犬を被っている猫のような高校生男子の面倒くさがりな人生の反省文
「人生なんてそんなもん」
一度はどこかで聞いたことあるかもしれないし、自分から言ったりしたかもしれない。
そして何かを諦めたりしたのかもしれない。
これから綴る物語は、ある少年の、諦めきれなかった葛藤を、誰かに見てもらいたくて書き始める。
残念で醜穢で、曇りなく誇れる犬を被った猫の物語である。
人は、何思うときに人生を振り返るのだろう。何か辛いことがあったとき?大切な出来事が起こったとき?人生最後のとき?
私はそんな大層な理由は持ってなかった。私は、私の人生を、誰かに知ってほしかったからだった。
高校の教室の1席に居る、テンプル(横側の部分)の青いメガネを掛けた、少し暗めの、ビビリで無口な、誰ともつるもうとしない、どこにでもいる男子高校を想像してみれば、多分それが私だ。名前は好きに考えて欲しい。
趣味は作詞作曲作画。
特技は楽しいを見つけること。
性格は面倒くさがりで、面倒くさがりが故に、何事にも手を抜かずに生きている。
誕生日は話の都合上4/2とするが、話の都合以上の深い意味は存在しない。
見た目に関してはこれ以上言うことがないため、次を書こう。
家族5人で、私は三姉弟の真ん中で、長男だった。家族関係は良好。全員オタク。
姉弟喧嘩では一度も手が出たこともなく、全員反抗期にもなってない。
手が出なかった理由は、皆痛いのは嫌だったし。反抗期がない理由も、完璧すぎる親に反抗する理由もなかったからだ。
北海道のおじいちゃんおばあちゃんの多いマンションに住み、マンションの年間行事には欠かさず参加していた。
これ以上引き伸ばす意味もないし、ここから私の半生について話そうと思う。
書ききれない部分もあるし、面白いものではないかもしれない。まあ、読めるとこまでは読んでみてほしい。
0歳:私は、家族に見守られながらこの世に生を受けた。早生まれだったらしく、体重は軽かった。
当初髪の毛が凄く薄かったらしいが、理由は多分、私より2年前に生まれた姉に髪の毛の成分を全て奪われたからだろう。私の姉の頭は、毛深かった。
蛇足だが、私が生まれたときに姉から言われた事は「どえ〜こえ〜(誰これ)」だった。
1歳:自分のにも髪の毛がちゃんと生えてきた。生えてきたが金髪だった。
別に複雑な事情があるわけじゃない。きっと他の赤ちゃんよりもフェオメラニンが濃かったのだろう。そのせいで親戚からは[マイケル]と呼ばれて育った。
当時の私は除雪車が好きであり、冬のある朝、母とともに安全の確保をしたうえで除雪車の様子を観察することがあったとか。
母にはこのときから、頭が上がらない。
それと、お姉ちゃんっ子だった私は、お姉ちゃんを追いかけて、このときから幼稚園に通っていた。
2歳:当時の記憶は覚えていないが、私のイヤイヤ期というものはゴマゴマ期だったそうな。何に対しても「ゴマッ!」と答える子だったそう。
果たしてイヤイヤ期とどちらが親にはキツイものなのか、子どもを持たぬ私には計りかねぬ内容である。
また、聞いた話によると、このときの私は大層ビニール傘を気に入っていたそうだが、その場の誰かに勝手に使われて壊れて帰ってきて、ギャン泣きしたらしい。私が一番最初に失ったのは、風船ではなく傘であった。
更にこのとき、弟が生まれた。生まれたが、その生命は長くはなかった。当時の私はその意味が分からず、納骨堂の近くにあった、列車の玩具の方に惹かれていた。
酷く薄情な話だが、よくある転生者でもない、ただの人間の2歳児なんてそんなものである。
3歳:私はこの年に物心がついた。初めての記憶は布団から立ち上がり、食卓に置いてある祖母から貰ったチョコパンを食べた記憶である。
今でもこの時を思い返すと、あのときの甘ったるいチョコと、柔らかなパンの風味を思い出す。当時の私の朝食は、いつもそれであった。
