通わない童女14
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「はて、逃げられてしまったか。ワシも眠っている間に随分と鈍ってしまったようじゃな」
講義室に残されたウズメは、自分の手を見つめながら首を傾げる。それと同時に、かちゃりと扉の鍵が閉まる音が講義室内に響いた。
「それにしても……まるでこうなることを予想していたような周到さじゃのう。ワシの注意を引くために携帯を鳴らしたり、あやつが外に出た途端鍵が閉まったり。おかしいのう。あやつの頭にも、こやつの頭の中にも、そんな策は一つも入っておらんかったのに」
ウズメは自身の頭を指差した。不思議そうに更に首を傾げた後、言葉を続ける。
「この策を考えたのは貴様かの?」
指を向けられた蒔枝は、きょろきょろ辺りを見渡した。ウズメが差す指の先には、呆然と机を眺める楓と彼女しかいない。他に該当しそうな人物がいないことを確認した後、彼女はキョトンと目を丸くする。
そんな蒔枝に向けて、ウズメは少しずつ歩みを進める。
「ちょ、ちょっとどういうことなのー? 珠緒、どうしちゃったの? どうしてそんなに怖い顔をしているの?」
「なんじゃ、貴様も何もしらんのか」
わたわたと言葉を述べながら講義室の端に少しずつ後ずさる蒔枝にかまうことなく、ウズメは歩みを進める。
「ひゃん」
逃げ場を失い壁にぶつかった蒔枝が、悲鳴に近い嬌声をあげた。程なくして、壁とウズメにはさまれる状態で力なくその場に座り込んだ。
「そう逃げるでない」
「な、なんなのー。珠緒、喋り方も変だよぅ。おばあちゃんみたいになってるよ」
「ははっ。おばあちゃんとは酷い言われようじゃ。古風で由緒正しいと言ってもらえるかのう」
「意味わかんないー! 悪霊退散ー!」
蒔枝は座り込んだ状態のまま、ぶんぶんと手を振った。そんな様子を、ウズメは愉快そうに見つめている。
「そうそう。そういう恐ろしいものに出会ったような反応が欲しかったのじゃ。貴様なかなかいい反応をするではないか」
ある程度反応を楽しんだのか、ウズメはくるりと踵を返して出口の方へと向かった。
「本来であれば貴様とももっと遊んでやりたいのじゃが、あいにく今は時間がないものでな。今すぐ小娘のところに行かねばならんのじゃ」
その言葉を聞いた蒔枝は、振っていた手の動きを止め、すっと立ち上がった。
「小娘……? もしかして、今から佳乃のところに行こうとしているの?」
「そうじゃ。それがなにか?」
「あの子は今、病院で眠っているの。何の用なのかな?」
「それはもちろん、もっと深い眠りに入ってもらうんじゃよ」
ウズメは再び蒔枝の方を向き、けたけたと笑い始める。それを見た蒔枝は力強く走り出し、ウズメを追い越した後、出口の前へと立ちふさがった。
「あなたが珠緒の姿をした何なのかはわからないけれど、私の大事な患者に手を出そうとしていることはわかった。ここは絶対に通さないんだから」
蒔枝は強く拳を握り、ウズメを睨みつけた。品定めするような視線が蒔枝に突き刺さる。
沈黙の中、五秒ほど睨み合いが続いた後、先に声を漏らしたのはけしかけた蒔枝の方だった。
「ふっ……ふふっ。ははは」
「貴様、何がおかしいのじゃ」
先ほどまでおどおどとした様子だった蒔枝の大胆な振る舞いに、ウズメは警戒心を強める。
「いやいや、もういいだろ」
「何を言っておるんじゃ」
「初めて見たけど、なんだかこれはこれで面白いな。珠緒の姿で別人が喋ってる」
蒔枝の様子の変化に、ウズメは変わらず怪訝な瞳を向け続けた。それに気づいた蒔枝わざとらしく笑みを返す。
「ああ、これは失敬。神様も大したことないなって、ちょっとおかしくなって」
先ほどから立場が逆転したかのように、今度はけたけたと蒔枝が笑い始めた。
「これは驚いた。なんじゃ。やはり一連の策は貴様の仕業かの。これはまんまと騙されたわい。なかなか生意気な狐じゃのう」
ウズメは小さく手を挙げた後、すばやくその手を振り下ろし空を切った。
それと同時に、蒔枝の身体が目に見えない何かに抑え込まれるように地面へと叩きつけられる。
「っ!」
肩から地面へと落ちた蒔枝は、声にならない声を上げてその場にうずくまった。
「ず、随分と乱暴なことしてくれるじゃないか」
「これはこれは。この力を見て驚きもせんとは、随分と肝が据わっておるのう。まぁこれでも手加減をした方じゃ。見ての通り、ワシに物理的な遮りなど無意味。痛い目に遭いとうないじゃろう。しばらく大人しくしておるがよい」
ウズメはくすりと笑いながらうずくまる蒔枝を見下した。しかし、蒔枝の顔つきを見て再び怪訝な表情に戻る。
