通わない童女12
困惑する俺達を気にかける様子もなく、蒔枝さんの話は続く。
「実は、ここにくるまでに彼女の周りの人間に色々と話を聞いてきたんだ」
蒔枝さんは鞄からノートを取り出し、少し楓に目を向けてからばらぱらとページをめくった。
「そしたらさ、みんな楓ちゃんは今のままで良いって言っていたんだよ」
蒔枝さんの言葉に、きょろきょろしていた柚子の視線がぱちりと固定された。
「そ、そんなことない! みんな元に戻って欲しいって思ってるもん」
一呼吸置き言葉の意味を理解した柚子が、立ち上がって蒔枝さんに食ってかかる。
蒔枝さんは薄く息を吐いた後、ノートに書かれた文字に視線を移した。
「まずは母親。うるさかった楓が静かになって正直すっきりしている。父親、粗暴なのはいつかは治さないといけないと思っていたから安心した。学校の先生、授業の妨げになる生徒が減って助かっている」
蒔枝さんは、それぞれの台詞調に、ノートに書かれているであろう言葉を読み上げていく。楓のことについて話していた彼女の母の顔が頭に浮かんだ。
並んだ言葉は、今まで聞き取りをしていた中で聞いたこともない新たな情報で、少なくとも元に戻って欲しいと思っている俺達にとっては、聞きたくもない劇薬だった。
「ちょ、ちょっと、なにもそこまで……」
俺の言葉は、人差し指を唇に当てた蒔枝さんの鋭い眼光によって封じられる。あくまで黙っていろということか。
それにしても、こんなのいくらなんでも酷すぎる。何も語らなくなった童女に対し、性質を否定するような言葉を吐き続けるなんて。
「続き。友達1、いちいちうるさかったから今のままで良い。友達2、戻らなくていいに決まっている。友達3、耳障りな声がしなくなって嬉しい。友達4……」
蒔枝さんが吐き続ける言葉に、柚子はついに耳を塞いで首を横に振った。
「もういい! 聞きたくない! そんなの絶対に嘘だよ!」
「嘘じゃない。これは本当の話だよ」
蒔枝さんは縮こまる童女の耳元に顔を寄せ、薄く笑みを浮かべながら囁いた。
「みーんな元に戻って欲しくないって言っているんだよ。家族も、仲の良い友達も、君以外は全員そう思っている。これでもまだ、元に戻って欲しいって思う?」
蒔枝さんの手がそっと柚子の頬に触れる。それを契機に、立ち上がっていた柚子はぺたりと椅子に座り込んだ。
「君にも心当たりがあるんじゃないかな? いつも自分の代わりに意見を言って、何も言わせてくれない。伴奏だって、本当はやりたくなかったのに」
「違う……」
「邪魔で、煩わしくて、目障りで、あんな子の感情なんてなくなってしまえばいい。一度も思ったことない?」
「違う……」
「この数ヶ月は楽しかった? 過ごしやすかった? そうだよな、だって邪魔なやつが喋らなくなったんだから」
「違うもん!」
立ち上がり走り去ろうとする柚子の肩を、蒔枝さんがしっかりと掴んだ。
「違う? 何が違うの? 元に戻らなくていいと思っているというみんなの意見? 君自身の意見が、今私が言ったこととは違う? ねえ。教えて」
あくまで冷静に、蒔枝さんは童女を椅子に座らせた。氷のようにぴたりと張り付く蒔枝さんの言葉に、柚子は再び力なく椅子にへたりこんだ。
言葉もなく、ただただ下を見つめ始めた少女の様子を、もう見ているのも辛い気持ちになる。
「認めて楽になりなさい。もう疲れたでしょう? 君も本当は、楓ちゃんが静かになればいいって、そう思っていたんだ」
悪魔の囁きのような言葉が、柚子を包み込む。
珠緒が蒔枝さんに言っていた「悪態をついてほしい」という言葉の意味を理解して、俺は珠緒のほうを見た。
