覚えない青年2
次に目を開いて視界に映ったのは、華やかさのない薄暗い天井だった。隣室から漏れる弱い光だけが部屋を照らしている。
じっとりと纏わり付く汗が気持ち悪くなり、俺は身体を起こした。額に置かれていたタオルが剥がれ落ち、布団を揺らす。ああそうか、俺は風邪を引いていたのか、とそれで思い出すほど、身体のだるさや諸々の痛みは消え去っていた。
今の夢はなんだったのだろうか。俺は呆然と視線を動かす。時刻を知ろうと動いた瞳が、左横に転がる人影を捉えた。
どうやら眠っている人影に向けて、俺は声をかける。
「うつるぞ。おい、佳乃」
言葉に反応を示すことなく寝転がる制服に、悪戯心が芽生えた。ゆっくりと伸びた俺の指が、少女の頬を突く。
「んにゃ……」
意味不明な反論と共に、ぱしりと俺の手が弾かれた。病院で眠っていた時とは違い、ただただだらしない顔つきに、なんだか可笑しくなってしまう。今度はゆっくりと頬を摘んでみる。
柔らかい感触と共に、佳乃の口が更にだらしなく広がる。佳乃は少し眉をひそめた後、もう一度俺の手を弾いた。くそっ、なかなかしぶとい。
「おい、起きろって。お前まで風邪をひくつもりかよ」
今度は佳乃の鼻を摘む。形のいい鼻がふにゃりと形を変え、佳乃の呼吸を遮った。
「んー、んっ、えほっ。んにっ!」
奇妙な音と共に、佳乃は俺の手を振り解き身体を起こした。開放された佳乃の息が、勢いよく放り出される。荒い呼吸を整えつつ、佳乃はこっちを睨みつけた。
思ったよりお怒りの様子の少女に、俺は恐る恐る言葉をかける。
「お、おはようさん」
「おはよう。元気そうでなによりだよ」
佳乃は鼻頭をさすり、こちらを睨んだまま空いた手を俺の額に添えた。
「なんか、すっかり元気だわ」
「もう、薬が効いてるだけだよ。油断しないの」
仕返しと言わんばかりに、佳乃はぺしりと俺の額を叩いた。体温計を差し出した佳乃は、伸びをしてから制服のしわを伸ばした。
体温計を受け取った俺は、代わりに言葉を返す。
「こんなところでなにやってんだよ」
「こんなところって、ここは私のおうちなんだから、どこでごろんしようと勝手でしょ」
「いやいや、風邪がうつるかもしれないのに、なんでこんなところで寝てたのかって聞いたんだけど」
佳乃はゆっくりと立ち上がり、ばつが悪そうに腕を組んだ。
「帰ってきたら、いつき君まだ辛そうだったから……。その、元気になーれって頭触ってたら、ついうとうとと……」
照れ隠しのようにタオルを拾い上げ、ごにょごにょと佳乃が言う。
「なるほど。確かに気の抜け切った顔してたわ」
ついうっかりと心の声が俺の口から漏れた。俺の言葉を聞いて顔を真っ赤にした佳乃から、大声と共にタオルが放りこまれる。
「余計なお世話だよっ!」
ほんわかとした罵声と同様に可愛らしい放物線を描いたタオルが、俺を通り過ぎる。佳乃は走ることだけではなく、投げることもしっかり苦手なようだ。
狙いが外れたことでより恥ずかしさが増したのか、俯きながらタオルを拾った佳乃は、すたすたと部屋から出て行った。
「ご飯作るから、お腹空いてたらおいで」
少し身を戻し、ちょこりと扉から顔を覗かせた佳乃は、そういってリビングへと引っ込んで行った。佳乃の後を追うように、体温計が軽い音を鳴らす。身体の調子だけではなく、体温もしっかりと落ち着いていた。
俺はゆっくりと立ち上がり時計を見る。佳乃が家を出た頃から、おおよそ半日が経過していた。短すぎる夢とは反して、時間はしっかりと進んでいる。
それにしても、目を覚ました今でも夢の記憶が鮮明に残っているなんて、重ね重ね不思議な時間だった。俺は心にひっかかりを抱いたまま、佳乃が待つリビングへと足を運んだ。
「ふむふむ。要するに、神様が助けてくれーって言ってた、っていう夢を見たと」
晩御飯を箸で突きながら、佳乃が俺の話を掻い摘んで言葉を返した。
俺の食欲を気遣ってか、佳乃が整えた食卓には、消化の良さそうな物ばかりが並んでいる。俺は以前よりも口に馴染む気がする食事を胃袋に流し込み、佳乃に頷きを返した。
「まあただの夢だから、それでどうこうってわけじゃないんだけどな。昨日の夜に見たウズメも、よくよく考えたら俺の脳が生み出した幻だったのかもしれん」