また、どうやらこのときの私は大層泣き虫だったそうで、幼稚園で一緒であった友達と喧嘩になった際、相手方が手を上げただけで泣いていたそう。
文字通り、相手方に手を上にあげただけで泣いていたのである。
4歳:このとき私は、姉が好きであったし、かなり本気で女の子になりたいとも思っていた。
だから私はこのときからスカートを履き始めた。それに対し、くみの子たちと保育士さんは優しく、それを受け入れてくれた。
なお、当時のくみの子たちからは本当に女の子だと思われていたとか。
関係ないかもしれないが、当時の女優似の顔付きをしていたから仕方がない。
そんな調子から、アニメーションミュージアムで、当時好きだった青色の子の衣装を来て、家族に写真を撮られた事もある。当然ながら女児物である。
後、新しい弟が生まれた。当時の自分の、弟に対する心構えなど何もなく。その事実に私は粛然と受け入れていた。実際のところ、動揺のあまり何も考えれなかったのかもしれないが。
ただ、このときから私は何者なのだろうかという強い疑問に襲われ始めた。姉のように一番に思ってもらえず、弟のように大切何だかんだ構ってもらえない。
中途半端。私もまた、真ん中の子たちが抱える悩みに悩まされる、一人の人間であった。
5歳:エレベーターに乗っていたときに、突然上から十円玉が落ちてきたことがあった。
誰が落としたのかと尋ねてみたもののその返答は揃っていいえであった。
単純に誰かが気付かずに落としていっただけかもしれないが、このときから私はこのような怪異とも取れぬ陳腐な摩訶不思議な現象に遭い続けることになる。
何度階段から転げ落ちても無傷だったり、空に謎の光が浮かんだり。そんなよくある内容だが、危害を加えてこないのだから、そこまで気にする必要もないだろう。
私はこのとき、とても大切な玩具があった、ゴミ収集車のミニカーである。大掃除のときに間違えてゴミ袋に入れてしまったまま、ゴミ収集車に回収されていったが。
このときだと毎日通っていた銭湯において、私は毎度知らない誰かと話していた。知らない人と話すことが楽しかったし、いつかまた会えるという希望的観測が面白かった。
ただ私は不義理な人間であったため、毎回相手のことを忘れるのだが。
当たり前であるが、出会う相手は同い年ぐらいの子達よりも、50代位の方と話すほうが多かった。マンションの関係もあって、その方が気が置けないというのもある。
6歳︰この頃から本格的にオタク的な内容に興味を持ち始めた。
ただし、この頃の男の子がよく見るであろう戦隊モノなどは、怖くて一切見れなかった訳だが、可愛い変身アイテムなんかには興味があった。
遊びでは、段ボールや大きな絵本などを用いて自分だけの世界に没頭していた。私はこのときからものづくりが好きになっていた。将来の夢として、姉弟皆でロボットを作るなんてものもあった。小さな子どもたちの大きな夢物語である。
7歳:つまりは小学1年生になった訳だが、はっきり言おう。友達百人なんて無理である。何故なら私は人の名前を覚えることが絶望的に無理だったからだ。
ただ、年相応に悪ガキであったため、黒板の前に立たされたこともある。理由は確か、自分他2人とトイレで過ごしていたら授業時間に5分遅刻したからだったはずだ。
8歳︰知った知識を何でも披露したい年頃であった私は、当時のオタク的な知識を恥ずかしげも無く披露していた。今となっては布団に顔を埋めてゴロゴロしたいほどのものであっても、当時の私には誰かに伝えたい不思議な魅力があった。
今の自分を構成する要素として外せないのが、初めてスマホゲームというものを触ったときの話である。
私は、祖母の持っていたスマホを貸してもらい、面白そうなアプリを探してダウンロードした。
