが高ぶっているのだろう。それならあともう一押し。

 やかんを火にかけて、ハーブを用意する。不眠といえば、とりあえずカモミールだ。定番中の定番。そこに何を交ぜようか、オレンジピールかレモンバームか、それともパッションフラワーか――


「なぁ、カトラ」


 ベルはもう半分くらい眠っているような目でこちらを見ていた。


「何?」

「……いや、なんでもない」

「なぁに? 気になるわ。言えないようなこと?」

「いや……」


 やかんが蓋をカタカタと鳴らしていた。問い詰めたいのをちょっと我慢し、ベルに背を向けて台所に向かう。口から白い湯気が噴き出ている。カトラはそれを火から下ろして、ティーポットに注いだ。カモミールのなめらかな香りがふわりと立ち上る。

 蒸らす時間はそう多く取らなくていい。これだけ色が出れば上等だ。淡い黄緑色のお茶で満たしたティーカップと一緒に、ベルの隣に座る。今のベルには香りだけで充分だろう。


「それで、何?」

「――」


 ベルは何かを言ったらしかった。けれどそれはほとんど寝言同然で、聞き取れるものではなかった。

 カトラは立ち上がると、テーブルにティーカップを置いた。肘掛けに覆い被さるようにして眠りに落ちた彼の肩へブランケットを。それから隣に戻り、そうっと手を伸ばして、その髪に触れた。短く刈られた鋼色の髪は、見た目どおり硬くてごわごわしている。竹箒の先っぽや、硬いスポンジなんかを思い出す手触り。起きているときになでる勇気はないから、寝ているとき限定の楽しみだ。

 呼吸に合わせて、大きな背中がゆっくりと膨らみ、縮む。

 雲が流れて日の光を遮る。

 さび付いた自転車が通りを過ぎていった。

 再び日が顔を出す。

 薄手のカーテンがなければ気付けなかったほどささやかな風。


(ベルの近くって不思議だわ。時間の流れがゆっくりになる気がする。温かくて、落ち着く……――やだ、あたしまで眠っちゃうわ! まったく、子供じゃないんだから!)


 カトラは慌てて――けれど音は立てないように――立ち上がった。離れようとして、名残惜しくなってもう一なで。


(おやすみなさい、ベル。ゆっくり休んでね)


 さぁ、この間に昼食の準備だ。カトラは気合いを入れ直すように腕まくりをすると、台所に急いだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