意志の弱い本人の感情を無理に認めさせる策を、お前は考案していたのか。憤りにも近い俺の気持ちを知ってか知らずか、珠緒は笑顔で手を振り答える。
確かにこんな策を事前に伝えられていれば、もっと他に策はないのかと騒ぎ立てていただろう。意地が悪すぎる。蒔枝さんも蒔枝さんだ。こんな役を平気で受け入れるなんて。
「柚子は……」
俺が疑念に耽っていると、柚子が声を振り絞って話を始めた。
「楓ちゃんに、元に戻ってほしくないなんて、思ったことない」
弱弱しくも、柚子は蒔枝さんの言葉を否定した。この状況でも抗おうとする童女のガッツに、俺は心の中で旗を振った。
「みんな元に戻って欲しくないって思っているけれど、それでも?」
「……」
蒔枝さんの言葉に、柚子の口元が再び止まる。そんな童女に、蒔枝さんは追い討ちをかけた。
「おてんばでうるさい、みんなそう思っている。いいじゃない今のままで。誰も損をしない。このままの方がまともな人間になれると私も思うよ」
「さすがに言い過ぎでしょう。そんなこと言って何になるんですか」
痛ましい様子を見ていられなくなった俺は、蒔枝さんの発言に言葉を挟む。蒔枝さんは笑みを浮かべた後、指をぽきりと鳴らした。
「いちいちうるさいな。もう少し黙っていた方がまともな人間になれるんじゃないか。ほら、そこのお人形さんみたいに、だんまりしているほうがかわいらしい」
蒔枝さんは楓の指差し、口角をさらに上げる。
「きっとうるさくて、なんにでも口を出して、さぞ邪魔な存在だったんだろうな。みんなが口をそろえて厄介者だっていうぐらいなんだから。静かになって、良かったね」
最後の言葉を聞き終わって、血の気が全身から引いていく感覚を味わう。この人は異常だ。会ったこともない過去の楓に対して、ここまで非情な言葉を投げつけるなんて。
「頭おかしいんじゃないですか?」
「ありがとう。よく言われる」
思わず出てきた俺の言葉も、蒔枝さんはさらりとかわしていく。
「でもそうだな。一番おかしいのは、そこのお人形ちゃん」
くすくすと笑う蒔枝さんの様子をみて、更に血の気が引いていく。それと共に徐々に静寂に包まれていく講義室。静寂を切り裂いたのは、意外にも柚子が机を叩く音だった。
「楓ちゃんのこと、悪く言わないで!」
あまりに唐突な殴打の音に、楓を除く全員が柚子の方に目を向けた。けらけらと笑っていた蒔枝さんも、一瞬で真面目な顔に戻り柚子を見ている。
「なに? 急に」
蒔枝さんの視線と言葉に、勢いづいていた柚子の言葉が詰まる。もう少し、あと少しのところで、柚子の身体が縮こまっていく。
「ゆずゆず! 負けんな! 言ってやれ!」
講義室中に響き渡る声に、縮こまっていた柚子の身体に緊張が戻った。声の主は、今の今までだんまりを決めていた珠緒だった。
「自信をもって。大丈夫、ゆずゆずがかえかえのことを大好きなこと、私はちゃんと知ってるから!」
声に呼応するように、柚子は強く拳を握った。珠緒の声が届き、柚子の身体に力が戻っていく。
「そこのお人形は、どうせろくでもない子だったんでしょう? 違う?」
ゆったりと間を空けて、改めて確認するように、蒔枝さんが言葉を放った。
柚子は今度こそ怯む様子なく、蒔枝さんをじっと見つめた。
「違うもん。楓ちゃんはたくさん喋ってくれて、賑やかで、何でも出来ちゃうの。とってもきらきらしてて、可愛くて、かっこよくて、優しくて……とにかくすごいんだもん!」
柚子の口から煌びやかな言葉が並んでいく。それでもまだまだ柚子の思いは止まるところを知らなかった。
「柚子は楓ちゃんに元に戻って欲しい! また、かっこいい楓ちゃんが見たいの! 柚子が大好きな楓ちゃんのこと、嫌な子って言わないで!」