今ではもう名前も思い出せないが、金か土日に金と銀のイノシシの魔物を討伐して金策ができた事は覚えている。
だがこのとき同時に携帯ゲーム機も誕生日に貰い、1週間程度そっちを遊んでいたら、祖母がスマホゲームの方を消してしまっていた。
その事実が発覚してからは必死にそのアプリを探したが見つからず、結果自分は、一生そのゲームに似たゲームを探す亡者と成り果てた。
あと、このとき私は初めて本格的なイジメというものを経験する。いわいるばい菌扱いである。
他にも仲間外れにもされたし、来なくていいとも言われた。何度もいうが当時の私は、泣き虫であった。
習い事に関しても、このときから水泳を習い始めた。
最終的にはクロールが出来るほどまでは出来るようになったが、それ以降は習う気に離れなかった。
自分はいつのときも諦めが早いのだ。
9歳︰私が通っていた小学校は、転勤の家族が数多くいたのか、転校生の歓迎会とお別れ会は何回も行われた。
その中でも特に記憶に残っているのは、少し下品で、とても面白かった、1人のクラスメートとの、ひと夏の思い出であった。
今となっては、多分私は恋に近い感情を覚えていたのだと思う。
このときから私は別れに対して特に関心を覚えないようにしていた。あまりにも別れが多すぎたから。
少し時間が進んでこの年の冬場、私は未来の友達から傘で殴られた。理由は思い出せない。ただ殴られた記憶が残っている。
この年の学習発表会では、初めて本格的な役をやる事になった。いや、本格的な役作りをやり始めた。
きっかけは些細なものであり、当時の出し物の小物に足を引っ掛けて転んだというものである。だがそれにより自分という役が確立し、周囲からの評判も良かったことから、この年以降、意図的に自分を他とは違うように見せることが多くなった。
さて、ここまでが私の半生の半分だ。
ここからは折り返し、そう行きたいところであるが、その前に1つご注意を。
これから語るは私の最も醜い物語であり、最も人に見られたくないものであり、最も人に伝えたい部分である。
ここまで読んでくれた方へ、どうか最後までお付き合い下さい。
ですが、どうかどうかお忘れなく。
この物語はフィクションではなく、リアル。勧善懲悪なんてものはありません。では、始めていこうと思います。
10歳︰初めて書いた小説は、夏休みの自由研究だった。
当時の私にとっては最高傑作であったが、今にしてみれば笑いの種にもならないような内容である。
あの作品が未だ手元にあるならば、いつかここでもう一度書き直してみたいものである。
この年から小学校ではクラブに入ることが出来るようになる。自分がはこのときに入ったのは、[マンガイラストクラブ]であった。
このときの私は人が描けず、ずっと動物を描き続けていた。今でも何か描けと言われたならば、人よりも動物を描いたほうが上手いと思う自負がある程度には動物を描き連ねていた。
私は、この年に初めての自殺未遂を起こした。理由は確か仲のいい友達との仲違いであった。
自分の首を絞めて分かったことは、人はそうそう死なないことである。そもそも縄なんかも用意せず、自分の手だけで首を絞めたものだから、苦しくなってはすぐに手が緩んでしまった。
結局先生に見つかり止められたが、自分の心の中で自虐心が目覚めたのはこのあたりだと思う。
ここに書くまでもないことかもしれないが、この年に来た転校生に私は巴投げを食らわされた。この話の教訓は、よくわからない事には頷けないことであるが、それはそれとして巴投げの許可をまず取ろうとしないで欲しいものだ。
11歳︰このときから私の髪は、全体的に伸び、前髪で目元が隠れ始めた。
この時はそれ以上の髪の毛をいじるということが分からず、ただむさ苦しく髪を伸ばしていただけに過ぎないが、今となってとても勿体ないことをしたと思っている。
