忘れない少女2
翌日、俺は携帯電話の振動で目を覚ました。ちかりと光る画面には、メッセージアプリが映し出されている。
『十二時に駅前集合ね。よろしく!』
メッセージの主は、同じ家にいるはずの佳乃だった。画面にはハートマークや顔文字などがふんだんに盛り込まれており、なんだかんだ言って女子高生なんだな、ということを思い知らされる。
「なんでこんなにまどろっこしいことしてんだよ」
室外にも聞こえるよう、わざと大きな声で言葉を繰り出したが、空間からは返事どころか人の気配すら返ってこない。俺は改めて携帯電話を確認する。
時刻は十時三十分。駅までは十分もかからないし、家を出るにはまだまだ早い。それなのに、室内どこを見渡しても佳乃の姿は見当たらなかった。
なるほど。先にばっちりと準備を済ませて、駅前で俺のことを待ち構えるつもりなんだな。まんまと先手を打たれた。そんな暢気な思考と共に、俺は身なりを整え始めた。
身の回りの準備を終え、一張羅のジャケットに手をかけたところで、時刻は起床から三十分が経過していた。今向かえば、集合時間より随分と早く駅前についてしまう。
「まあいいか」
誰に呟くわけでもなく、俺は言葉と共に家から飛び出した。
慣れないことはするもんじゃないなと、俺は家を出てからすぐに後悔した。
久々に手に取った整髪料が冷たい風に当てられ、なんだか気持ちが悪い。来る日のために奮発して買っていたジャケットも、ほのかに身体の自由を奪う。
佳乃がデートだなんて焚きつけるから、柄にもなく気合を入れてしまった。それだけにとどまらず、あろうことか駐車してある車の窓で身なりを直してしまう始末だ。
ここまで万全を期しているのに、反面知り合いとは出会いたくない。ここまで不平不満が出てくるのに、それでもこの感覚は不思議と心地良い。正真正銘、暢気なことに俺は浮かれている。恥ずかしながら。
そわそわとした心持ちで駅前に到着すると、佳乃らしき人物が手鏡を見ながら前髪をいじっている様子が目に入った。俺は小走りで佳乃の元へと近づき、そっとその様子を見つめた。
佳乃はこちらに気付かず、一生懸命前髪と格闘している。集合時間までまだまだ時間はあるのに、えらく気合が入っているじゃないか。
「おやお嬢さん。そんなに身なりを気にしてどうしたんですか」
少女の私生活を覗き見しているような背徳感に襲われ、俺は余裕ぶった様子で佳乃に声をかけた。佳乃は驚いた様子でこちらを見あげ、急いで手鏡を鞄へとしまった。
「もう、いるんならいるって言ってよ。恥ずかしい」
「いや、今来たんだって」
「ほんとにー?」
佳乃はぷいっとそっぽを向いて、唇を尖らせた。
少し化粧を施しているのか、普段よりも赤みがある頬がぷくりと膨れる。佳乃はすぐに何かを思い出したようにこちらを向き、にっこりと笑みを浮かべた。
「そ・れ・よ・り・もー。何か言うことない? ほれ、ほれ」
佳乃は言葉と共に、スカートのすそを拾い上げた。上目遣いが俺に突き刺さる。いくら鈍感な俺でも分かる。これは褒め言葉の恐喝だ。
「褒めろってか」
「その確認、いるかな?」
眉をひそめた佳乃は、更にその場で一回転してみせた。
袖を余らせたゆったりとしたパーカーを纏い、短いスカートから伸びる足は黒いタイツで覆われている。頭にはキャップを拵え、そこからトレードマークのポニーテールが顔を覗かせていた。
化粧を含め、普段とは違う装いをしているところを見ると、佳乃は佳乃で思った以上の気合を入れてこの日を迎えているようだ。
「似合ってるんじゃないか」
「いつきくん。親戚のおじさんみたいな感想はごめんだよ」
どうやら曖昧な表現では許してくれないようだ。
「はいはい。かわいいかわいい」
「えへへ。もっと言ってー」
眩しく笑う佳乃から、俺は思わず目を背けてしまう。
決して良い表現ではないが、今日の佳乃は想像以上に上手く出来上がっている。言い換えれば、きっと簡単にときめかされてしまう。それはいけない。こちらも負けていられない。大人の余裕という脆いプライドを盾に、俺は必死で話題を探し出す。
