通わない童女5
「おう、こんなところにいたのか」
風は先ほどの教諭により教室の扉が開かれたことによって生じたものだった。
教室に入ってきた彼は、蓄えた髭をさすりながら、珠緒と黒板を交互に見て顔を赤くした。
「神立、お前ってやつは本当に……」
あははははと笑いながら、珠緒は自身が描いたキャラクターをいそいそと消し始める。
「まさか見つかるとは思わなかったよ先生。なにか用?」
「何か用? じゃない。自分の教室に来て何が悪いんだ」
「まあまあ落ち着いて、ね?」
わなわなと震える教師に向かい、珠緒は全力の愛嬌を向けた。本気なのかふざけているのか分からないその振る舞いに、教師も棘が抜かれたのか、やれやれと頭を掻いた。
「まあいい。それよりだ。思い出したことがあったから言いに来たんだが、聞くか? 聞かないか?」
「やーん先生ってばいじわるー。聞くにきまってるじゃん」
完全にふざけている様子の珠緒に対し、馴染みのある教諭からすればこれが珠緒の平常運行だったのか、彼は気にする様子もなく話を始めた。
「十一月二日。合唱コンクールの伴奏決めをしてな。結局栄柚子という女の子がすることになったんだが、最初にその案を出したのが柏村だった。最終的に栄がしぶしぶやると言って話合いは終わったんだが、いつも一緒に帰っていた二人が、その日だけは一言も口を聞かず、一緒に帰っていなかったんだよ」
教師の言葉を聞き、もうすっかり関係ないと思い始めていた写真にもう一度目を通す。
栄柚子がこんな複雑な表情をしている理由は、どうやら友人の変貌に対するリアクションだけではないようだ。
「あの二人が? 何かの間違いじゃない? あんなに仲良しなのに」
「なんだ栄とも知り合いなのか。仲がいいのは俺も把握してる。だから不思議に思ったんだよ。俺が担任を持ってから、初めての出来事だったからな」
そういって教諭は俺たちが眺めていた写真を指差した。
「気がつけばまたいつも通り二人で帰っていたから、すっかり解決したんだと思っていたらその写真だ」
心当たりがないと言っていたわりに、次々と飛び出してくる近況の説明に、人間の記憶の当てにならなさを痛感した。
こうなれば、柚子に対してももう少し詳しく話を聞かなければいけない。
「とまあ、思い出したのはこのぐらいだ。ほら、施錠するからとっとと出て行け」
思い出したことを吐き出し終わった教諭は、考察の時間も用意せずすぐさま俺達を教室から追いやった。
「ゆずゆずとかえかえが……」
追い出された教室から校門へと向かう間も、何かを閃くのを待つように珠緒は思案に耽っていた。
その状態でも躓くことなく器用に歩く珠緒の巫女力に感心しながら、俺は言葉を投げる。
「あの二人は結構な仲良しさんだったんだな」
「うん」
「仲直りしてたなら、何で写真の柚子ちゃんはあんな顔をしていたんだろうな」
「うーん」
「もうちょっと詳しく話をきかないといけないな」
「うん」
投げかけた言葉に対し、二音の応用のみが返ってきた事で俺の心が折れた。どうやら思案の邪魔をしない方がいいようだ。やむなく俺も、感情を失ったおてんば少女に思いをはせる。
もし少女が感情を失った理由が呪いにあったとしたら、少女は何を願っていたのだろうか。
『私は私が大嫌い』と綴られていた日記が指し示す日には、合唱コンクールの伴奏決めがあって、楓の指名で柚子に白羽の矢が立った。写真を見るに、流れのまま柚子が伴奏をしていたことは間違いなさそうだ。
そのことに対していざこざがあったとすれば、楓が書いていた『嫌なこと』というのはそのいざこざなのではないだろうか。仮説が頭をめぐる。
「楓ちゃんってさ、大人しくなりたいとか言ってたことあるか?」
思いついた仮説を立証するため、俺は珠緒にヒントを求める。
「聞いたことないけど、なんで?」
「いや、例えばなんだけどさ、楓ちゃんが呪われていて、大人しくなりたいっていう願いの結果が今に至るなら、案外辻褄が合うんじゃないかなって」
珠緒から狙い通りの答えは返ってこなかったが、とりあえず組み立てた仮説をぶつけてみる。