それと、自分が一番食欲旺盛であったのがこの時期だろう。このときの私はまるまると肥えて、体重も増えていった。
が、そんなこんなのときEBウイルスにかかり、ほとんど何も食べれなくなってからは、食欲も失せた。かなり辛かったが、当時の私は聞き間違いからEVウイルスと思っており、割と元気だった。
昔も今も、ポ〇モンが好きだ。
実は、ここまで記載をしてこなかったが私はこの頃まではアスペルガー症候群を発症していた。
上で記載していなかった理由としては、このときまで本当にその自覚がなかったため、ここに来るまで書くことが出来なかったからである。
具体的には、すぐに机の下に隠れようとしたり、給食の時間を過ぎてもご飯を食べ続けようとしていたことは覚えているが、それ以上のことは覚えていない。
どうやらこのときは月に一度位のペースで私は診査を受けていたらしいが、その事実についても覚えていない。後、同時にチックにも発症していたとか。
学習発表会についても、この年の私は人一倍に我が強かった。
発表内容がライオンのキングのやつであったときに、私の役割は渡り鳥だった。
だが当時の私はペンギン好きであり、そのまま青色の渡り鳥たちに紛れて、ただ1人、黒い渡り鳥として劇に参加していたから。黒いだけでも目立っていたのに、私以外の渡り鳥役の子が全員女性であった事も話題としての拍車をかけてしまった。
12歳︰自分の人生の中で、校門でズボンを下ろされたのは跡にも先にもこのときだけである。
確かパンツごといっていたはずであるが、詳しいことは覚えていない。
覚えていることは、そのまま私が校舎裏に逃げ込んだ後、そのズボンを降ろした相手が私の元へ来て、仲直りし、友だちになった事ぐらいだ。つくづく私は人に甘い。
このとき私は最高学年として1・2年生の教室の前によくお邪魔になっていた。
年下の子たちからはおじいちゃんと言われて慕われていたが、そこに一切嫌な気持ちは湧いてこなかった。
何なら卒業式の際、学校全体を周りながら全校生徒達の横を通り抜ける行事があるのだが、その時に1年生の子から「おじいちゃんまたね!」なんて言われたら号泣者である。
当時の私は、涙もろかったのだ。
ちなみに最後の下校のときに行った一世一代の告白は、言い回しが遠回りすぎたのか、多分伝わっていなかった。
13歳︰さて、遂に私は中学生となり、今まで仲良かった人との別れによって自分は地味な存在へとなるのかと思っていたが、当時の自分の出で立ちは、ピンクのメガネを掛けた、モフモフの髪を持った少年であったため、相手の名前を自分が知らなくても、自分の名前を相手側は知っているというチグハグな環境が続いた。
教室では明るいムードメーカーがおり、私はいつも笑わせてもらっていた。
だがどうやら私の笑い声は独特な上大声らしく、私が笑えば皆私を見ながら静かにする。
このとき私は、恥ずかしさよりも見つめてくる瞳に対して恐怖を持ってしまい、笑うという行為を抑え込み、自分の方へ封印した。
以降私の笑い方は、肩を揺らす行為となる。
部活動をしようかと思い、私は美術部へと入部したが、当時の男女の人数は女子19人、男子5人という振り分けの上、自分以外の男子たちは既にグループを作っての入部だった。
小学生中学年までは男子よりも女子の方が友達が多かったが、思春期真っ只中の青少年にとっては同い年というのは会話対象にしてはいささかハードルが高かった。
結局、先輩方のグループへと混ざり、人の描き方等を教えてもらいながら過ごしていた。多分このときから、私は同い年に対して強い苦手意識を持ち始めていたのだろう。
人生初の文化祭において、学科展示を担当、恐竜の段ボール製作と、ミニゲームのキャップ投げに精を出した。