「というか早いな。まだ集合時間まで結構あるぞ」
「いつきくんこそ。もっとゆっくり来ても良かったのに」
「もしかして、家を出てからずっとここにいたのか?」
「まさかー。寄るところがあったから早く出ただけで、私も今来たところだよ」
言いたかった台詞を全て言われてしまった。俺に連絡を送ってきた頃には既に家を出ていたわけだから、どこかで時間を潰していたにしても、相当な時間待っていたに違いない。
家から一緒に出発していれば、こんな申し訳なさを感じずに済んだのに。
「なんでわざわざこんなところで集合なんだよ」
「んー? なんかその方がデートっぽいかなーって。新鮮味重視で計画してみました。あと、今来たところだよって、ちょっと言ってみたかったし」
はにかむ佳乃の様子を見ると、どうやら後者が本命らしい。起床の段階から、佳乃の作戦は始まっており、早くも先手を打たれていたようだ。
集合時間ぐらい前日に知らせておいてくれても良かったのに。不満そうな俺の顔を見て、佳乃は愉快そうにこちらに笑顔を向ける。
「こんなところでお喋りなんて、時間がもったいないよ。ほら、いこっ」
佳乃はポケットに忍ばせていた俺の手を引っ張り出し、自身のほうへと抱き寄せた。急な密着に、思わず身体がのけぞる。
「近けえよ」
「当たり前でしょ。デートなんだから」
俺の様子に不満そうな佳乃は、再び自身のほうに俺の腕を寄せた。甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「ふふふっ。腕を組まれたことによって、はっきりと伝わってしまう佳乃ちゃんの悩殺ボディ。それはもう、メロメロにされちゃうのは仕方ないことだけれど、観念して腕を組まれるがいいよ」
佳乃は自己に陶酔するような表情を浮かべ、俺の腕を連れながら歩き始めた。
「確かに道徳に反してそうな体型ではあるが……」
佳乃いわくの悩殺ボディは、それはそれは慎ましい破壊力だった。俺の本音に、佳乃はこれでもかという程眉間に皺を寄せる。
「――どうやら私の言葉を違う意味合いで受け取っているみたいだね。次はセクハラで警察に突き出すからね」
自分から吹っかけておいて、勝手なことを言ってくれる。はいはいと相槌を打ちながら、佳乃に連れられるまま俺も歩みを進めた。
「それで、どこ行くんだよ」
「とりあえず、お買い物かな」
駅と反対方向に向かう佳乃に連れられるがまま、俺はショッピングモールへと到着した。
「駅集合だったから、てっきり街の外に出るのかと思ってたよ」
俺の言葉に、佳乃は不思議そうな顔をこちらに向けた。
「あれ? たまから聞いてないの? 呪われていると街から出られないって」
「ああ……」
「その顔、さては忘れてたなぁ」
「いや、まあ、そうだったな」
何度も聞いていたはずなのに、すっかりと頭から抜け落ちていた。我ながら、本当に頼りない記憶力だ。
じゃあ何で駅前集合だったんだよ、という無粋な突っ込みを飲み込み、自動ドアをくぐる。
「ふーっ。やっぱり中は暖かいね」
「ここまで温度差があると眠くなるな」
「寝たら目を潰すからね」
「冗談だって」
「私のほうこそ冗談だよ」
くだらない話をしながら、俺達はうろうろとモールを眺め歩く。
目新しい雑貨に突っ込みを入れたり、洋服とにらめっこをしたり、ほとんどいつもと変わりない行動のはずなのに、佳乃はいつも以上にはしゃいでいるように見えた。
「ここ見ていい?」
「おう」
佳乃は返事と同時に俺の腕を引っ張り、服屋の中へと俺を誘う。女性用の服が並ぶ店内は、思っていた以上に落ち着かない。
「これどう? 似合ってる?」
「春っぽくていいんじゃないか」
「じゃあこっちは?」
「うーん。それだったらさっきの方がよかったな」
佳乃はふんふんと鼻歌を歌いながらファッションショーを開始した。場慣れした人間であれば、ここで気の利いた台詞のひとつやふたつすらすらと出てくるのかもしれないが、あいにく俺はそういったスキルを持ち合わせていない。それでも佳乃は依然として楽しそうである。
