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鋼と小麦  作者: 井ノ下功
step 2 少し遠出を
19/80

scene 5 慈愛

 ティーカップを傾けて、フィナンシェを頬張ってから、ベルは少し躊躇いがちに口を開いた。


「なぁ、彼女は本当に盗んでいないんだよな」

「軍警さんたちはそう考えていらっしゃるの?」

「俺たちは彼女と親しくないんでね」

「エリーザたちの店は軍警さんの御用達だって聞いたけど」

「……擁護する連中が多いことは認める」


 ベルはややばつの悪そうな顔で言った。別にそんな顔しなくても、とカトラは思ったが、言及は控えた。


「でも、現状では盗んだとも盗んでないとも言えないんだ。何せ現物が見つかってないからな。だから、グリフが主張を曲げない限り、捜査を続けるしかないんだ。少なくとも、勾留期限が切れるまでは」

「そうよね……」


 仕方がない、とは思うけれど、可哀想でならない。


「ね、確か、勾留中って差し入れできないのよね?」


 ベルは少しだけ考えるような素振りを見せて、それから答えた。


「クッキーを少しだけ、とかなら、どうにかできる。預かるよ」

「いいの?」

「ああ」

「……わがまま言ってごめんなさい。無理しなくていいのよ」

「いや、大丈夫だから気にするな。友人が大切なのは分かる」


 そう言って彼は微笑んだ。

 それから彼は、エリーザのためのディアマンクッキーをポケットにしまって、自分用のスノーボールを二袋買って、「話を聞いてくれてありがとう。助かった」とまた微笑んで、店を出ていった。

 大きな背中が、小雨と薄闇の向こうに消えてしまうのを待って、カトラは扉を閉める。そしてそのまま扉に背中を預けて、天井を見上げ、ぼうっと考えをめぐらした。


(エリーザは盗んでない。そういう人じゃないし――主観を捨てても同じだわ。もし盗んだなら、あんな素直に言ったわけがない)


 ジッロには知っているかどうかだけ聞かれたのに、前日会っていたことまでさらりと話したのだ。あの態度にやましいものは何もなかった。悪いことをしていたなら絶対に態度に出る。だから、盗みはない。

 だとしたら。


(グリフさんはどうして盗まれたと思いこんでるのかしら。エリーザがそういう素振りを見せた? 誰かに盗まれるかもしれないって恐れていた? それとも――)


 瞼を閉じると、ベルの微笑みが浮かんできた。時間をかけてゆっくりと丸くなった巨岩とか、苔むした大木とか、真っ白い雪に覆われた山嶺とか、そういうものを想起させるおおらかな微笑みを。いつもああやって微笑んでいればいいのに、と思う。そうすればもっとたくさんの人が、彼の優しさに気付くだろうに。

 彼の役に立ちたい。他人のために眠れなくなる彼を助けたい。見つからないまま勾留が開けたらエリーザもグリフも困るだろうと思って、どうにかしたいと頭を抱える彼を。

 目を開ける。


(――仮に、思いこんでいない(・・・・・・・・)としたら?)


 確かめてみよう、すぐにでも。カトラはそう決めて、まずはテーブルの上を片付けにかかった。


(すぐ、っていうのは嘘ね。もう暗いから。明日よ、明日)


 夜があまり安全でないことは分かっている。子どもじゃないんだから言われるまでもないわ、とちょっとだけ頬を膨らませたカトラは、自分の唇の端が持ち上がっていることに気が付かなかった。


   ☆


 ジャンピエトロ貿易商の事務所の場所は知っている。次の日の内にアニエッロ・グリフの顔と行動を確認して、作戦の遂行はその次の朝にした。軍司令本部に毎日来ている、と言っていたから、少なくとも朝の行動は変わらないはず。事務所の近くの自宅から出て、司令本部に行き、戻ってくる。たったそれだけの単純なルート。おあつらえ向きに、事務所は北側、つまり時計塔の裏側にある。狙いは司令本部から事務所に帰る道中だ。


(来たわ)


 年相応の、地味な仕立てのグレーのスーツ。使い込まれた鞄。黒い革靴。どれも年季が入っていたが、大切に手入れされていることが遠目にも分かった。話に聞いたとおりの印象。気難しくてこだわりが強くて、やや神経質な雰囲気。白髪が交じった黒髪はきっちりと撫でつけられているし、暗い青のネクタイは一ミリも曲がっていない。小刻みな早足は呑気に声をかけることを躊躇わせる勢いだ。

 彼が大通りの向こう側を歩いていったのを確認して、カトラは素早く道を渡った。


(大丈夫よ、少なくとも危険はない)


 カトラはせわしなく脈打つ胸を抑えて、裏通りを走った。朝まで降っていた雨のせいで、路面がやや走りにくくなっていたから、計算よりも少しだけ足を速める。彼の歩くルートは確認した通り。彼の歩数と歩幅、自分の走る速度、先回りできるルートを考えた結果、ちょうど上手くはずなのだ。午前中の最も人通りの少ない時間帯だから、不確定要素も少ない。計算の上では、彼にぶつかるかぶつからないか、というぎりぎりのところになるはず。

 カトラは祈りながら、路地裏からえいっと飛び出した。


「うわっ」

「きゃあっ」


 見事計算通りだったにもかかわらず、カトラは驚いて悲鳴を上げた。分かっていても驚くものは驚くのだ。それに、問題はここからだ。

 迷惑そうに顔をしかめたグリフに、カトラは頭を下げた。


「ごめんなさい、おじさま。ぶつかってないわよね?」

「危ないところだったがね。もう少し周りを見なさい」

「ええ、本当にごめんなさい。急いでいて……ねぇ、重ね重ね申し訳ないのだけれど、今が何時か教えていただけないかしら」


 時計塔は使えない。北側に住んでいる人間はそのことをよく分かっている。だから――グリフは溜め息をついて、鞄の中から銀色の、よく使い込まれた古い懐中時計を取り出した。


「十時半になるところだよ、そそっかしいお嬢さん」


 やっぱり。盗まれたなんていうのは嘘だったのだ。

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