現代百物語 第32話 酒と花
「こんにちは。中島と言います」
その青年は素朴な顔立ちで、誠実そうな声をしていた。
作務衣姿で、頭に巻いていたタオルをとってペコリと頭を下げる。
「こんにちは。今日はお世話になります」
藤崎柊輔の隣で、後輩の谷本新也も頭を下げた。
藤崎の郷里に来ていた。
2人はその郷里で有名だという地酒の蔵元を訊ねていたのだった。
藤崎の父親の紹介で現れた中島は見た目通りの素朴な青年だった。笑顔が朗らかで笑い声も大きい。
酒蔵や店を紹介する間も、ずっと笑顔だった。
そんな中島だったが、見学の終わりに地酒を買おうとする2人を残し、ふと姿を消した。
「どうしたんでしょうね」
新也が聞くと、藤崎も首をひねる。
そこに店の奥から、中島が戻ってきた。
「すみませんん、お待たせしました」
手には1本のラベルのない酒瓶を抱えている。
中島は手に持った酒瓶のホコリを払い、藤崎へと差し出しながら、言った。
「じいちゃんに、藤崎さんのところからお客が来たと伝えたら、ぜひこれをって言って……」
「これは?」
藤崎が訊ねる。
中島は意味深に笑って声を潜めた。
「あの世が見れる酒、らしいです」
「あの世?」
新也はつい声をあげた。
中島が楽しそうに頷き、笑う。
「夜これを飲んで寝ると、夢であの世が見れるらしいです。……それくらい美味いぞってことだとは思うんですけどね。じいちゃんの秘蔵だそうです」
貰ってくださいと押されて、2人は有り難くいただくことにした。
そして、その夜は二人してその酒を飲んで寝た。
その夜、新也は夢を見ていた。
霧が深く立ち込めていた。周囲は何も見えない。
自身を見下ろすと裸足で、寝間着のままのようだった。
ざわざわと空気が動いた。
周りで大勢が歩き回っているような気配だった。
こそこそと囁き合う声がそこここから聞こえる。潜められた声の大半は人のものとは思えぬ言葉で、何事かを囁きあっていた。
ぬっと新也のすぐ横をとてつもなく大きな何か……人、が通った。裸足で、尖った爪を持つ黒い足だけが霧の中に消えていく。続いて地を這う、トカゲの尻尾も見えた。やはりそれは巨大で、新也の脛をトゲのついた尻尾の崎で撫でてから通り過ぎていく。小さな目に見えない何者かも群れを作って新也の隣を通り過ぎる気配がした。
それらは行列を作り、新也の周囲をきりの向こうへと進んでいく。
「……っ」
さあっと、霧が晴れた。
波が引くように、人の気配も遠ざかる。
そこは一面の青い花が咲き乱れる花畑だった。
きゃっきゃと笑う子供らの声が、最後の霧とともに彼方に消え去ったところで、新也はたった1人で花畑に取り残された。
風はそよそよと気持ちが良い。
しんと冷えた空気を、遠くにある霞んだ太陽が温めてくれる。
しかし、そこは一人だった。圧倒的な孤独があった。
「おーい」
新也は口に手を当てて誰ともなく声をかけた。
こだまさえ返ってこない。
青い花が風にさわさわと揺れるだけだ。
新也は途方に暮れて、座り込んだ。
そして、青い花畑に倒れ込む。
青い空と、青い花だけが見えた。
そこで、目が覚めた。
翌朝。
藤崎の実家の食卓で神妙な顔で2人は顔を合わせた。
実家は藤崎の父方の祖父母の家だった。
朝早くから畑に出たという祖父母に取り残されて、2人きりで朝食を囲む。
「……どうでした?」
新也はそろそろと藤崎に聞いた。藤崎は欠伸をしながら言った。
「花畑だったかな。一面、誰もいない青い花畑だけ。お前は?」
「僕もです」
「へぇ……」
藤崎は興味深そうに新也を見た。
「同じか。……あれがあの世なら、俺は行きたくないけどな」
あんな寂しいところ、と藤崎は笑った。
「確かにそうですね」
と新也も笑った。
霧が晴れる前の気配のことは、藤崎には言わないままでおいた。
【end】