楓が普段から賑やかな童女だったことを想像すれば、きっと大人しそうな柚子とそりが合わなかったこともあったはずだ。
その際たる出来事が伴奏決めで起こったことにより、感情を押し殺したいという願いが生まれ、呪いになった。案外良い仮説ではないだろうか。
「うーん……悪くはないね」
俺の仮説を聞いた珠緒は、少し考え込んだ後そう言った。悪くはない、ということは、どうやら俺の仮説は良いわけでもないようだ。
「でもさ、最近は普通に一緒に帰ってるって先生は言ってたじゃん。それほど大きな心持ちになるほど仲違いをした後、しれっと今までどおりの関係に戻れるのかな? ゆずゆずだって、それだけ遺恨が残る状態で相手の感情がなくなったら、さすがに覚えてると思うんだよ。だから諸々偶然なんじゃないかな、とか私は思っているけれど……」
珠緒は疑問と反証を吐き出した後、こほんと一つ咳払いをした。
「失礼。これだけ言ったけど、試してみる価値はあると思うよ」
珠緒の言うとおり、まだまだ落ちない部分は多くあるし、確証に至るまでの証拠は出揃っていない。結局のところ、聞き込みを続けなければいけないことに変わりはない。
「あまり冴えた閃きじゃ無かったな」
「それでも何もないよりはマシだよ」
「珠緒も何か考えてたんじゃないのか」
「うーん。私のはいいや。とりあえず十一月二日、というより合唱コンクールにまつわることについて、ゆずゆずに聞いてみようか」
珠緒は熱心に考え込んでいた内容を自身の頭にしまいこみ、そそくさと歩みを進めた。
珠緒の後を追い歩みを進めると、なじみのある神社へと到着した。到着してまもなく、俺達の到着を待っていたかのように柚子が顔を覗かせる。
「ごめんね、待った?」
「ううん。今ついたところだよ」
ランドセルを背負いとことこと柚子はこちらへ近づいてくる。学校からそのまま来た様子の柚子は、寒さで頬を赤くしており、どう見ても今ついたところという様子ではなかった。
小さいながらにそういう気を利かせた台詞を吐けるのかと感心してしまう。
「今小学校に行ってきたんだけど、相変わらずゴリちゃんはおっかないよね。すぐ怒るんだもん」
「えー先生は優しいよー。たまお姉ちゃんが悪いことしたんじゃないの?」
「私が悪いことするわけないでしょー」
珠緒と柚子は、先ほど情報をくれた先生の話をしながらくすくすと笑いあっている。あの先生はゴリちゃんと呼ばれているのか。俺より二十歳程年上であろう教師に対し、容赦のないあだ名をつけている珠緒のほうがよっぽどおっかない。
「学校に行って何かわかった?」
ひとしきり話を終えた後、柚子が珠緒に尋ねる。
「うーん。懐かしいなぁ、ぐらいのことしかわからなかったよ」
「そっかぁ」
珠緒の答えに、柚子は諦めにも安堵にも近い声を漏らした。間を空けず、珠緒が言葉を切り込む。
「十一月二日に何があったか、ゆずゆずは本当に覚えていないんだよね?」
「覚えてないよぅ」
「先生に聞いたらね、その日には合唱コンクールの伴奏決めがあったんだって」
合唱コンクールという言葉に、柚子がピクリと身体を揺らす。
「そのことは何か覚えてない?」
珠緒の質問に対し、童女は下を向いて何かを考え始めた。どうやら柚子は質問に答えることを得意としていないようだ。このままでは沈黙だけで一日が終わってしまう。
「柚子ちゃんがピアノを弾いたらしいね。すごいね、ピアノ弾けるんだ」
目の前の童女が怯まぬよう、俺はなるべく優しく声をかける。
「いっつん甘いよ。弾けるなんてもんじゃなくて、ゆずゆずはめちゃくちゃピアノが上手なんだよ」
少しでも話がしやすい環境を作ろうと放った俺の言葉は、真横に立つ珠緒に遮られた。お前には聞いていない、という突込みが口から漏れそうになったが、お前という言葉で突かれるこめかみのことを考えて俺はぐっと言葉を飲んだ。
「そ、そうなんだ」
ちらりと柚子のほうを見ると、本人は本人でまんざらでもない様子ではにかんでいる。思った通りではないが、少し空気は緩んだようだ。
「ほんのちょっぴり習ってたから」
「それで伴奏に選ばれたんだね。当日は上手くいった?」
「うん。私達のクラスが一番よかったって、みんな言ってた」