伊達めがねや帽子に至るまで、似合いそうなものを適当に試着した後、佳乃は目ぼしい商品を数点購入した。不思議なことに、佳乃が選んだ商品は、どれも俺の中で高評価なものばかりだった。
「本当にいいの?」
「いいんだよデートなんだから。こういうときぐらい格好つけさせてくれよ」
代わりに会計を済ませた俺に、佳乃が申し訳なさそうな顔を向けた。財布を取り出そうとした佳乃をここぞとばかりに静止したとき、微笑ましい目で店員が笑っていたのは、きっと格好つけたがっている俺の内心が恐ろしく透けていたからだろう。
そんな俺の下心を気にする様子もなく、佳乃は服が梱包された袋をニコニコと眺めた。
「そっか、デートか……。ふふっ」
「なんだよ気持ち悪い。自分でデートって言い出したんだろ?」
「いや、確かにそうなんだけど」
佳乃はもじもじと目線を泳がせた後、もう一度静かに笑った。
「なんだよ」
「ううん。なんでもない。ありがと、いつき君」
佳乃は再び俺の腕を抱え、モール内を歩き始めた。
ウインドウショッピングを始めてから一時間ほど経過したころ、佳乃の提案で昼食がてらカフェへと立ち寄ることになった。
「ここでよかったのか?」
「それ、席についてから言う?」
佳乃はくすくすと笑いながら、メニューに目を通し始めた。フードコートやら飲食店街やら、他にも候補はいくつもあったのに、佳乃は迷わずこのカフェを選んでいた。
ひょっとすると、馴染みの場所なのかもしれない。俺はそんなことを考えながら、メニューとにらめっこを続ける佳乃を眺めた。
こちらに気がついた佳乃と、ぱちりと目が合う。
「なんだね。私の顔にメニューが書いているのかね」
「いや、メニュー表一つしかないし」
目線を外した俺に向け、佳乃は右手で円を作り、その中からこちらを覗いた。
「いつきくんが食べたいもの。当ててあげる」
「普通にメニューを貸してくれればいいんだけど」
「むむむむー」
メニューを催促する俺を無視して、佳乃は眉間に皺を寄せて心を読むような動きを続ける。俺が静かにメニューに手を伸ばしたと同時に、佳乃の眉間の皺が晴れた。
「すいませーん」
佳乃は店員を呼び、二人分の注文を済ませた。呆然とその様子を眺めていた俺は、しばしの沈黙の後、はっと我に返る。
「えっ、俺の分も注文したのか?」
「私が一人であんな量食べられるわけないよ」
あまりに堂々とした佳乃の態度に、もう何も言えなくなってしまった。
しかし、カフェに来ることなんてめったにないし、ある意味選んでもらって正解だったのかもしれない。
少しばかり談笑を続けていると、綺麗に盛り付けられたプレートが二つ運ばれてくる。食事から流れる香りが嗅覚を刺激し、すっかりと影を潜めていた食欲が姿を現した。
「いただきまーす」
「いただきます」
佳乃の号令にあわせて、俺も手を合わせ小さく言葉を吐き出す。佳乃チョイスの料理は、これもまた不思議なことに、とても好みの味付けだった。
「う、旨いな」
「でっしょー。佳乃ちゃんの審美眼に偽りなしなんだよ」
佳乃は得意げに笑みを浮かべながら、料理を口に運んでいく。ある意味正解なんてものじゃなく、佳乃に任せて大正解だった。
黙々と料理を平らげていると、佳乃がじっとこちらを見つめる視線が刺さった。厳密に言うと、俺の目の前のプレートに、佳乃の視線が注がれていた。
「なんだよ。欲しいのか?」
「うん。おいしそうだなーと思って」
「食っていいぞ」
「ふふっ。ありがと」
佳乃はそういって、大きく口を開きこちらに向けた。餌を待つ鯉のような顔つきに、思わず俺は笑ってしまう。
「なにやってんだよ。俺ごと喰うつもりか」
「違うよ! どう見てもあーんでしょ!」
佳乃は口を閉じて頬を膨らませた後、もう一度口を開いた。こんな人の目もあるところで、代わりに口の中に食べ物を放り込めというのか。
「さすがにそれは恥ずかしいわ」
冷静なツッコミを入れた俺に対し、佳乃はもう一度頬を膨らませる。
「もう。口の中からからになっちゃう。こんなに何回も口の中見せるなんて、こっちも恥ずかしいんだからね」