当日、私の文化祭は学科展示の掃除で全てを終わらせた。別に悪いことをしたわけではない。ただ学科展示室に散らばっているキャップが我慢ならずに回収していたのだ。だがその中でも一番ムカついたのは当時の3年生の所業である。
キャップを投げるのは一度に一回までと張り紙を出したのに、それを無視し大量のキャップを持ち、それを投げ出したのだ。当然地面は地獄絵図。結局、近くを通りかかった先生からストップが入るまで私はキャップの掃除をし続けていた。
中学校入学の際、一度髪を切った私であったが、どうしても髪の毛を伸ばしたかったがために中学校に直談判することを決意した。
生徒手帳に書かれている女子の校則の内容に則り髪型を作り講義をした結果、髪を伸ばす許可をいただけた。後に中学校の校則の内容を少し変える結果となった。
音楽の時間、シューベルトの魔王の音読において、私は魔王役を行った。如何に不気味に、如何に胡散臭くするかに全力を尽くし、私は魔王を遂行した。
それがとても楽しく、私は、魔王になることにした。
14歳︰私は初めて、盗みというものをはたらいた。店の物とかではなく、家のお金だが。盗みという事には変わりないだろう。
結局母にバレて、今までに感じたことが無い悪寒と共に、私の知る限りの人生最大の説教を受けた。今も、当時の事が頭にこびりついている。
このときの私は、母から何円盗んだのかと聞かれ、咄嗟に1万円と答え母はそれを認めたが、今になれば絶対にそんなことはない。少なくとも5万以上は行かなければならないほど私はお金を盗んできたと思う。
今となっては絶対にやらないと誓えるが、それでも私はこの事実と目を背けずに、背負っていくことを誓った。誓うほど高貴な内容でもないけど。
バレンタインの日、私はチョコを配り歩いていた。普通貰う側じゃね?と思ったかもしれないが、チョコを渡したい人がいたのだから仕方がないし、男性は駄目だというルールもない。私は手作りサラミチョコを手に街に繰り出した。
友だちに配りおいて、残り一人。相手は当時の好きだった人への贈り物だった。手作りが食べれないとの事で、私は店により、2000円程の見た目の良さそうなチョコの詰め合わせを手にその人の家へと向かった。
次の日、好きな人からチョコがお返しされた。[チョコがお返しされた。]高いから受け取れないと、お返しされた。私は家に帰り、姉弟と共に私の2000円を食べ尽くした。初めて家族以外から渡されたチョコの味は、思いの外しょっぱかった。
15歳︰中学3年生。私は修学旅行にて青森に来ていた。初めての内地上陸、ワクワクであった。北海道と気候にそんな差があるわけでもなかったが、現地の人の気さくさには少し驚いた。お土産には生ワカメを手にホクホク顔で帰った。
後日、生ワカメを使った味噌汁を食べてみたところ非常に美味しく、姉からは普通のが食べれなくなったらどうするのだと怒られた。怒られたが私は悪くない。生ワカメが凄く美味しそうだったのが悪いのだ。
席替えのとき、男女別で席替えのくじを引くのだが、私は待っている際に暇だからと座禅を組んで、目を閉じで待っていた。
次に目を開けたときには何故かクラスの男子全員が座禅を組んで並んでいた。先生も笑っていた。学級日誌にもその話が載った。私の行動は何故か、よく人に真似される。
進学の時期がやってきた、皆がどこに行こうかと熟考している中、私は最大のピンチを迎えていた。
ランクが足りない。そう、行きたい学校へのランクが足りなかったのだ。
言っておくが私は馬鹿だ。このときは、特に馬鹿だったし、今も馬鹿だ。私はスタートダッシュが行えなかった瞬間全くスピードを出すことができないタイプの人間なのだ。遡ること中学1年、このとき既に一度理科のワークの提出を出来なかったときから一度も理科のワークを提出していなかったのだ。
むしろまともに4が取れたのは美術だけだった。それぐらい当時の私は酷かった。それでも諦めきれなかった私は頑張って勉強し、なんとか1ランク上げることができ、高校受験へと足を運んだ。