こちらを見上げながら、自慢げに柚子が語る。この調子で突いてみよう。
「伴奏はどうやって決まったの? じゃんけん?」
「ううん。楓ちゃんが」
「楓ちゃんが?」
「やったほうがいいよって」
調子よく返答していた少女の言葉から早速語気が失われる。語気同様に、先ほどまでこちらを見上げていた視線が足元へと降りて行った。
「その時何かあったの?」
最後の一押しと思い質問を投げかけたが、柚子の方から答えが返ってくることはなかった。女子小学生をいじめているような気分になり、俺の口からも言葉が失われる。
この童女は明らかに何かを知っている。思い当たる節がある。しかし、何かが童女の足を止めているような様子だった。
しばらく無言が続いた後、珠緒が柚子の視線まで下がり、ゆっくりと小さな頭をなでた。
「柚子は楓に元に戻って欲しい?」
沈黙を裂く珠緒の珍しく真面目な問いかけに、柚子はゆっくりと頭を縦に振った。
「私も同じ気持ち。元気な楓を見たい。でもそのためにはたくさん知らなきゃいけないことがあるの」
真面目なトーンの珠緒の言葉に、柚子は静かに頭を振り続けている。
「だからね、もしちょっとでも今思いついていることがあるなら教えて欲しい。楓を助けるために、力を貸して欲しいの」
珠緒の静かな説得に、柚子の動きが止まる。童女の止まった足をなんとか動かそうとぶつけた珠緒の言葉が、しっかりと童女を揺さぶっているように見えた。
そうして再び沈黙が流れた後、柚子はぎゅっと拳を作って語り始める。
「楓ちゃんに、いじわるなことしちゃったの」
童女の呟きが、神社の空気を揺らす。風音にかき消されそうな声に俺と珠緒は耳を澄ませる。
「ピアノは柚子がいいよって楓ちゃんがみんなに言って、柚子がやることになって……。でも、それがなんだか嫌で、帰る前に柚子言ったの、勝手なことしないでって。そしたら楓ちゃん怒って帰っちゃって……」
そこまで話して童女の言葉が止まる。その翌日以降、楓は感情を失ったように振舞うようになったのだろう。
「きっと柚子がわがまま言ったから、楓ちゃん、何も言わなくなっちゃったの。ほんとはごめんねってちゃんと言わないといけないのに……。柚子、どうすればいいんだろう」
途切れ途切れに童女は語る。自責の念があり、童女は口をつぐんでいたのだろうか。
話を聞くに、大方予想通り伴奏決めの後にいざこざがあって、それが原因で楓は感情を失ったようだ。
俺自身が少し驚いてしまうほど、想像通りの道筋を辿っている。となると、楓にどんなアプローチをかけるべきなのだろうか。
いや、まず目の前で感情を吐露してくれた童女を励ます方が先ではないか。
「大丈夫だよ、ありがとうね。ゆずゆずが勇気を出してお話してくれたおかげで、たくさんわかった。こうなったのはゆずゆずのせいじゃないよ。もちろんかえかえも悪くない」
しっかりと珠緒に先を越されてしまった。柚子の頭をなで続けながら、珠緒は話を続ける。
「友達同士でも喧嘩ぐらいするよ。みんないろんなことを考えて生きてるんだもん。私だって酷いこと言っちゃったな、って思うことたくさんあるよ」
「たまお姉ちゃんも?」
童女の視線が珠緒に向く。赤らんだ目を向けられた珠緒は、ニッコリと笑いながら答える。
「そうだよ。そのときはごめんねってちゃんと謝ればいいの。きっとかえかえはゆずゆずのことが大好きだから伴奏をして欲しいって思ったんだよ。きっと今も怒ってなんかないよ」
その気持ちすら、今は確認する手段がないことが厄介ではあるが、目の前の童女のためにも、楓をもとの姿に戻してやらねばなるまい。
「――柚子、楓ちゃんに元に戻って欲しい。楓ちゃんとお話がしたい」
しみじみと頷く俺をよそに、珠緒は話を続ける。
「ゆずゆずが謝りたいって思う気持ちはとっても大切なものだから、かえかえが元に戻ったら、一緒に謝りにいこうね」
珠緒の言葉に、柚子は目をこすりながらこくこくと頷いている。特に活躍の場面もないまま、珠緒に場を納められてしまった。
その後、柚子が落ち着くのを待って、俺と珠緒は童女を家へと送り届けた。暗がりに浮かぶ街灯を眺めながら、珠緒と俺は復路を辿る。