そういいながらも、佳乃は再度口の中をこちらに見せつける。どうやら佳乃は、デートらしい行動を譲るつもりがないらしい。
渋り続ける方が恥ずかしくなってしまい、俺はやむなく佳乃の口に料理を運んだ。食べ物を受け取った佳乃は、うんうんと満足げに咀嚼を始めた。
渋っていたがいざやってみると、小動物に餌をやっているような気分になり、楽しさが芽生えてしまう。複雑な心境を胸に、残りの料理に手を着け始めると、今度は佳乃が料理をこちらに向けた。
「いつき君にもあーんしてあげる」
フォークに突き刺さった料理と目が合った。やられたと思い、佳乃を見る。料理越しの佳乃は、顔を赤くして必死に笑顔を作っていた。なんだこの顔は。
「なんだよ。照れるんならやるんじゃないよ」
「て、照れてねーですし」
どう見ても照れていない人間の反応ではない。俺を照れさせようとしたであろう佳乃は、なぜか勝手に照れている。
落ち着かない佳乃の様子で、俺の余裕が帰ってきた。このチャンスを逃してなるものか。俺はフォークに口を運んだ。
「おお、旨い旨い。こっちもいいな」
「で、でしょー!」
俺が食べたことを確認した佳乃は、いそいそと自身の食事へと戻った。
「なんだ。もっと落ち着いて食べればいいのに。もう一回してやろうか?」
女子高校生相手にマウントを取ろうとしている恥ずかしい自分に目を瞑り、俺はニヤニヤと佳乃を眺めた。
佳乃は一度こちらを睨んだ後、諦めたように視線を落とし、ゆっくりと食事を再開する。赤く染まる耳が、佳乃の感情を表していた。
「お、おいしいね……」
佳乃の思いも寄らぬしおらしい様子に、ぐらりと感情が揺れる。てっきりすごい剣幕で言い返してくると思ったが、佳乃はぼそりと呟いて食事を続けている。
佳乃が視線を上げないことをいいことに、俺は少女の前髪をじっと見つめた。
懸命に手入れしていた前髪越しに、変わらず赤い顔が見える。こちらを確認するように少し視線を上げた少女の瞳は、俺と目が合った途端すぐに下に落ちていく。前髪が再び少女の瞳を隠す。
「やっぱり照れてるじゃないか」
「そうだよ、照れてるよ。恥ずかしいんだよ。だからこっち見ないでっ」
ようやく白状した佳乃に満足し、俺は視線を自身の食事へと戻した。
食事を終えた俺達の目の前に、コーヒーとミックスジュースが並べられる。空調が効いている室内には、季節感を忘れるほどぬるい空気が流れていた。
アイスコーヒーにすればよかったという後悔を胸に、俺はカップを傾ける。
「うんうん。やっぱりここにして正解だったよ。両方おいしかったね」
「そうだな」
すっかりと余裕を取り戻した佳乃が、満足げにミックスジュースを口に運んだ。
食事もさることながら、照れる女子高生というおいしいものまで見られた、という言葉は口が裂けてもいえないが、佳乃が選んだこのカフェは俺としても大当たりだった。
「いつき君はコーヒーが好きだね」
「好きと言うか、落ち着くんだよ」
ほえーと佳乃から声が漏れた。
「そういえば、佳乃はコーヒーを飲まないよな」
「んー? 私はね、飲まないんじゃなくて飲めないの。苦くて苦くて」
そういって佳乃は、自身のグラスをこちらに見せる。
「甘い方がおいしいもん」
確かに幼い頃を思い返せば、俺も『大人は何でこんなに苦いものを好んで飲んでいるんだ』と不思議に思っていた気がする。それが今は、『落ち着くんだよ』とまで豪語しているのだから、味覚の変化というのは不思議なものだ。ふと、疑問が頭をよぎった。
「でも家にコーヒーを置いてるじゃないか。というか、最初からあったよな」
俺が佳乃の家で初めて迎えた朝、そういえば今のように暢気にコーヒーをすすっていた気がする。コーヒーが飲めない佳乃という情報が頭に入ったことで、些細な疑問がふわりと浮かんできた。
「お客さん用だよー。特に深い意味なんてないよ」
よほど他愛のない疑問だったのか、さらりと流されてしまった。過ぎ去ってしまえば、なぜこんなことを疑問に思ったのかもわからなくなってしまった。気を取り直すように、俺は立ち上がり会計を済ませた。