16歳︰見事受験に合格した私ははるばる高校生活へと繰り出した。登校時間1時間の少し遠くの工業高校である。
まあ、私は高校デビューなどができない人間であったため、そんな変なことも起きないと思っていた。思っていたのだ、舐めていたのだ。ランクの低い学校の、生徒の頭の悪さを。
もちろん私もその中の一人だ、その中の一人だが、私は高校生になった際、一つだけ学びを得ていた。
そもそも高校は義務教育じゃない。つまり究極行かなくてもいい場所なのだ。なのにあえて親から多額の支援をしてもらい、高校生活へと足を運んだのならば、その期待に応えなければならない。下手なことはしてはならないと。
上記であれだけのことをしておきながら言うのもあれだが、私は両親が好きである。ならばこそ、両親の期待には応えなければならないと思った。実際のところ、いい意味で期待はされていないことは理解しているが。
一学期が始まってすぐに自分のクラスの異常さに気が付いた。常にやかましい、授業中にもスマホを見ている。ご飯を食べている。目に見えて先生を見下しているし、盗撮もしている。あまりにもやりたい放題である。
流石に煮え繰り返した私は証拠を集め、その全てを先生に告発した。幸い自分が罪を犯して写真を撮って集めることをしなくとも、勝手に写真や動画をグループL〇NEにあげてくれるものだから証拠集めは簡単だった。簡単だったがその行動がまずかった。
よく考えれば分かることだが、こんな事をするのが私のクラスだけなはずが無かった。全クラスで調査を行ったらしく、結果全体の三分の一近くが停学処分となった。
頭が、いや、頭痛が痛くなりそうだった。あまりにも馬鹿である。何故駄目ということをするのか、そういう事は中学生までに卒業するべきである。
ただ、そういう私も馬鹿の一人である。気付こうと思えば気付けたことだが、こんな事をすればかなりの人から反感を買うし、こういう事は、誰がしたのかと言うことが、どこかしらでバレるものだ。
違反者たちの停学終了後、私は針の筵となる。大きな音が苦手で、工業系の実技のときにイヤーマフを付けていたことも拍車をかけ、耳元で大きな声を出される様になったし、行動の一挙手一投足をバカにされる。
授業時間に先生が来なかったときに、先生を呼びに行ったときは特に酷かった。皆一様に文句を言うし、次に呼びに行ったときには入口を塞がれ体で妨害された。彼らは学校に何しに来ているのか、甚だ疑問だった。
結局心が持たずに、授業中以外は保健室ぐらしを始めたが、思いの外保健室の暮らしは悪くなかった。似たような境遇の優しい先輩がいるし、保健室の先生も皆良い人だった。いつしか保健室は私の第二の家となった。
17歳︰クラスメイトからの明確な意思を持った誹謗中傷に耐え抜きながら過ごした一学期、未だグチグチ文句を言われる中、一つ気になる文言が存在した。
それは私が近くにいれば必ずと言っていいほど言われる、「チクられる」という言葉。
正直意味がわからなかった。確かに私は告発したが、それの原因がわかった上で何故現在もその行為を続けているのだろうか。ただ疑問だった、馬鹿なのだろうか?馬鹿だったわ。
この頃に、私は一つの学びを得ていた。あれらがチキンヤンキーであるという事だ。口だけであるという事だ。逆に言うと口を開けば下水煮込みな汚い罵倒の…いや、それすらも小2レベルの陳腐なものであったが、とにかく下らなさに笑いすら出るレベルであると理解した。冷静になってみるとヤンチャな子どもの相手をしているようなものである。小学1年生の担任の気持ちが少しわかった気でいる自分がいた。
二学期、私の高校では2年生のときに修学旅行を行う。理由は3年生の時は就職試験で忙しいからだ。