「うーん……」
佳乃が俯いてうなり声を上げている間を見て、俺は残りの食事を口に運ぶ。思えば、佳乃とカフェで昼食を摂って以来、食事らしい食事をしていなかった。
あやふやになっていた現実感が、空腹と共に満たされていく。
「今日ね、たまが早退したの。いっつんの風邪をうつされた、屈辱って言いながら」
考え事が晴れたのか、佳乃が箸を置きお茶を口に含んだ。絶対に最後はわざわざ言わなくていい内容だ。そんなことを言われているこちらもそれなりに屈辱なのだから。むっとした俺に対し笑みを返し、佳乃は言葉を続ける。
「いつき君に力を返した途端、いつき君とたまが弱ってたり、様子の違う神様が出てきたり、不思議な夢を見たり。偶然じゃないのかもしれないね」
思い付きを吐き出した佳乃は再び箸を取り、食事を再開した。
佳乃の言うとおり全てに何らかの因果関係があったとて、起こった事実が変わるわけではない。ましてや、それらに俺の呪いを解くためのヒントとなる内容は一切ないのだ。まずはそこを解決していかねばなるまい。
「まだ色々と整理できないことも山ほどあるけど、一先ずは自分自身の呪いについて考えていこうと思うんだ。過去の俺は、何か言ってなかったか?」
うんうんと頷きながら、佳乃は最後のおかずを口に運ぶ。
「いつき君は頑なに自分の呪いのことは教えてくれなかったよ」
佳乃は「ご馳走様でした」と小さく付け加えた後、かちゃかちゃと食器を片付け始めた。
「頑なに? 何でだ?」
「知らない……。というか変な質問だよ。理由を知っているのはいつき君だけなんだから」
ごもっともである。俺の脳が隠蔽していた理由を他人に求めたとて、答えなんぞ出てくるわけがない。
とはいえ、記憶がなくなる前の俺自身なんて、俺からしても他人みたいなものだ。歯がゆい気持ちを解消すべく、俺は食器を洗い始めた佳乃に尋ねる。
「直接的なことじゃなくてもいいんだが、何か思いつくことはないか?」
「アバウトな質問だね」
水音にあわせて、無言の時間が流れる。自身の呪いについて隠していたということは、何かやましい事があったのか、はたまたばれると都合が悪い事があったのか。
二年も一緒に呪いを解いていた相手にまで詳細を伏せ続けた挙句、記憶をしっかりと無くしてしまっている自分自身のマヌケさに、溜息がこぼれた。
「些細なことでもいい?」
俺の目の前にコーヒーが置かれる。洗い物を済ませた佳乃が、再び俺の正面へと腰掛けた。俺は頷きを返し佳乃を見た。
「私が最初にウインクキラーの話をしたとき、いつき君は死なない運が強いって言ってたでしょ?」
「ああ。言ったな」
「記憶がなくなる前のいつき君も、同じことを言ってたの。今思えば不思議だったなぁ」
佳乃は過去を振り返るように視線を上に向け、人差し指を立てた。
そりゃそうだ。その発言の要因は、幼少期からの幸運に基づくもので、呪い云々の前から俺に根付いているものなのだから。
「なんというか、ジンクスみたいなもんなんだよ。昔からそういう運だけは良かったから、多分一貫してるんだと思う」
「昔からか……。何か関係あるかもって思ったけど、呪いとは関係ないのかもしれないね」
佳乃はそう言って指を折った後、溜息と交換にカップを口に傾けた。その後もうーんうーんと頭を捻っていた佳乃だったが、思考が行き詰ったのか、ゆっくりと机に突っ伏した。
「ごめんね。私がもう少し踏み込んで聞いていれば、もっとヒントがあったかもしれないのに」
佳乃は顔を上げ、こちらに謝罪を述べた。佳乃が謝ることなど何もないのに、少女は申し訳なさそうな顔をしている。
呪いがなくなっても、色々なものを背負い込んでしまう嫌いは治らないらしい。俺はわざとらしく笑い声を上げた。
「なんで謝るんだよ、あほか。そもそも俺がこういう事態を想定して話をしておかなかったのが悪かったんだ。佳乃は悪くねーよ」
俺は更にわざとらしく、やれやれと両手を挙げる。佳乃はうつ伏せのまま頬を膨らませた。
「あほじゃないもん。いつき君は本当に思い当たる節がないの? なんにも隠してない?」
「隠してねえよ」
「あやしーなー」
