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少女は瞳を閉ざさない  作者: 豆内もず
1話 忘れたい青年
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忘れたい青年

 俺は昔から死を遠ざける能力に長けていた。

 なんだか高尚なもののように聞こえるが、簡単に言うと運良く命拾いする事が多かった。

 目の前で交通事故が起こってもなぜか車は俺を避けていくし、身震いするほどの高所から何度落ちても必ず無傷で生還してきた。

 何度もそんな場面に出くわすという間の悪さはさておき、どうやら俺は生まれつきそういった運が強いらしい。


 しかしながら、神様がくれたとしか思えないこの幸運を、二十二年という人生の中で一度も私的に有効活用出来た覚えがなかった。

 現に今も、俺は真冬の水面に身を浮かべている。


 背中から伝わる刺すような痛みを噛み締めながら、ようやく俺の頭は今日の出来事を冷静に整理し始めた。


「ということで、自主退職してもらえるとありがたいんだが」

 寒さが本格的に深まってきた十二月の朝。事の始まりは上司から放られた身も凍るような一言だった。

 上司いわく、なにやら重要な商談が俺の責により破談になったらしい。しかも相手側が大層ご立腹のようで、俺が会社を辞めることを関係修復の条件に挙げてきたそうだ。

 恐ろしいことに、この一連の流れに俺はまったく心当たりがなかった。

 この商談にはサポートとして関わっていただけであり、そもそもそこまで相手を憤慨させるような態度をとれるほど関与していた記憶がないのだ。

 詳しく話を聞いてもなにやら煮え切らない言葉しか返ってこないこともあり、黒い陰謀を感じざるを得なかった。

 ばつの悪そうな上司を眺めながら、ふつふつと湧き上がる怒りとともに、あっさりと諦めの感情が湧き出てきた。

 もうここまで言われてしまっては、何をしても無駄なのではないだろうか。

 今後周りに白い目を向けられながら仕事をするリスクなどを勘案した結果、諸々の不平不満は飲み込むことにして、俺はおとなしく会社を去る決意を固めたのであった。


 用意された紙に辞職の意思を書き連ね、それを上司に手渡すという作業にそれほど時間はかからず、今後のことは追って連絡するという言葉を背に、出社後わずか三十分で会社を出ることとなった。なにやら退職金はそれなりに手当てしてくれるらしい。


 こうして、労基も真っ青な顛末であっさりと職を手放してしまったのが、今朝の話である。


 社宅に住んでいることもあり、数日中の退去を余儀なくされ、間もなく職なし宿なしになることが確定してしまった。

 不平不満を飲み込んだとはいえ自分の哀れさが悲しくなり、悲観と記憶を消し去るべく酒を飲み、出来る限り泥酔し、気が付けば一日の終わりに小さな川に身を浮かべている次第である。


 改めて一連の流れを思い返して、我ながらさらに情けない気持ちになった。あんなに毎日頑張っていたのにという感情が、白い溜息となって消える。

 星がなんだか遠くに感じるなぁ。このまま流れたらどこまで行けるんだろう。アルコールが思考を妨げる。それでも都合の悪い記憶は消えてくれない。

「いっそ死ねたら楽なのに」

 闇夜に呟きが溢れる。このまま沈んで、明日の朝刊の一面を飾るのも悪くないか。理不尽退社後、入水自殺。

「へへっ」

 くだらない妄想に、せせらぎのような笑みが漏れた。

 妄想を終え、俺はゆっくりと起き上がる。意識は朦朧としているが、なんとか立ち上がることができた。

 脛の高さほどの深さしかない川が、俺を笑うようにせらせらと流れている。

 バカにしやがって、と地団駄を踏む。ぱしゃりと勢いよく跳ねる水が、ゆっくりと水面へと帰っていく。

「はぁ……」

 再び溜息が漏れた。水はいいよな。俺には帰る場所もなくなるのに。

 水音の間抜けさがなんだかおかしくなって、俺は笑いながら再び水面に体を預けた。

 こんな浅い川に寝転がっていても、死ねるわけがない。こんな川を選んでしまうあたり、死なない運は絶好調なのかもしれない。

 ふう、と吐き出した息が白い帳を作る。吐息が晴れ、再び暗闇が広がる。水音だけが聞こえる環境に感覚が尖ったのか、俺は人の気配に気がついた。

 思ったよりも近い気配の元を見ると、なにやら人影がしゃがみこんでこちらを覗き込んでいるようだった。

 暗闇に目を凝らすと、見知らぬ少女がじっとこちらを見ていることがわかった。

 厚手のカーディガンを羽織り、いかにもコンビニ帰りといった袋を提げ少女は微笑む。

「自殺ですか?」

 ずぶ濡れな俺に、これでもかという程優しいトーンで冷言を放り込む少女。

 あまりの恥ずかしさに言葉が出ず、慌てて立ち上がる俺に少し驚きながら、少女は言葉を続ける。

「すいません違いますよね。ふふっ、つい、あまりにもひどい光景だったので……」

 少女は困ったように笑ったあと、こちらに慈悲の顔を向けた。

「大丈夫ですか? 風邪ひきますよ? よかったら使ってください」

 少女からタオルが手渡される。それと同時に俺は、ボディに重たい一撃をもらったボクサーのように膝から崩れ落ちた。

 あぁ、アルコール摂取量の限界が今ごろ来たのか。そんなことを考えながら、俺の意識は途絶えた。

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