「なにが可笑しいのじゃ」
打ち付けた肩を抑えながらも、蒔枝はくつくつと笑っていた。
「いいや、なんでもない」
「痛みと絶望に震えておるにしては、少し目に光がありすぎるのう」
「私の目に? ありがたいお言葉だな」
ウズメは横たわる蒔枝の腰元を踏みつける。足蹴にされてもなお、蒔枝はにやりと笑みを浮かべている。
それを見て、ウズメは何かに気付いたように息を吐いた。
「なるほど。さては貴様、時間を稼いでおるのか。つくづく面白い奴じゃ」
病院までどのような移動手段を使っても二十分はかかる。青年と童女をそこに向かわせ、妨害の前に呪いを解くつもりだ。これはその間を稼ぐための手段に過ぎない。そう悟ったウズメは、蒔枝から足を離し、出口へと手をやった。
「さすがは神様。お見通しか」
「なかなか楽しめたぞ。もう策もなかろう」
「ご明察。これはただの悪あがき。私に策はないよ……最初から」
蒔枝は肩を抑えながら仰向けになった。
「私には、な」
蒔枝がそう呟いた瞬間、講義室内の照明が全て落ちた。窓の用意されていない講義室内には、非常灯のみが鈍く光る。
「なんじゃ?」
暗闇の中、うっすらと言葉を漏らしたウズメは、突如首元を強い力で引っ張られ体勢を崩した。
慌てて体勢を整えるウズメの手元から、かしゃりという音が響き、再び講義室に光が戻った。
少し後退したウズメの後ろには、先ほどまでその場になかった影が佇んでいた。
「おせえよ」
「ごめんなさい。なんだか意外と蒔枝さんが時間を稼いでくれるものだから油断しちゃいました」
ぐったりと立ち上がった蒔枝は、ウズメの後ろの影と会話を始める。間に挟まれたウズメは、自身の後ろの影を確認した。
「貴様は……」
ウズメに目を向けられた影は、ニッコリと微笑みを返した。
「ご機嫌麗しゅう神様。私は都塚稔莉と申します。以後お見知りおきを」
暗闇から姿を現したのは、その場にいるはずのない都塚稔莉であった。事もなげにまったりと自己紹介を終えた彼女は、わざとらしく自身の手元を上げた。
ウズメは自身の手元を確認する。ウズメの右手には、鋭く光る手錠が結ばれていた。
手錠の先には、にこにこ佇む稔莉の左手がつながれている。自由を制限されたウズメは、大きく溜息を吐いた。
「貴様は確か――」
「覚えていませんか? あなたの呪いを受けていたうちの一人ですよ」
「もちろん覚えておるよ。もう貴様に呪いは残っておらんじゃろう。何をしに来たのじゃ」
ウズメは稔莉の正面を向き、めんどくさそうに息を吐いた。
「そもそもなんじゃ。どこから現れたのじゃ」
「最初からずっとこの部屋にいましたよ。神様とお近づきになりたかったので、隠れてチャンスをうかがっていたんです」
稔莉は左手を軽くあげた。それに呼応して、ウズメの右手も静かに上がる。
「せっかくだから教えといてやるよ。ここまでの流れを考えたのは、全部そこの性悪だ」
ウズメの背後から聞こえる蒔枝の声を聞いて、稔莉は更に笑みを強めた。
「酷い言われようです。傷つきますよ」
「実際傷がついてるのは私の方だろ」
「まあまあ、そう言わずに」
自身を間に挟んで交わされる暢気な会話に、ウズメは目を細めた。先ほどまであった余裕は薄れ、少しずつ顔に苛立ちが見られ始めた。
「不愉快じゃのう。ワシは急いでおると言っておろうに」
「そんなこと言わずに、もうちょっと付き合ってくださいな」
「はぁ……」
稔莉の言葉を聞いて、ウズメは小さく息を吐く。そしてゆっくりと左手を上げ、指先を稔莉の額へと当てた。
「相手にしておれん。黙って横たわっておるがよい」
指先に向けて放たれたウズメの吐息を受け、稔莉がぐらりとよろめいた。
「力も際限ないわけではないのじゃ。余計な手を煩わせよって」
その場で膝をついた稔莉は、繋がれている左手の力のみで体勢を保っている状態になる。
「物理的拘束など無意味というておろうに」
ウズメが手錠に手をかざすと、かしゃりと枷が手から離れ落ちた。それにあわせ、稔莉の左手も力なく地に落ちた。
ウズメは枷の外れた手を労わるように撫で始めた。
「さて、どうする? 貴様もまだやるかの?」
再び出口の方を向いたウズメは、ぽきりと静かに首を鳴らして蒔枝を睨みつけた。
睨みを受けた蒔枝は、降参と言わんばかりに両手を挙げて出口から距離をとる。
出口へ一歩歩みを進めたウズメは、突如として視界が上下反転するのを感じ、小さく声を漏らした。
どさりという鈍い音ともに、ウズメの身体が地面へと投げ出される。
そして次の瞬間に視界に映ったのは、先ほど倒れこんだはずの稔莉の足先だった。




