覚えない青年5
頭を落としながらマンションへと到着し、佳乃宅へと足を運ぶ。
扉の前には既に先客がおり、彼女はインターフォンの方をじっと見つめていた。
「どうしたの? 佳乃に用事?」
俺は先客の方へと近づき声をかける。彼女は驚きに身を翻し、体勢を整えながらこちらを見た。
「び、びっくりした……急に声かけないでくださいよ」
眼鏡を元の位置に戻しながら不平不満を述べたのは、垣内杏季だった。部屋の前でじっとしている人間に対し、声をかけるなというほうが難しい話だろう。
「いや、家の前に突っ立ってるから、どうしたのかなって」
「ピンポン押してもうんともすんとも言わないんで、困り果てていたんですよ」
やれやれと溜息を吐く垣内は、こちらに向かって紙袋を差し出した。
「なにこれ」
「先輩に渡してください」
「……雑誌?」
紙袋を受け取り中身を確認すると、どうやらファッションにまつわる雑誌らしきものが三冊ほど詰められていた。
「先輩がどうしても貸してくれって言うから、わざわざ休みを返上して持ってきたんですよ」
「そうなんだ」
「まあ、アポなしで来た私が悪いんですけどね。でもお兄さんが帰ってきてくれて助かりました」
人に帰って来いと言っていたくせに、佳乃はまだ家に到着していないらしい。
都塚といい垣内といい、佳乃はウインクキラーを理由に関係を絶っていた人間達となんなりとよろしくやっているようだ。佳乃の外交において、記憶を失くした俺の存在が足枷になっていた事実が徐々に浮き彫りになってきて、少し憂鬱になった。
「わかった。確かに預かったよ。わざわざありがとう」
佳乃に代わり礼を述べる俺に対し、垣内はじっと瞳を向け続ける。
「な、なに? なんか付いてる?」
「ああ、いえいえ。そんなんじゃないんですけど」
眼鏡越しの瞳が、品定めするように俺の全身像を捉え続けた。向けられたことのないような興味の視線が、俺の落ち着きを徐々に奪っていく。
「お兄さん。いや、いつきさん」
全身を観察し終わったのか、ふむふむと何かを飲み込んだような垣内がそう言った。
彼女からは呼ばれたこともない呼称に、俺はぎょっとしてしまう。
「な、なに?」
「私達、実は恋人同士だったんですよ」
垣内は事も無げに、人差し指をぴんと立ててそう言い放った。恐ろしい内容をさらりと言いのけた彼女に対し、自分でもはっきりとわかるほど俺の顔が歪んだ。
何を言ってるんだ。恋人同士だった? 垣内と、俺が? そんなはずはない。しかし、記憶の抜けがあるという事実が、否定の言葉を吐き出すことを阻んでいた。歪んだ顔のまま思考がめぐり、考えが絡まっていく。
「あははっ。冗談っす」
思考が停止して言葉が出なかった俺を、垣内はこれでもかという程笑った。
追加の一石投じられたことにより、俺の顔は更に歪む。
「なに言ってんの?」
精一杯搾り出した俺の声を聞いて、垣内は笑いを深めた。
「だから冗談ですってば。あははっ。口空きっぱなしですよ」
「なんで急にそんな冗談を……」
徐々に戻ってきた俺の思考回路が、冷静に反応を返した。当然過ぎる疑問にも垣内は余裕の表情を貫いていた。
「聞いたところによると、記憶がなくなっているらしいじゃないですか」
「それを知って、からかったってのか」
「からかったってわけじゃないですけど。どうやらその様子だと、本当に記憶に抜けがあるみたいですね」
なかなかいい趣味をしている。垣内はわざわざありえない仮定を言い放って、俺のことを試したようだ。
「ご覧の通りだよ。どうだ? 満足したか?」
わざとらしく溜息を吐いて、俺は部屋の鍵を開けた。これ以上実験台にされては心が折れてしまいそうだ。ただでさえ、都塚との話が半端に終わって消沈気味なのに。
「冗談ではありますけど、本当のことかもしれませんよ」
