前日譚
物語が始まる少し前のお話です。
せっかくなので追加しておきます。
本編のネタバレを含みます。
本編をご一読の後、お読みいただければ幸いです。
ふと思い出してしまうような、忘れたいけれど忘れられない記憶があるだろうか。
それは人によっては後悔なのかもしれないし、恥ずかしい思い出なのかもしれない。
過去のことなどろくに覚えていなくとも、なぜかそういった記憶だけは鮮明に脳裏に焼きついていて、その時の感情を連れて旧知の友のように顔を覗かせる。
月明かりで目を覚ました少女の頭にも、ふらりとそういった記憶が姿を現していた。
寒さが深みを増し、凍てつく空気が纏わり付く十二月。街ではクリスマスに向けて暖かい光が増えてきているからか、薄暗い寝室は余計に肌寒さを与える。少女が見上げる月にも、張り詰めた空気がまとわり着いていた。
「なかなかどうして、思い出しちゃうなぁ」
少女の言葉が、凍てつく弦を揺らす。
この感情は失恋に似ているのかもしれない、と少女は初めて思った。
とはいえ、恋らしい恋をしてこなかった少女にとっては、それが正しい理解なのかもよくわかっていなかったが。
それでも、きっとこの感傷は時間が解決してくれるだろうと、少女は苦笑いを浮かべながら、優しい記憶にそうっと蓋をする。
これで何度目だろうか。思い出しては蓋をして、また思い出したら蓋をする。おさまらない痛みを誤魔化すため、少女はふらりと扉を開け、夜の街を歩き始める。
夜な夜な当てもなく街をさまよい、心を落ち着けてから家に帰る。これが正しいことではないと理解しているのに、やはり今日も少女は暗闇をふらふらと歩いていた。
「なにやってるんだろう……私」
自嘲を含んだ言葉が少女の口から飛び出した。三十分ほど外気を浴び、すっかりと冷え切った身体を念入りに擦る。
普段であればこの辺りで気分が落ち着くのに、今日は不思議と落ち着きが帰ってこない。少女は空を見上げ、大きく息を吐いた。白いもやがふわふわと寒空を漂った。
信頼の髄を置いていた人間が自分のことを忘れてしまい、少女は彼のため、彼との記憶をなかったことにすることを選んだ。
しかしやっかいなことに、忘れようとしてもことあるごとに彼への想いは彼女の前に現れた。
月に嘯く今も、やはり思い出されるのは彼との思い出だった。
全ては彼が幸せに過ごすため。だから全てを忘れようとしたのだ。けれど、それは本当に彼にとって幸せなことなのだろうか?
きっと、本当のことを知れば彼は全てを背負い込む方に進んでしまう。だったら私はどうすればいいんだろう。今日はいつも以上に余計なことを考えてしまうなぁ。少女の感情がぐるぐるとめぐる。
そんな少女の思考を遮ったのは、小さな水音だった。ぱしゃりと、水が跳ねる音。魚でも跳ねたのだろうか、と少女は思ったが、この先にあるのは浅く小さな川だけである。音を上げるほどの魚などいるはずもない。
じゃあこんな時間に川遊び? 十二月の夜に? 不可解さを覚えながらも、少女はその音に近づいていく。
近づくにつれ、物影の輪郭がはっきりとしていく。音の発生源は、驚くことによく見知った、思い出したくなかった人物だった。
「はぁ」
彼は大きく溜息を吐く。こちらに気付く様子もなく思いに耽っている男を見て、少女はくすりと笑みを浮かべた。
何をやっているんだこの人は。私がこんなに悩んでいるのに、気も知らず水浴びをしているなんて。神様はどうやら、記憶から消し去ることすら許してくれないらしい。
そこまで考えて、少女は先ほどまでの感情が全て吹き飛んでいることに気がついた。
少女はただただ嬉しかった。先ほどの悩みなど吹き飛んでしまうほど、再会の歓喜が大きく膨らんでしまった。
「自殺ですか?」
少し上ずった声で少女は言った。照れ隠しにしては少し重すぎたと少女が反省を浮かべていると、反射的に男が立ち上がった。
数週間しかたっていないのに、ひどく懐かしく感じる彼の顔立ちに、少女はどきりとしてしまう。でも目の前の彼は、彼であって彼ではない。私達との記憶という大きな部分が欠落しているのだ。
少女は慌てて言葉を付け加える。
「すいません違いますよね。ふふっ、つい、あまりにもひどい光景だったので……」
見知った顔によそよそしく接している自分に違和感が走り、少女の言葉が詰まった。こわばった顔を隠すため、少女は急いで顔を作り変える。
「風邪、ひきますよ? よかったら使ってください」
少女はポケットから取り出したタオルを差し出す。男はタオルを受け取る前に、その場に崩れ落ちた。追随してタオルが宙を舞う。
ボクシング漫画でこんなシーンを見た事があるな、と少女は暢気に思い浮かべた後、急いでしゃがみ込んだ。
「だ、大丈夫ですか? ……うっお酒くさい」
更に近づいたことで伝わってきた匂いに、少女は身をよじらせた。どうやら目の前の男は、泥酔した挙句こんな浅い川でぷかぷか浮かんでいたようだ。
大して強くもない癖に、こんなになるまでアルコールを摂取するなんて、本当にどうしてしまったのだ。
「もう、なにやってるのさ、いつき君」
言葉に反し、少女の顔に笑みが浮かぶ。男の呼吸を聞き、完全に眠っている事を確認した少女は、携帯電話を取り出した。
「もしもし、たま? あの、ちょっと手伝って欲しい事があるんだけれど」
少女は現状を電話相手に伝える。成人男性を運ぶには力不足だと悟ったのか、少女は男の搬送に救援を呼んだようだ。
電話を切った少女は、ふうと大きく息を吐いた。冬の空に、白く帳が作られる。
「まったく……。君は本当に私がいないと駄目なんだから」
少女は自分自身を納得させるように言葉を吐き、小さな微笑と共に男の額に手を置いた。
「しょうがないから、今度は私が君を助けてあげる」
少女の呟きが凍てつく空気を暖める。少女は瞳を閉じ、救援の到着を待った。
ふと思い出してしまうような、忘れたいけれど忘れられない記憶があるだろうか。それは人によっては後悔なのかもしれないし、恥ずかしい思い出なのかもしれない。
私の場合、それは失恋の痛みなどではなく、ただの後悔なのだろう。
彼を守るために、忘れるべき私の後悔。それでも今、そんな感情を押して通るほど、私はこの人の事が愛おしく、一緒にいたいと思ってしまった。
後悔はもう一度胸の奥に仕舞っておこう。その都度思い出して、辛い想いをするかもしれない。より深い後悔になるかもしれない。忘れないといけない記憶と向き合い続けなければいけなくなるだろう。
けれど、それでも、私は君の近くにいたい。
少女は強い覚悟を抱いて瞳を開く。男を見つめる少女の瞳は、師走の夜に輝き続けた。




