《第8話 遭遇》
「……長さん。船長さんよ!」
回想の海に浸っていたアムットの目前に右冴姫の顔があった。
「うきゃあっ」
アムットは驚いて、悲鳴をあげながら後ずさる。
「うきゃあっ? どうした顔真っ赤だぞ」
「な、な、な、何でもないわよ」
「ならいいんだ。そろそろ一雨来そうだぜ」
右冴姫はすんすんと鼻を動かしながら空を見上げる。
「雨?」
釣られて見上げるが、青い空に白い雲が浮かんではいるが、迷惑なほどに主張する太陽と目が合いそうになり、慌てて逸らす。
アムットは少し眩んだ目を瞬きしながら抗議する。
「どこに雨雲があるのよ! 晴れ渡ってるじゃない!」
「そうか? オレ達しか分からないようだな。この匂いは。なあシルト?」
右冴姫に問われてシルトはうむうむと頷く。
「匂い? 匂いって何よ」
アムットも嗅覚に意識を集中させるが、感じたのは潮の匂いと、キセルから漂ってくる煙草の匂いだけだ。
「オレには分かるぜ。これは戦いの匂いだ。近いうちにきっと血の雨が降るだろうぜ。用心しなよ船長さん」
右冴姫はそれ以上何も言わずに、新しく用意した煙草に火をつけるのだった。
☆☆☆☆
それから数時間が経った頃、清々しいほどに晴れていた青空が突如現れた曇天に覆われ、雨が降り出す。
すぐさま雨はまるで、赤ん坊の大泣きのように、激しい雷雨となっていた。
雨風を遮るものがない甲板上には誰もいない……いや二人だけその場に残っている。
右冴姫とシルトの二人だ。
少年はマントに付いているフードを被ったまま、女エルフは火の消えたキセルをくわえたまま、胡座をかいて、濡れ鼠になりながら何かを待っているようだ。
「あの二人、何やってるの?」
避難した船内で、アムットは滝のように流れる水滴で見にくい窓から、二人のことを見ていた。
あれが客なら、無理やりでも船内の中に避難させるが、あの二人が外にいることを望んだのだ。
「それにしても、この雨いったい何? さっきまで空は晴れていたのに……しかもどんどん激しくなっていく」
アムットの疑問に答えられるものは周りにいる船員にはいなかった。
外は黒い雲で夜のように暗くなり、激しい雨と雷はその場に居合わせた《優雅に泳ぐ人魚号》だけを狙っているかのように降り注ぐ。
アムット達が突然の雨でパニックに陥っている時、外にいる二人は豪雨の中不敵に笑っていた。
「この嵐は普通じゃあねぇなあ」
「うむ。この嵐は恐らく何者かが引き起こしているのじゃろう。あの雲を見よ」
シルトが指差した先は空の上ではない。前方だ。船の四方を厚く黒い雲が覆い尽くしていた。
まるでこれから起こる事を外から見えなくするかのように……。
嵐に包まれた《優雅に泳ぐ人魚号》は魔法の力を持ってしても、船体の揺れを抑えることができなくなっていた。
船は激しく揺れ、乗っている人々は立っていられないほどで、収納している荷物が辺りに散らばる。
アムットと船員達は事態の収拾に乗り出していたが、乗客達の混乱は収められそうにない。
そして誰もが気づかない間に、《優雅に泳ぐ人魚号》はその尾びれの動きを止めていた。
「船の動きが止まってる?」
アムットは船の動きが止まったような気がして、乗客を助け起こしながら、近くにいた船員に声をかける。
「そうですか? こう激しく横揺れしていたら、動いているのかいないのか……」
「魔宝石の様子を見てくる。このお客様を頼むわ」
「あっ船長!」
アムットは介抱していた客を船員に預けて、魔宝石の元へ向かう。
彼女が向かったのは、船の下層中央にある動力室だ。
途中激しい波を受けて倒れこむ人を支え、床を転がる果物を飛び越え、斜めに傾く通路をバランスを崩さないように通り抜けていく。
そして動力室に駆け込んだ時、予想外の光景が目に飛び込んだ。
いつもは航行中はエメラルドとサファイアに輝く魔宝石が、灰色にくすんでいたのだ。
こんなことは今まで一度も遭遇したことのない異常事態だった。
部屋で忙しく作業していたドワーフの技師に対して思わず声を荒げてしまう。
「魔宝石の輝きが失われている。いったい何があったんだ!」
「分かりません。突然、嵐が来たと同時に魔宝石が力を失ってしまったようなんです」
技師は禿頭にたっぷりとかいた汗を袖で拭いながら困惑した表情で答えた。
「原因不明? 嵐が来てからこの状態なの?」
「そうです。何をしてもうんともすんとも言わないんです」
「このままじゃ、この船も嵐の波に呑み込まれう! いや、ちょっと待って……」
アムットは何かを考えるように小さい顎に手を当てる。
「どうしたんですか船長?」
「何でもない。早く原因を見つけて。一秒でも早くここから脱出しないと大変な事になるかもしれない!」
「あっ、船長どこへ!」
技師の言葉は走り去るアムットの耳には届かなかった。
(まさか、この嵐が、近頃船が行方不明になる事件と関係あるの?)
アムットは自分の疑問の答えを確かめるために、来た道を逆走していく。目指すは今も雨と風で嬲られる甲板だった。
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シルトと右冴姫は、激しい雨粒が耳障りな音楽を奏でる無人の甲板で、海を見つめていた。
「うるせえ雨だな、雷もゴロゴロとよ」
「ふむ。これが曲だとしたら、かなりの音痴じゃのう」
「さてジジイよ。どこからやってくるかな?」
「雲を抜けてくるか。いや海賊船を見たと言っていたから……海からじゃろうな。それとジジイと呼ぶでない。儂はそんな老けておらんぞ。男女」
「こんな美人のオレの何処が男女なんだよ」
二人は言い争いをしながらも、海面のある一点を見つめて続けていた。