扉に手をかけた俺に向かって、垣内はそう言った。
「まだからかうつもりなの?」
「からかうつもりなんて最初からありませんってば。ほら、呪いが関係して記憶が消えるかもしれないってことは、私の記憶にも消えている部分があるかもしれないじゃないですか」
俺は振り向いて垣内を見る。彼女はふふんと鼻を鳴らし、人差し指を立て続けたまま話を続けた。
「だとしたら、私達は本当に恋人だった可能性もあるじゃないですか。どうっすか? 運命感じちゃいませんか?」
「え、いや、感じないけど」
「ええっ!?」
肩を落とす垣内は、ちぇーっと言いながら唇を尖らせた。間抜けな少女に対し呆れた顔を浮かべながら、俺は拾った垣内の言葉を頭の中で反芻させた。
「意外といい芝居だと思ったのになー。まあ私も全然運命なんて感じてないんですけどね。顔もタイプじゃないですし、記憶も多分抜けてないですし」
ふふふと気味の悪い笑みを浮かべながら、垣内は両手をポケットにつっこんだ。
「でも安心しました。これで運命を感じるなんて同調されてたら、ぶん殴ってましたよ。それじゃ、私これからバイトなんで」
そう言って垣内はエレベーターの方へと進んでいった。
彼女は結局何がしたかったんだろうか。そんな疑問が届いたのか、垣内は足を止めこちらに向き直った。
「偉そうに言いますけど、自信を持ってください。私だって、自分の記憶が全て正しいと自信を持ってるわけじゃありません。世の中の大体の人がそうだと思いますよ。でも過去は過去、今は今っす。今を大切にする方が、ハッピーだと思いませんか? せいぜい次に会うときまでには、私の妄言に変な顔にならないようにしといてくださいね。ありえねーよ、馬鹿か、二度とツラ見せるんじゃねえぞクソ女が、とあしらってくれればウィンウィンっす」
「どこがウィンウィンなんだよ」
下品な笑みを浮かべる垣内に、俺はくすりと笑いながらつっこみを入れた。
発言に角はあるものの、彼女は彼女なりに状況を心配してくれているようだ。記憶に関して疑心暗鬼になってしまった自分に一喝入れられたような気分だった。
「バイト、頑張ってね」
「ありがとうございます。いやぁ、実は今日が研修明け初日で。聞いてくれます? もうめちゃくちゃ緊張してて。駅前のファミレスなんすけど、時給がめちゃくちゃいいんすよ。やっぱり本格的にデザインやろうと思うと何かとお金がかかって、これはもうバイトしかないって感じなんすけど――」
何に火を点けてしまったのかはわからないが、垣内の言葉が爆発し続ける。接客業をやるなら、その急に出てきた敬語じゃない敬語を直すことをお勧めするぞ。
「いや、あの、エレベーター来たけど」
「えっ、ああ、本当ですね。それじゃまた。それ、ちゃんと先輩に渡しておいてくださいね。お兄さんも、幸せが逃げていくような顔は禁止っすよ!」
嵐のように去って行った垣内を見送り、俺は室内へと入る。
本音を言えなかった少女が前を向いて生きている姿は、自ずと俺の心を温かくさせた。俺はコートをハンガーにかけ、椅子に腰掛けた。
過去は過去、今は今。大きな壁を乗り越えた彼女からの言葉ということで、思いの外俺の深いところに刺さった。
居留守と言うわけではなく、本当に佳乃は家にいなかった。だったら、都塚はなぜ嘘をついて俺を帰らせたのだろうか。考えていても仕方がないが、どうにも想いをはせずにはいられない。
落ち着かない心を静めるため、俺は都塚に渡された資料に目を通し始める。
どの部分を探しても、俺が見た夢のような出来事は書いておらず、最後の呪いの解き方に纏わる内容も書いていなかった。
都塚の言っていた気になる内容というのは、結局なんだったんだろうか。記憶がなくなった理由なんぞ思い出せるわけも無い。やっぱり意地でも続きの話を聞くべきだった。後悔が溜息となって燻っていく。




