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鋼と小麦  作者: 井ノ下功
step 3 別の角度から
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scene 7 美学というもの

 一体何が起きたのか、カミーユが理解するにはずいぶんと時間がかかった。誰かに後ろから肩を掴まれ、小屋の中に押し込まれたと思ったら、もううつ伏せに床へ押しつけられていた。誰かが背中を押さえ込んでいるせいで、というよりは、驚愕と困惑とのせいで、身じろぎ一つできない。そっと首をめぐらすと、ささやかだがちゃんとした明かりが灯っていたから、小屋の中ははっきりと見えた。壁側に並んだカゴの中に、ほのかな青い光を放つ石がごろごろと積まれている。頭上では苛立った声が飛び交っている。


「おい、何だよ! どこのガキだこれは!」

「知るかよ! でもまっすぐここの住所聞いてきやがった! 何か知ってるに違いねぇ!」

「はぁっ? どういうことだ!」


 どうもまずいことになったらしい、という実感がようやく湧いてきて、カミーユの全身から冷たい汗が噴き出た。じっとりとした石の床が頬に粘りつく。


「おいガキ! お前誰からここのことを聞いた!」


 カミーユは答えられなかった。喉の奥をきゅうと絞られているような感覚になり、声を上手く出せなかったのだ。

 不意に前髪を掴まれた。太くて汗ばんだ指。そして、髪の毛が根元から引きちぎれるんじゃないかと思うぐらい思い切り持ち上げられる。無精ひげをそのままにした中年の男の顔が目の前にあった。すごまれて息が詰まる。


「おら、とっとと答えろ!」


 唾が飛んできたが、そんなことを気にしている余裕はない。


「さ、財布に……すられた財布が返ってきたんですけどそれにメモが入ってて、それにここの住所があって……それだけです、本当にただそれだけで来たんです、別に僕は何も知らないし、何の用もなくって!」


 ぱっと手を離されて、顎を床にしたたかに打ち付けた。話している最中だったせいで舌を噛んで、目に火花が散った。


「チッ、あの馬鹿野郎のせいか! 余計なことしやがって」

「どうする」

「決まってんだろ。おい、チェルソ、このガキ、通路の奥に捨ててこい。そうすりゃすぐに魔物の餌だ」


 チェルソ、と呼ばれた男のものらしい声が右手側から聞こえた。


「ガキをやるってのはどうだかねぇ。別に軍警に駆け込まれても、信用されやしないだろうに」

「はぁ? 何を今更びびってやがんだ! とっとと行ってこい! てめぇごと殺されてぇか!」

「あー、はいはい、分かったよ……魔物避け、借りてくよ」


 背中で固められていた腕がそのまま縄で縛られて、それからカミーユは担ぎ上げられた。足が宙に浮かんで、その瞬間パニックに襲われた。


「おっと。こらこら、暴れんなって」

「嫌だ、離してください! 僕は何にも知らないんです! 別に誰にも言いませんし余計なことはしないからっ」

「うるっせぇぞくそガキ!」


 上から拳が降ってくるのと怒鳴られるのとが同時だった。テーブルの下で思いっきり立ち上がってしまったときのような衝撃があって、ぐわんぐわんと脳が揺れる。


「乱暴だなぁ。今から殺すってのに、余計な傷を負わすこたないだろう」

「とっとと連れてけ!」


 はいはい、と軽い返事をして、チェルソは器用にはしごを下りていった。

 石造りの通路らしい。明かりはなく真っ暗だが、チェルソには問題ないようで、その足取りはしっかりしている。石を打つけだるげな足音と、その都度鳴る小さな鈴の音、すぐそばを水が流れていく音。

 ああ、もう終わりだ、とカミーユは思って、涙がにじみそうな目を何度も瞬かせた。もう終わりだ。どうしてこんなことになってしまったんだろう。カミーユはここへ来たことを心の底から後悔し、どうか時よ戻ってくれと願わずにはいられなかった。もし時が戻ったなら、こんなところになど絶対に来なかったのに!


「ごめんなぁ、坊主」


 チェルソの声が暗闇の中にぼわんと響いた。その頃にはカミーユの目もある程度慣れてきていて、時折地下道が右や左に分岐しているのが見えていた。その分岐の奥のほうに、赤い光が瞬くのも。あの光は魔物の目だ。魔物は仲間以外の生命なら何だって襲って食べる習性を持っている。魔物避けがなかったら、もうとっくに襲われているに違いない。


(そっか、地下には結界ってないんだった。……いや、それにしても、おかしいくらい多いな)


 そういえば軍警の男が、地下に抜け穴がどうのと言っていた。とすると、この近くに抜け穴にあたる場所があるのだろう。


「イッポのやつが余計なことしなきゃあな。あんただって巻き込まれずに済んだのに」

「……イッポ?」

「マニ・ジェンティッリって言ったほうがいいか。あんたから財布をすったやつだよ」


 チェルソは憂鬱そうに溜め息をついた。


「友人だったのさ。もちろん、悪い仲間だぜ。つっても、イッポはなんていうか、妙な美学があってさぁ。本人は“親切の押し売りだ”って言ってたけど……すった相手には優しくする、それでばれたなら自分の負け、ってよ。流血沙汰は大嫌いで、やろうもんなら平気で軍警に通報するし。そんな感じだったから、俺らの中でもちょっと浮いてて」


 と、彼はそこでちょっと言葉を切った。


「……いや、イッポが、じゃねぇな。余計なことをしたのは俺のほうだ。どんだけ困ってても、あいつがのるわけねぇのにな、この話を持ちかけちまったから……だからってなぁ、殺さなくってもいいだろうに」


 涙をにじませたような声をしている。本当に友人だったのだろう。少なくとも、死を心から悼むくらいには。


「さぁて、このへんだな」


 唐突に下ろされた。ああ、いよいよ終わりか。カミーユのもとに、忘れたふりをしていた恐怖が舞い戻ってきて全身が凍り付く。ここに置き去りにされて、魔物に食われて死ぬのだ。助けなんて来るわけがない。自分ひとりいなくなったところで、誰も悲しまないし、困らないのだから――。

 と、突然、カミーユの両腕が自由になった。


「ここなら、地下水路の定期検査のルートだから、まぁ、運がよけりゃあ助かるだろうよ。適当に歩いていきゃ、上へ出るはしごも見つかるだろうし。ほら、魔物避けだ。ちゃんと鳴らせよ」

「え、あの……」

「俺には俺の美学ってもんがね、あるんだよね」


 そこで初めて、カミーユは彼の顔を見た。前に突き出た歯と細いつり目が、いかにも小狡い悪党という感じだった。細長い体格は非力そうに見えるが、カミーユを軽々運んでみせたのだ、見た目通りではないらしい。――性格のほうも、そう簡単に推し量れそうではない。


「じゃあな」


 片手を軽く上げたチェルソが踵を返す。

 ありがとうございます、と言う暇もなく、銃声が響き渡った。


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