大声で言い切った後も思いが収まりきらないのか、柚子は肩で息をしている。
その様子を、先ほどよりも幾分か柔らかい表情で蒔枝さんが見つめていた。
「本当に一度も思ったことはない? 静かになって欲しいって」
「それは……。一度はあるかもしれないよぅ。でも! それはそんなことを思っちゃう柚子がだめだったの! だから楓ちゃんは悪くないもん!」
「ふふっ、そうか」
今度は完全に噴出したように笑った蒔枝さんは、血気多感に息をしている柚子の頭を撫でた。
「そういうことは、ちゃんと本人に言ってあげなきゃ」
「えっ」
突如として柔らかな表情になった蒔枝さんに驚き、柚子が声を漏らす。
「思っちゃ駄目な気持ちなんてあるもんか。大好きって気持ちも、こういうところが嫌だって気持ちも、全部大切なものなんだよ。相手がどんなに大好きな人でも、ここは嫌だなって思うところがあって当然なんだ」
「そうなの……?」
「そうだよ」
「でも……柚子、そんなこと思いたくない。嫌なこと思っちゃう自分が嫌い」
呟きのような柚子の言葉で、俺の中のピースがぱちりとはまった。まさに交換日記に書いてあった文言通りのことを、童女は今話している。
柚子が抱えていた想いとは、楓に対して「勝手なことをしないで」と言ってしまった自分自身の感情に対してのものだったんだろう。
童女はおそらく、楓に黙っていて欲しいと願っていたわけではなく、自分自身が楓に対するマイナスの感情を抱かないようになりたいと願った。楓が喋らなくなったことにより、歪に願いが成就したというわけか。
そして彼女は今、その感情とようやく向き合おうとしている。はぐらかさず、逃げずに、真正面から。
「思ってしまったものは、どうしようもない。でもその気持ちをなかったことにしちゃいけないんだよ。嫌な感情から逃げちゃいけない」
最初からその言葉を用意していたかのように、蒔枝さんは柚子に言葉をかける。珠緒が用意した脚本に対して、俺は大きな勘違いをしていたのかもしれない。
「ちゃんと胸に手を当てて、良いことも悪いことも、自分が本当に伝えたいことをしっかり本人に伝えてごらん。そしたらきっと、楓ちゃんも元に戻ってくれるよ」
蒔枝さんは撫でていた手を柚子の肩に置き、楓の方を向かせた。
意を決したように、柚子が虚空を見つめる楓の顔を自身のほうへと向かせた。視線と視線がぶつかる。
「楓ちゃん……ごめんね。柚子ね、勝手なことしないでって酷いこと言っちゃったから、ずっとごめんねって言いたかったの。でもね、柚子も楓ちゃんみたいにきらきらしたかった。ピアノ弾けるよって、自分でみんなに自慢したかったの。こんなこと思っちゃうわがまま柚子だけど、楓ちゃんは友達でいてくれる? 柚子はね、楓ちゃんのことが大好き。嫌だなーって思うこともあるけど、それよりももっとたくさん楓ちゃんが大好きなの! だから、お願い。元に戻ってよぅ……」
童女の呟きが講義室に漂う。楓は変わらず柚子の方を見つめ続けていた。
他人のことならしっかりと意見できる、珠緒は柚子のことをそう評していた。
最初から珠緒の作戦は、強引に感情を認めさせるわけではなく、自分の気持ちと向き合わせて壁を超えさせてやろうというものだったらしい。蒔枝さんもそのことをしっかりと理解した上で言葉をかけていたようだ。
半ばで余計な口出しをしてしまったという申し訳なさから、俺は俯きがちに蒔枝さんをみる。悲哀を孕んだ目に気がついた蒔枝さんが、ふんと鼻を鳴らした。
なにが言葉が飛んでくるかと思ったが、予想に反して蒔枝さんは柚子の方に向き直った。