修学旅行ではグループでの行動が基本だが、私は当然馴染めるわけがなかった。いや、元々は入れてくれるグループが存在したが、他の人を入れたいと追い出されたのが真実だ。結局、他のグループにも入りたくなかった私は先生に直談判をし、先生と二人きりのほぼ普通の旅行と変わらない旅行計画を打ち立てた。
修学旅行の内容についても事細かに書きたいが、ここでは書ききれないため後日別の形で投稿したいと思う。
18歳︰3年生。遂に最高学年となり、そして私にとっての最後の学生時代。私は、就職することにした。
理由は2つで、1つは今いる自分の高校から行ける大学に入った後の就職先と今行ける会社の規模があまりに違うことだ。
私は高校時代、ずっと真面目に勉強を続けてきた。だからこそ平均評定4.0でないと目指せない場所にも目指すことができた。故に今就職に舵を切ったほうが将来安泰なのだ。
そして2つ目は大学に行く気がないからだ。大学とは社会に出るための勉強をする場所というよりも、学びたい者が、学びたい事を、学ぶために入る場所である。
私は彼らのような向上心も好奇心も持ち合わせていない。三日坊主である。
ならばこれ以上、家でタダ飯食らいのような人間になるのでは無く、早くに家出し一人前の人間になるべきである。一応、洗濯・お風呂掃除・米研ぎはいつも家事で行っていたので一人暮らしで生きていけるはずである。
私はこの年になって、自分の体型について疑問を持ち始めていた。
先に書いておくが、私はトランスジェンダーではない。ただ男女の診断をしても、いつも半々の結果となるだけである。恋愛対象であっても、無機物含め誰であれ私のストライクゾーンだ。
なので正直言って、私は心の性別を気にしたことがない。だが体型は別だった。最近女性の胸が気になる。背中周りのムダ毛が気になる。下半身の違和感が気になる。自分の男という体に違和感を覚える。
このときに母にブラキャミが買いたいと打ち明けたが、母は何も言わずに受け入れてくれた。それだけで嬉しかった。そして、私に胸がある姿を見たときに、なんとも言えない安心感を感じていた。
可愛い服が着たい。だがこの世の中の大体の可愛い服は肩出しヘソ出しマーメイド。しかも高校の規則で髪も伸ばせない。髪が短いのなら必然的に似合う服の丈も短くなる。ムダ毛の多い男性の体というものが憎かった。
学生時代最後の文化祭で、私は女装をしながら学校を練り歩いていた。イベントではない。自主的にである。
そもそも私は当日の仕事は無かったため自由行動が出来たのだ。それならばと保健室の先生に頼み込み、部屋の一室を貸してもらった。いや、むしろ先生は女装の話にノリノリに乗っかってくれた。更に言えば、30分に一度服を変えて開場を練り歩くことを提案してきた。私史上最高の先生である。
当日の結果としては、先生の誰一人として私のことに気が付かなかった。私の学科の先生であれ、私が目の前にいながら一般の人へのお客様対応で話しかけていた。我ながら、休日普通に女装をしながら街を練り歩いていただけのことはある。女装の年季が違うのだ。イベントでの学生の対応も優しかったし、割と本気で女性と思われていたのだろう。その事実が、どうしようもなく、嬉しかった。
さて、ここまで読んでくれた方々へ。私から深々とした感謝を、私の半生を楽しんでいただけたのなら嬉しいです。
就職試験の結果はどうなったのかなど、気になる方もいるかも知れませんが、それはここでは語れません。何故なら私は、まだ採用試験を受けていないから。それはこれからの物語だからです。受かるか落ちるか、はたまた別の道へ行くのか。
これは私の半生です。人生の反省です。私の吐き出したいことを吐き出し殴り書いた半生文です。正解なんてありはしないこの世の中で、少しでもよかったと振り返れる人生を、どうか、祈っております。