以前の俺が隠し事をしていたせいで、今の俺まで疑われる羽目になっているじゃないか。自分自身への不平不満が積もりに積もっていく。
今までどおり、呪いにまつわる願いを探すだけなのに、肝心の本人にその記憶がない。記憶を失った原因がなんなのかは知らないが、この呪いのシステムと今の俺の状況は非常に相性が悪い。
「今まで気がつかなかったけど、記憶が無くなってるってのは不便なもんだな」
今更過ぎる俺の言葉に、佳乃は更に頬を膨らませて抗議の声を上げた。
「不便なんてもんじゃないよ。それで私がどれだけ心を折られたか――」
「わ、悪かったよ」
少女の抗議の声も、最後には意気消沈に変わっていく。謝罪以外に返す言葉も見つからず、俺は少女が最後の最後まで息を吐ききるのを見守った。息を吐ききった佳乃は、ハッとしてこちらを見つめる。
「あ、責めてるわけじゃないからね。本当だよ。ほんとにほんと」
慌てた様子でぶんぶんと手を振る佳乃は、どんどん言葉を吐き出していく。
「もう、どうして私はこうなっちゃうんだろう……。ネガティブ佳乃退散ー」
佳乃はもう一度大きく息を吐いてから、再び顔を伏せた。
今までのことが少しずつ明らかになってきて、佳乃を見る目を変わったせいだろうか。最初に会ってから、いつもどこかに余裕を見せていた佳乃のことが、少しずつわかってきた気がした。
虚勢という鎧がなくなれば、この少女はこんなにも脆い。そんな記憶も、呪いにまつわる記憶として消去されてしまったらしい。
ふと、思考が何かにぶつかる。
「落ち込んでいるところ悪い。質問していいか?」
「うん」
佳乃から返事が返ってきたことを確認し、俺は思考のぶつかりを探り始める。
「俺の記憶がなくなった理由、わかるか?」
俺の言葉に、佳乃は少し間を置いてから身体を起こした。
「最後の呪いを解こうとしているときに、あの神様が出てきたの」
「ウズメが?」
「そう。いつき君と神様が二人で話をしていて、後から追いついた私に神様が言ったの。こやつの呪いに纏わる記憶を全て奪ってやったって」
呪いが最後の一つになったとき、ウズメが現れたと珠緒が言っていた。俺の記憶がなくなったのも、どうやらそこが契機のようだ。
「つまり、ウズメが俺の記憶を消したってわけだな」
「神様の言葉が正しければそうなるね。神様が姿を消した後、いつき君は本当に私のことを覚えていなかった。私だけじゃなくて、呪いに関わること全て、神様の言っていた通りになくなっていたの。でも二人がしていた会話の内容がわからないから、それに至る理由までは……」
事の顛末を話し終えた佳乃は、俺の疑問に答えられなかったことに落ち込むように眉毛を下げた。
しかしながら、理由はわからずとも経緯がわかったおかげで、俺の呪いに纏わる記憶は神様のお墨付きで消えている事がわかったわけだ。これだけでも大きな収穫ではないか。
というか、こんな情報をなぜこいつは一人で握り続けていたんだ。本当に人に頼るのが下手な奴め。
「嫌なこと思い出させたな。ありがとう」
「ううん。大丈夫」
佳乃は笑顔を作り直してそう言った。嫌な思い出まで吐露してくれた少女に、少しでも報いねばなるまい。
「でも、おかげで一つはっきりしたよ」
「何かわかったの?」
「神様の力が働いて、言葉通り呪いにまつわる記憶が消えているということは確かなわけだ。つまり、さっきの『死なない運が強い』なんていうジンクスも、今の俺が覚えている時点で呪いじゃない。これじゃ呪いに至る願いなんて、思い出せるわけがない」
自信満々に言い切る俺に対し、佳乃は首を傾ける。
「それはそうだけど」
だからなんなんだ、という言葉が聞こえてきそうなほど、佳乃の顔は傾けられていた。傾けられた顔に、俺は更に言葉の追い討ちをかけた。
「つまり、俺が今ここで頭を捻っても意味がないってことだよ」
俺の言葉を聴き終わった佳乃が、口をあんぐりと開ける。思考放棄をしたとでも思われたのだろうか。呆然と俺を見る佳乃は、ぱくぱくと口を動かし始めた。
「変な顔だな」
俺は思わず笑みと言葉を漏らした。佳乃はそこで我に返り、傾けた首を元に戻しこちらに食って掛かった。




